2019年3月10日日曜日

蒲田、羽田、大森、名所江戸百景

名所江戸百景シリーズです。

前回は目黒を取り上げました(前回の続きはこちら)。

今回は、"蒲田の梅園"と"はねたのわたし 弁天の社"です。

まず、"蒲田の梅園"の方です。

春 27景 蒲田の梅園、1858年
2019年。写真だとなんとなく雰囲気残ってるんですが、梅園も公園として残ってるし。でも、行くと分かりますが、残念です。広重に描かれたのも勿論ですが、徳川将軍も、木戸孝允も伊藤博文も明治天皇も来られた名所なのに。

何故、ここが名所なのかと言うと、その名の通り梅園が有名だったんですね。平安時代の文献に、"武蔵国荏原郡蒲田郷"の記載があり、"梅木村"とも言われていたそうです。

何故、"梅木村"かと言うと、これもその名の通りで梅の木が沢山あったから。

江戸の時代になり、この地に東海道が通るようになって、東海道を利用する旅人達が、この梅を目にし、梅園には食事や酒を出す茶屋も出来たりして、観光地として確立していきます。

中でも、広重が描いた山本久三郎の梅園は3,000坪もの敷地を有しており大繁盛しました。

蒲田の梅園は、平安の頃からの歴史があったんですね。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

前回の目黒同様、この地も江戸ではありません(目黒は正確に言うと、本来なら江戸ではない所を、目黒不動があるが故に、強引に江戸の範囲に組み入れたんですが)。

江戸ではないから江戸図には描かれてませんので、明治13年頃の迅速測図で見てみましょう。

明治13年頃の蒲田の梅園

"梅"とありますね。

蒲田の梅園は、明治に入っても繁盛し続け、この迅速測図が描かれた明治10年代はまだまだ絶頂期だったようです。だから、地図にも、"梅"と書かれてるんですね。

しかし、周りを見ると田圃ばっかり。東海道筋とは言え、この辺りは、何も無かったんですね。蒲田の梅園の西側には"八幡社"や、"山野神社"の文字が確認できますが、こんなイメージでしょうか。。。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sasayama1.JPG

むしろ栄えていたらしいのは、東海道の東側です。視点を東側に移してみましょう。

蒲田の梅園の東側が栄えている。

よく見ると、東海道が内川を越す辺りから別れる村道(片側実線、片側点線)が南北に通っており、その通り沿いが栄えていたようです。

この道は羽田道と言い、羽田の弁財天、川向の川崎大師への参詣道であり、羽田で獲れた魚貝を江戸に運ぶ道でもありました。この道は、大森東中の所で2つに別れ(一方は村道、他方は荷車小径(一本実線)), 共に羽田に行き着きます。

東海道が内川を渡って直ぐ、ここを左に行くのが羽田道です。良い感じの古道感が出ていますね。
厳正寺、北条重時の六男である法円が文永9年(1272年)に海岸寺として創建
侮るなかれ、義経と縁のある社です。文治五年(1189年)に義経が郎党を率いて関東に至り、多摩川を渡った際、強風のため舟が押流され大森沖を漂流した。舟から望見される神社の森に海上の平穏を祈念したところ、風がおさまった。義経は舟を大森に着け里人に社の名を尋ねたところ厳島社であったので、その加護を感謝し社殿を修理して舟を付けた浜辺に注連竹に付着した海藻が海苔であったという。

それにしても、羽田の繁盛振りはスゴイですね。真っ黒になってます。

その羽田で広重が描いたのが、"はねたのわたし 弁天の社"です。

"はねたのわたし 弁天の社"は、"羽田の渡しから弁天の社を望む"と読みます。

夏 72景 はねたのわたし 弁天の社、1858年
場所は違うんですが、と、言うか、場所はむしろこっちが正しいかもしれないんですが、場所は、一応、羽田の渡しの渡し船の上からの景色で、羽田の渡しは今の高速大師橋の袂なんですが、そこからの景色だと弁天様(要島)がかなり遠くになり、広重の絵のようにはならないのです。広重の絵はデフォルメしたか、あるいは、羽田の渡しではなく、むしろ、私の写真の辺りからの風景だったかということになります。この写真の手前は海老取川だし、弁天様は、鳥居の右にバスがトンネルから出てきてますが、そのトンネルの向こうくらいの位置です。なので、ここもまた違うのかもしれないんですが、ここからの構図だと、ちょうど、穴守稲荷の鳥居が弁天様の鳥居のようになって上手い絵になりました。

広重の目線は下図のように東向きで、従って、遠く向こうに見えるのは、朝焼けの中の房総の山並みだということになります。朝一の渡しだったんでしょうか。

迅速測図、弁天様ははねたのわたしの東に位置している。弁天様がある、海老取川と東端の洲の間にある洲を要島と呼んだ。

何故ここが名所なのかというと、はねたのわたしの賑わい、美しい浜の様子(要島の由来は扇の要。上記迅速測図を南北逆(江戸からここに来た人の目線)に見て欲しい。すると、要島が扇の要の位置に来ることが分かる。この曲線が美しい浜は扇浜とも呼ばれた。), 蒸し蛤などもそうですが、やはり、弁天様だったと思います。

この弁天様は、厳島(安芸の宮島), 琵琶湖の竹生島、江ノ島と並ぶ日本四大弁財天の一つと言われていたそうで、弁天像は弘法大師の手によるものだと伝わります。

移設された弁天様

日本橋から17km, 3時間半の羽田。弁天様をお参りし、蒸し蛤を食べ、船で多摩川を渡り(旅の恥は掻き捨てと言いますが、川を渡るだけでも充分その気分になるようです。現に、盛り場というのは川沿いにあるものです、両国、向島もそうですね。), お大師様をお参りして、と、この全てがセットで名所だったのでしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

如何でしたでしょうか。

だから私は今回この2景をセットにしたんですが、江戸庶民は、この2景をセットにして、小旅行を楽しんだのではないかと思うのです。

東海道を行き、品川で遊んで終わるパターン。品川の誘惑には負けず、でも、やっぱり大森の誘惑に負けちゃったパターン。品川と大森の誘惑に負けず、無事、蒲田の梅園に辿り着き、でもこれだけじゃ足りないから羽田にも寄って、でもやっぱり帰り道、大森や品川に負けちゃうんですよね。

もう一つ。
江戸庶民の旅行先としてセットだっただけでなく、土地の記憶としてもセットだったようです。

この辺り一帯を六郷と言い、小田原北条の時代、行方氏に支配されていました。行方氏は羽田浦の水軍を統括していたようで、羽田神社は行方氏が創建しました。居館は梅園のすぐ近くです。羽田道は、行方氏居館と羽田浦を結ぶ道だったのかもしれません。

鎌倉時代に行方与次郎が牛頭天王を祀ったことに始まると言われています。が、行方与次郎は後北条の時代の人のようです。
円頓寺、行方氏館跡

0 件のコメント: