浄真寺所蔵伝吉良頼康 |
世田谷には、吉良氏所縁の寺社が多い。代表的なところでは、豪徳寺や勝光院がある。
吉良さんは随分と信心深い人だったんだなぁと思うのではなく、これは何か裏があるのではと、調べ始めたところ、色々と分かってきた。
これはシリーズでご報告したいと思うが、今回はその第一回。楽しむには、まず、当時の関東の戦国の世の様子を知る必要がある。
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時の奥州吉良家当主 吉良治家は、1356-1366年の頃、時の鎌倉公方 足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷を拝領され、その後、武蔵国世田谷郷も拝領されて、子の頼治を経て孫の頼氏(西条吉良氏、吉良俊氏の次男。奥州吉良氏、吉良頼治の養子に入った。)が世田谷城築城後は、世田谷に移った。頼氏の兄義尚と弟義真の生没年から、恐らく1430〜50年頃のことと思われる。
この100年という期間の終わり数十年以外は、大体において、関東は、平和だった。
が、犬懸上杉禅秀(氏憲)がこれを乱す。上杉禅秀の乱だ。1416年、関東管領犬懸上杉禅秀(氏憲)は、鎌倉公方四代将軍 足利持氏に反乱を起こす。結局、翌1417年の1月に、足利持氏が逃れた先の駿河国今川氏に攻め込まれ、犬懸上杉禅秀(氏憲)は自害し乱は終息した。
奥州での勢力争いに敗れた吉良氏を拾ってくれた鎌倉公方に恩義がある吉良氏は、この頃は、上野国碓氷郡飽間郷に在し鎌倉公方 足利持氏についていたものと思われる。
上杉禅秀の乱で、足利持氏についた扇谷上杉氏定は、重傷を負い、足利持氏鎌倉脱出に帯同出来ず、結局、藤沢で自害した。家督は長男の持定に譲るも、持定も、上杉禅秀の乱の僅か3年後に没する。家督は、次男の持朝に譲られた。1433年の頃と思われる。持朝、元服間も無い17の頃である。
持朝の名だが、扇谷上杉氏の通字は「定」で、扇谷上杉氏の当主は代々鎌倉公方の一字を当てていたことから、当時の鎌倉公方である足利持氏の「持」を当てようとしたが、没した兄が既に名としていた為、祖先の朝定から「朝」を当て、持朝となっている。
これ程までに、足利持氏に忠誠を尽くしていた扇谷上杉氏、持朝だが、足利持氏の、上杉禅秀の乱の残党狩りと称した幕府重鎮の宇都宮氏や佐竹氏を討伐したり、元号が変わっても前の元号を使い続けたりといった、幕府への反発を強めた動きに我慢ならず、関東管領 山之内上杉憲実と足利持氏の対立が元となっている永享の乱に、山之内上杉憲実側として参戦する。1439年のことだ。
その、扇谷上杉持朝の妾を妻としたのが、頼氏のひ孫に当たる吉良成高だ。吉良成高は、扇谷上杉氏と姻戚関係となったことで、扇谷上杉氏と行動を共にすることになる。同族である鎌倉公方足利氏から扇谷上杉氏に鞍替えしたわけだ。永享の乱が1439年だから、この頃は既に世田谷にいた。
永享の乱で敗れた足利持氏の四男、永寿王は、まだ幼少だったので許され、生き残った。その後、足利成氏と名乗り第五代鎌倉公方となったが、父を殺された恨みから、1454年、享徳の乱を起こす。第五代鎌倉公方 足利成氏は、管領山ノ内上杉氏・扇ヶ谷上杉氏とまたもや対立し、成氏は上杉氏を鎌倉から排除した。しかし、両上杉氏から応援の要請を受けた幕府から討伐軍が差し向けられ、成氏は戦いに敗れ鎌倉から古河の鴻巣の館に落ち延びてゆく。古河公方の始まりである。
第五代鎌倉公方 足利成氏が鎌倉を出て、幕府未公認の古河公方となったことで、幕府公認の鎌倉公方が不在となった為、幕府は、1458年、第八代室町幕府将軍 足利義政の弟政知を関東管領(幕府側の言い方。東国では、鎌倉公方。)に任命する。しかし、古河公方 足利成氏も、両上杉氏も、これを認めず、足利政知は鎌倉に入ることすら出来ず、伊豆韮山の地に留り、堀越公方となった。かくして、関東は、古河公方、堀越公方、両上杉氏の三つ巴の戦いとなった。
古河公方 足利成氏に対して、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、江戸城、岩槻城、川越城、 五十子城などを築いて共同して戦った。
1477年、山之内上杉家の家宰跡目を巡り、長尾景春が乱を起こす。長尾景春の乱だ。結局、扇谷上杉家家宰太田道灌の活躍により、乱は鎮圧された。が、収束の形は、長尾景春が最後頼った足利成氏との和睦で、この主導が山之内上杉家だったことに、扇谷上杉家は不満が残った。
この頃も、吉良氏は扇谷上杉家についていた。長尾景春の乱では、太田道灌が相模国に出陣した際、吉良成高が江戸城を守った。
長尾景春の乱は、言うなれば、山之内上杉家の御家騒動である。山之内上杉家は、完全に勢力を失った。同時に、長尾景春の乱は、扇谷上杉家太田道灌の活躍により鎮圧され、太田道灌の威光は大いに高まった。なんとか、上杉家庶流扇谷上杉家の力を落とさねばならない上杉家本家山之内上杉顕定は、太田道灌は扇谷上杉定正にとっても脅威なのではないかと唆し、扇谷上杉定正は、結局、太田道灌を殺してしまう。更に、扇谷上杉家家臣達は、英雄太田道灌が殺されたのを見て、山之内上杉家に鞍替えしてしまう有様となった。追い込まれた定正は、なんと、古河公方 足利成氏と手を組む。1488年のことだ。これが決定打となり、山之内上杉家と扇谷上杉家は対立する。長尾景春を味方につけたものの、多くの家臣が山之内上杉家に鞍替えされている扇谷上杉定正は、窮地に立たされた。そこで、扇谷上杉定正の子、朝良は、今川氏と、先に堀越公方を撃ち破っていた後北条氏と手を組むこととなった。これが、後北条氏関東進出の大きなきっかけとなった。
その後、後北条氏を驚異と感じた両上杉家は再び手を組み、後北条氏と対峙することになる。
1524年に、後北条氏と扇谷上杉氏との、河越城を巡る戦いが始まる。一連の戦いとして、同年には、江戸城が後北条氏に奪われる。1530年に、世田谷城は扇谷上杉家の攻撃を受けたとあるから、扇谷上杉家についていた吉良氏は、扇谷上杉家が後北条氏と手を組んだこの頃、1490-1500年ぐらいから後北条氏に接近し始め、河越城の戦いが始まる1524年には、後北条氏と同盟を組んでいたと思われる。1532年には、後北条氏綱の娘、崎姫を、吉良頼康(成高の子)は妻として向かい入れている。1537年、遂に、河越城は後北条氏に落ちる。1546年には、河越夜戦で河越城を死守した。後北条氏に追われた山之内上杉憲定は、1552年に、越後の長尾氏を頼り、長尾景虎、後の上杉謙信を養子に取り、反撃の機会を伺う。1561年、遂に、上杉謙信の小田原攻めが始まった。その時、上杉謙信勢は世田谷城近くを通過したが、名門吉良氏の居城世田谷城はスルーされた。1569年の武田信玄による小田原攻めの際も、別働隊が世田谷を通ったが、同じく、スルーした。が、1590年、遂に、秀吉により、小田原城が落ちる。世田谷城は、前田利家の担当だっだが、当時の世田谷城主吉良氏朝は、抵抗せずに、秘密裏に、城を抜け出し、品川道で品川に出て、舟で上総に逃げた。
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- (味方)鎌倉公方足利氏→(敵)犬懸上杉氏
- (味方)山之内・扇谷両上杉氏(この頃、世田谷に)→(敵)鎌倉公方足利氏、古河公方足利氏
- (味方)扇谷上杉氏→(敵)山之内上杉氏
- (味方)後北条氏→(敵)山之内・扇谷両上杉氏
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