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2013年3月31日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Summary / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、まとめ

1416年の上杉禅秀の乱を始まりとし、1590年の秀吉による小田原征伐まで200年近く続いた東国の戦乱だが、吉良氏が戦乱にドップリハマっていったのは、長尾景春の乱からだろう。

1476年、関東管領に次ぐ権力を持つ家宰職を与えられなかったことを深く恨んだ長尾景春は、山内・扇谷両上杉氏に対し乱を起こす。

扇谷上杉持朝の妾を妻とした吉良成高は、扇谷上杉氏と姻戚関係となったことで、扇谷上杉氏と行動を共にする。

太田道灌が1480年に高瀬民部少輔に与えた『太田道灌状』で、まず道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と記している。

この頃の敵は、長尾景春勢の豊島氏だ。

豊島氏は、練馬城、石神井城、平塚城を居城とした。世田谷城へは鎌倉道で接続できる。よって、吉良氏は、1470年頃から1483年頃までの長尾景春の乱に合わせ、鎌倉道沿いに寺社を建てている。

1. 1469~84年、鎌倉道太子堂八幡ルートに北沢八幡創建

北沢八幡

2. これは吉良治家が創建だから1300年代後半の創建だが、杓子稲荷神社も、鎌倉道世田谷元宿ルート上。立地も尾根道上で見晴らしが良い。長尾景春の乱の頃は、軍事的に大いに役立っただろう。

杓子稲荷

3. 今は川崎に移転しているが、泉澤寺は元烏山にあった。1491年、吉良頼高開基、好善和尚により、吉良氏菩提寺として開山した。鎌倉道西ルートから少し外れるものの、移転先で城砦の様を呈していたことから、烏山時代もそうだったと推定されている。実際、1537年には後北条氏家臣高橋氏高により烏山砦が築かれている。

泉澤寺推定跡地、ウテナ本社


より大きな地図で 長尾景春の乱、小沢原の戦い を表示

こうして扇谷上杉氏と共に戦ってきた吉良氏だが、長尾景春の乱終了後は、後北条氏と行動を共にし、扇谷上杉氏と戦うことになる。

1524年、北条氏綱の江戸城攻撃により、江戸城主扇谷上杉朝興は河越城に敗走、30数年に及ぶ扇谷上杉氏の江戸城支配は終わり後北条氏の武蔵支配が始まった。

1530年、扇谷上杉朝興は、先年の恥を挽回すべく、河越城より世田谷城と小沢城に攻め込む。しかし、小沢原の戦いで迎え撃った北条氏康は、小沢城を死守、世田谷城も奪還し、1537年には、扇谷上杉氏主城河越城も落とす。1546年には扇谷上杉氏の反撃を抑え、河越夜戦で扇谷上杉氏を滅亡へと追いやった。

世田谷から川越は北北西の向きだ。鎌倉道やその支道を意識しなければならない。長尾景春の乱に際して建てた寺社が、この時にも役に立ったことだろう。

世田谷城にとって扇谷上杉氏の念頭に置かなければならない敵地、もう一つは、深大寺城だ。

扇谷上杉氏、時の頭領、朝興が1537年に病死し、子、朝定が十三歳の若さで跡を継ぐと、それまで侵食されていた後北条氏に対して態勢を挽回すべく、廃城となっていた深大寺城を再興した。

深大寺城は、滝坂道で世田谷城と接続されている。長尾景春の乱終了後、最初の上杉勢と後北条勢の戦いは、1510年の権現山の戦いだ。この頃から扇谷上杉氏滅亡の1546年(河越夜戦)頃まで、吉良氏は、滝坂道沿いに寺社を建てている。

1. 世田谷八幡は、源義家が奥州征伐の帰りに立ち寄った伝説があるから1087年頃には既にあり、扇谷上杉氏の深大寺城とやりあっていた最中の1546年には吉良頼康が社殿を再興させている。むしろ、地形的には出丸と言っても良さそうだ。

世田谷八幡

2. 泉澤寺は、滝坂道にも近い。1537年の烏山砦は、扇谷上杉朝興の深大寺城再興に対抗して築かれた。

泉澤寺・烏山砦推定跡地、烏山神社

1546年に扇谷上杉氏滅亡後、敵は、越後の長尾景虎、後の上杉謙信と、甲斐武田信玄となる。

上杉謙信は、1560年に小田原侵攻している。上杉謙信の関東での居城は現在の群馬県前橋市、厩城だ。世田谷城の北北西に位置し川越も通る。河越城を居城とした扇谷上杉朝興と同様、鎌倉道が進軍ルートだ。長尾景春の乱の時に築いた寺社が役に立ったろう。

甲斐武田信玄は1569年だ。甲斐武田信玄は、滝坂道が、世田谷城への進軍ルートとなる。甲斐国国府は武蔵国国府府中と官道で接続されていた。律令の時代からだ。府中から下総国、あるいは武蔵国豊島郡衛とを結んでいたのは人見街道だ。人見街道から、武蔵境通りを経由し深大寺に出て、滝坂道から世田谷に進軍する。

吉良氏は、甲斐武田信玄の進軍に備え、扇谷上杉氏との攻防が終わった1546年以降にも滝坂道沿いに寺社を追加している。

1. 吉良頼康は、河越夜戦で扇谷上杉氏を滅亡に追いやった1546年、世田谷八幡を再興している。

2. 頼康、遅くとも1573年に、常徳院を船橋から宮の坂滝坂道沿いに移転

常徳院

3. 1573年前後、元吉良氏家臣で、1524年に後北条氏が扇谷上杉氏から江戸城を奪還後は江戸城御殿医だった松原氏が吉良氏に呼び戻され福昌寺開基

福昌寺

4. 1553年、頼康は、奥沢の大平清九郎に、廻り沢の内船橋谷板橋分、つるさし在家、かつ山谷山ちう次郎右衛門分、八幡の地を任せた。この時、八幡神社勧請か?!

八幡

5. 1558年、頼康、東覚院を大願時とし母堂祈願所とする。

東覚院


より大きな地図で 滝坂道と吉良氏所縁寺社 を表示

2013年3月9日土曜日

Templses and Shrines related to The Kira Family, Fukushyouji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、福昌寺

曹洞宗経堂山福昌寺

中国からの帰化人で、元江戸城御殿医、吉良氏家臣の松原土佐守彌右衛門が開基。

開山は、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この地の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけた。寛永3年(1626年)のことだ。

これまでご紹介してきた寺社と違い、吉良氏が直接開基や開山に関与したわけではないが、江戸城御殿医、吉良氏家臣、常徳院と来れば、吉良氏所縁の寺社だ。

松原土佐守彌右衛門は1588年没。常徳院は、遅くとも1573年にはあったとされるから、開基は1573年前後か。1573年と言えば、河越夜戦も終わっており、扇谷上杉氏は滅亡していて、山之内上杉氏は長尾景虎後の上杉謙信を頼り、江戸城は後北条氏の支配、吉良氏も後北条氏の家臣だ。

だから、松原土佐守彌右衛門は、後北条氏の居城である江戸城の御殿医で、家臣吉良氏によりここ世田谷の地に呼ばれ、福昌寺を開基したと考えられる。

この時代、後北条氏=吉良氏の敵は上杉謙信と武田信玄。実際、1561年には上杉謙信が、1569年には武田信玄が、小田原攻めの際、世田谷城を攻め込んだ(実際は、名門吉良氏の後光で通過のみ)。武田信玄の別働隊のルートは、六郷田無道か滝坂道で、福昌寺は滝坂道にある。

吉良氏、あるいは後北条氏は、武田信玄から世田谷城を守る為、松原土佐守彌右衛門を江戸城から呼び、武田信玄進軍ルートである滝坂道に、常徳院に続いて、福昌寺を開いたのだ。

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松原氏は、秀吉の小田原攻め、世田谷城廃城の後、この地の名主となった。

福昌寺から二子道(現農大通り)を南進し、烏山川を渡り、六郷田無道に至る台地を登ると経堂在家村の中心地だ。この辺りには松原姓の屋敷が多い。名主の子孫だ。

滝坂道に松原宿がある。この宿を開いたのは、吉良氏家臣松原佐渡守三兄弟だ。その子孫に松原土佐守彌右衛門がいる。

松原宿、あるいは松原地区と少し離れた経堂に松原姓が多いのは、一旦江戸城御殿医となり、再び世田谷に戻ったという経緯から来るものであろう。


より大きな地図で 常徳院、福昌寺 を表示

2013年2月26日火曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Sentakuji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、泉澤寺

泉澤寺私的推定跡地、ウテナ本社・世田谷文学館周辺

吉良氏が、長尾景春の乱において、豊島氏が練馬城、石神井城、平塚城の各居城から、鎌倉道太子堂八幡ルートと大山道を経由し世田谷城に進軍してくることを想定し、軍事的意味合いで開山せしめた元真言宗豊山派現浄土宗大吉寺。

その、大吉寺を末とするのが浄土宗宝林山泉澤寺だ。現在は、川崎市中原区にある。

泉澤寺は、元は烏山に、1491年、吉良頼高開基、好善和尚により、吉良氏菩提寺として開山した。

1491年といえば、長尾景春の乱の真っ最中。直ぐ南を走る鎌倉道西ルートは、十貫坂上で各鎌倉道と合流し、北上すれば豊島氏の練馬城、石神井城、平塚城に至る。

この泉澤寺も、豊島氏進軍ルートに開山された世田谷城守備の為の軍事拠点であったと考えるのが妥当だろう。


より大きな地図で 泉澤寺 を表示

その後、1549年には火災により焼失。吉良頼康(頼高の曽孫)が現在の地に移転した。

移転後の泉澤寺が、周囲に水濠を巡らすなど城塞化していた為、烏山の泉澤寺も世田谷城の砦として機能していたものとされている。

実際、1537年、扇谷上杉氏陣営の深大寺城に対抗し、北条氏康は、牟礼に高橋綱種による牟礼砦を、烏山に高橋氏高による烏山砦を築き牽制した。烏山砦は、泉澤寺跡地に築かれたとされている。

1491年から1537年までは、豊島氏を敵とし吉良氏により寺の形を維持したままの軍事的施設として機能し、1537年からは、上杉氏を敵とし後北条氏により本格的な砦として機能したのだ。

さて、泉澤寺跡地=烏山砦だが、2説ある。

  1. ウテナ本社、世田谷文学館周辺(冒頭写真)
  2. 烏山神社

私は、2説共、正しいのではないかと思っている。

冒頭の写真、ウテナ本社・世田谷文学館だが、丁度、横断歩道のところが烏山川に当たる。烏山川の向こうは僅かだが微高地となっている。又、地図を見て欲しい。世田谷城と同じように、烏山川が天然の水壕となっている。城には適した地形と言えよう。

一方、烏山神社だが、以下の写真を見て欲しい。

烏山神社拝殿の額。白山宮、御嶽宮と彫られている。
春日神社高橋番神堂撤去記念碑。ここに、高橋氏が勧請した三十番神を祭る堂があったことを示している。

高橋氏高は、北条氏綱の命により、雲見からこの地に移住した。雲見では、雲見上の山城を居城とし、雲見上の山城の正面にある烏帽子山の雲見浅間神社、又の名を御嶽浅間宮を氏神としていた。今でも雲見浅間神社の神主は、高橋氏の末裔が務めている。

烏山神社は元は御嶽神社だ。烏山神社は、高橋氏高が烏山に移住し、烏山砦築城の時、雲見の氏神を勧請したと考えられる。

更に、烏山神社の直ぐ北にある医王寺境外堂念仏堂は、泉澤寺の念仏道場として利用されたという。すると、ここまでは泉澤寺の寺領だったことになる。

医王寺境外堂念仏堂薬師様、室町期の作という。

1491年から1537年までは、現在のウテナ本社・世田谷文学館から念仏堂までの烏山川北側が泉澤寺寺領で、1537年高橋氏高が烏山砦築城の為、この地に移住した時に御嶽神社を勧請し、ここまでを烏山砦の城域としたと考える。

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と、投稿したのだが、後日の調べで、間違いがあるのでここに訂正する。

まず、烏山神社が元は御嶽神社という点だが、御嶽神社が古来より烏山の鎮守だったことは間違いないのだが、烏山神社の由緒をよく読むと、御嶽神社を白山神社に遷宮したとある。御嶽神社の元の場所の記述は無いが、文面から、ここではない何処かにあった御嶽神社を、この場所に遷宮したと考えるのが妥当だろう。

更に、新編武蔵国風土記稿には、医王寺持ちとある。

だから、高橋氏高が、雲見から移住の際、勧請したというのは間違いだ。

医王寺境外堂念仏堂と、烏山神社は、医王寺が平安末期開山だから、その後、1491年の泉澤寺開山までの間に、成立したものと思われる。

高橋氏高は、既にあった烏山神社に、三十番神を祀った。1537年の頃だ。

2013年2月16日土曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Kitazawa-hachiman / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、北沢八幡

北沢八幡
七沢八社隋一正八幡宮

世田谷七沢八八幡随一

鎌倉道太子堂八幡ルートの少し東に位置するこの北沢八幡は、今からおよそ500年前の文明年間(1469~84年)に、世田谷北辺の守護神として、吉良氏により創建された。

1469~84年というと、長尾景春の乱の真っ最中だ。長尾景春の乱のクライマックスは、江古田・沼袋原の戦いで、長尾景春側についた豊島氏の練馬城、石神井城、平塚城が、吉良成高属する山ノ内・扇谷両上杉氏側の、当面の敵だった。

地図を見て欲しい。


より大きな地図で 北沢八幡 を表示

練馬城、石神井城、平塚城の位置(3城とも赤ポイント)、江古田・沼袋原の戦場(緑ポイント)は、鎌倉道(緑ライン)が通っている。つまり、豊島氏が、世田谷城に進軍する場合、正に、このルートを通るのだ。

北沢八幡は、豊島氏から世田谷城を守る最前線の砦として、創建された。

この眺望を見てほしい。

北沢八幡、南の眺望。多摩川まで見えただろう。

こうなってくると、北沢八幡から世田谷城へのルート上にある他の寺社にも、軍事的意味合いを求めたくなる。

まずは、より北に位置する滝坂道(赤ライン)だ。

・杓子稲荷神社

長尾景春の乱の頃、既に創建されていた杓子稲荷神社は、創建当時こそ、純粋に鬼門鎮護の為、創建されたと思うが、長尾景春の乱の頃には、軍事的意味合いを持つ様になったものと推定する。

杓子稲荷神社は、北沢八幡から世田谷城へのルートである滝坂道付近にあるが、その立地は、鎌倉道世田谷宿ルート上でもある。鎌倉道世田谷宿ルートは、笹塚で、鎌倉道太子堂八幡ルートと接続している。

杓子稲荷神社から北に進み東を見るとこの道が尾根道だということが分かる。見晴らしが良かっただろう。鎌倉道太子堂八幡ルートを南進する豊島氏の軍勢が良くみえたはずだ。

鎌倉道世田谷元宿ルート、杓子稲荷神社から北に進んだ地点の東の眺望。
見晴らしが良く、尾根道だということが良く分かる。

非常に重要な軍事的意味合いを持っていただろう。

次は大山道だ。

・太子堂八幡

創建は、源頼義・義家親子が奥州征伐に向かった1061年。長尾景春の乱の頃は既にここにあった。ここはこの南の烏山川が削った谷に向かう下り坂となっている。勢いよく下ってきた軍勢にカウンターで迎撃したのか。

・駒留八幡

創建は1308年、北条左近太郎こと、北条維貞の勧請。長尾景春の乱の時、既にここにあった。世田谷城の砦として活用されたろう。

・大吉寺

今は浄土宗だが、元は、勝国寺と同じく真言宗豊山派。吉良氏祈願所。開山年は不明。1491年開山の烏山泉澤寺の末。泉澤寺開山からすぐ開山したのだとしたら、ここ大吉寺も、軍事的意味合いがあったろう。

2013年2月13日水曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Shyakushi-inari / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、杓子稲荷神社

杓子稲荷神社

とても、とても小さな神社。が、歴史は古い。

創建年不明も、吉良治家、世田谷城鬼門鎮護の為、この地に伏見稲荷を勧請したという。

治家というと、1300年代後半から1450年頃に孫の頼氏が世田谷城を築城し、その後、ここ世田谷に移り住んだのだが、年齢から察するに、治家が世田谷に来たのは1400年頃と思われる。すると、1416年の上杉禅秀の乱より前なので、関東は、一先ずの安定期。この道が、上野国碓氷郡飽間郷と世田谷とを結ぶ鎌倉道だったことを合わせ持って考えると、砦ではなく、純粋に、世田谷城の鬼門鎮護で創建したものと思われる。尚、この頃の世田谷城は、本格的に城として改築する前の館だったものと思われる。城としての改築は、頼氏以降だからだ。


より大きな地図で 杓子稲荷神社 を表示

2013年2月10日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Jyoutokuin / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、常徳院

曹洞宗観谷山常徳院

開基、開山不明も、吉良氏印判状によると、中地山城守が吉良氏朝の命を奉じ十一面観音菩薩に立願し、仏供免田二百疋を進呈したその宛名が浄徳庵となっている事から、その印判状の日付、少なくとも元亀四年(1573年)には、この寺があったものとされる。

元は、現在船橋観音堂があった場所にあった浄徳庵で、吉良氏朝が世田谷城近くに移転させた。

船橋観音堂

現在の場所は、世田谷城の西、滝坂道沿いだ。1573年なら、敵は越後上杉謙信や甲斐武田信玄。滝坂道といえば、甲州街道に続く道。武田信玄からの防御の為、氏朝は移転させた。


より大きな地図で 常徳院

2013年2月9日土曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Jyouzaiji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、常在寺

日蓮宗宝樹山常在寺

常にそこに在る寺、ありがたい。

身延山久遠寺の末。開山は忠善院日純聖人で永正3年(1506)8月、開基は大平出羽守の娘、吉良頼康の妻、常盤御前、法号宝樹院殿妙常日義大姉「大永3年(1523)4月13日卒。

常盤御前といえば、世田谷には悲しい伝説が残る。ここ(http://www.okusawa.jp/sinkoukai/rekisi/okusawajyou/tokiwa1.htm)に詳しい。

1506年というと、吉良氏が扇谷上杉氏から後北条氏に乗り返しつつある頃。未だ江戸城も河越城も落としていない。警戒すべきは北、東だと思うが、ここ常在寺は世田谷城の南、室町期鎌倉道沿い。曹洞宗、真言宗てはなく日蓮宗であるし、頼康は、『法華嫌い』だったそうだから、世田谷城の砦として開山したというより、純粋に常盤御前が信心から開基したものとみる。

常在寺遠景、鎌倉道から続く参道から

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2013年2月8日金曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Shyoukokuji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、勝国寺

真言宗豊山派青龍山勝国寺

山号の、「青龍」は、近くを烏山川が流れているからか。

開基は、吉良成高の子、政忠。1554年、世田谷城裏鬼門除けの為、政忠12石を寄進し開山なる。

円光院、円乗院、多聞寺、泉竜寺、善性寺、密蔵院を末とした、小本寺の格を持つ。

1554年といえば、扇谷上杉氏は既に滅亡、甲斐武田氏と越後長尾氏=後の上杉謙信は、まだ、関東には手を付けずの状態だった為、関東は後北条氏の天下、当面の脅威は無かった。

さすれば、烏山川の手前で、東からの敵から守るという防御の意味合いはあったろうが、具体的に、誰のどの城という様な想定は無かったと見る。

後に、上杉謙信が関東に進出してくる1560年以降は、重要な意味を持つ様になる。


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2013年1月27日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社

浄真寺所蔵伝吉良頼康

世田谷には、吉良氏所縁の寺社が多い。代表的なところでは、豪徳寺や勝光院がある。
吉良さんは随分と信心深い人だったんだなぁと思うのではなく、これは何か裏があるのではと、調べ始めたところ、色々と分かってきた。

これはシリーズでご報告したいと思うが、今回はその第一回。楽しむには、まず、当時の関東の戦国の世の様子を知る必要がある。

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時の奥州吉良家当主 吉良治家は、1356-1366年の頃、時の鎌倉公方 足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷を拝領され、その後、武蔵国世田谷郷も拝領されて、子の頼治を経て孫の頼氏(西条吉良氏、吉良俊氏の次男。奥州吉良氏、吉良頼治の養子に入った。)が世田谷城築城後は、世田谷に移った。頼氏の兄義尚と弟義真の生没年から、恐らく1430〜50年頃のことと思われる。

この100年という期間の終わり数十年以外は、大体において、関東は、平和だった。

が、犬懸上杉禅秀(氏憲)がこれを乱す。上杉禅秀の乱だ。1416年、関東管領犬懸上杉禅秀(氏憲)は、鎌倉公方四代将軍 足利持氏に反乱を起こす。結局、翌1417年の1月に、足利持氏が逃れた先の駿河国今川氏に攻め込まれ、犬懸上杉禅秀(氏憲)は自害し乱は終息した。

奥州での勢力争いに敗れた吉良氏を拾ってくれた鎌倉公方に恩義がある吉良氏は、この頃は、上野国碓氷郡飽間郷に在し鎌倉公方 足利持氏についていたものと思われる。

上杉禅秀の乱で、足利持氏についた扇谷上杉氏定は、重傷を負い、足利持氏鎌倉脱出に帯同出来ず、結局、藤沢で自害した。家督は長男の持定に譲るも、持定も、上杉禅秀の乱の僅か3年後に没する。家督は、次男の持朝に譲られた。1433年の頃と思われる。持朝、元服間も無い17の頃である。

持朝の名だが、扇谷上杉氏の通字は「定」で、扇谷上杉氏の当主は代々鎌倉公方の一字を当てていたことから、当時の鎌倉公方である足利持氏の「持」を当てようとしたが、没した兄が既に名としていた為、祖先の朝定から「朝」を当て、持朝となっている。

これ程までに、足利持氏に忠誠を尽くしていた扇谷上杉氏、持朝だが、足利持氏の、上杉禅秀の乱の残党狩りと称した幕府重鎮の宇都宮氏や佐竹氏を討伐したり、元号が変わっても前の元号を使い続けたりといった、幕府への反発を強めた動きに我慢ならず、関東管領 山之内上杉憲実と足利持氏の対立が元となっている永享の乱に、山之内上杉憲実側として参戦する。1439年のことだ。

その、扇谷上杉持朝の妾を妻としたのが、頼氏のひ孫に当たる吉良成高だ。吉良成高は、扇谷上杉氏と姻戚関係となったことで、扇谷上杉氏と行動を共にすることになる。同族である鎌倉公方足利氏から扇谷上杉氏に鞍替えしたわけだ。永享の乱が1439年だから、この頃は既に世田谷にいた。

永享の乱で敗れた足利持氏の四男、永寿王は、まだ幼少だったので許され、生き残った。その後、足利成氏と名乗り第五代鎌倉公方となったが、父を殺された恨みから、1454年、享徳の乱を起こす。第五代鎌倉公方 足利成氏は、管領山ノ内上杉氏・扇ヶ谷上杉氏とまたもや対立し、成氏は上杉氏を鎌倉から排除した。しかし、両上杉氏から応援の要請を受けた幕府から討伐軍が差し向けられ、成氏は戦いに敗れ鎌倉から古河の鴻巣の館に落ち延びてゆく。古河公方の始まりである。

第五代鎌倉公方 足利成氏が鎌倉を出て、幕府未公認の古河公方となったことで、幕府公認の鎌倉公方が不在となった為、幕府は、1458年、第八代室町幕府将軍 足利義政の弟政知を関東管領(幕府側の言い方。東国では、鎌倉公方。)に任命する。しかし、古河公方 足利成氏も、両上杉氏も、これを認めず、足利政知は鎌倉に入ることすら出来ず、伊豆韮山の地に留り、堀越公方となった。かくして、関東は、古河公方、堀越公方、両上杉氏の三つ巴の戦いとなった。

古河公方 足利成氏に対して、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、江戸城、岩槻城、川越城、 五十子城などを築いて共同して戦った。

1477年、山之内上杉家の家宰跡目を巡り、長尾景春が乱を起こす。長尾景春の乱だ。結局、扇谷上杉家家宰太田道灌の活躍により、乱は鎮圧された。が、収束の形は、長尾景春が最後頼った足利成氏との和睦で、この主導が山之内上杉家だったことに、扇谷上杉家は不満が残った。

この頃も、吉良氏は扇谷上杉家についていた。長尾景春の乱では、太田道灌が相模国に出陣した際、吉良成高が江戸城を守った。

長尾景春の乱は、言うなれば、山之内上杉家の御家騒動である。山之内上杉家は、完全に勢力を失った。同時に、長尾景春の乱は、扇谷上杉家太田道灌の活躍により鎮圧され、太田道灌の威光は大いに高まった。なんとか、上杉家庶流扇谷上杉家の力を落とさねばならない上杉家本家山之内上杉顕定は、太田道灌は扇谷上杉定正にとっても脅威なのではないかと唆し、扇谷上杉定正は、結局、太田道灌を殺してしまう。更に、扇谷上杉家家臣達は、英雄太田道灌が殺されたのを見て、山之内上杉家に鞍替えしてしまう有様となった。追い込まれた定正は、なんと、古河公方 足利成氏と手を組む。1488年のことだ。これが決定打となり、山之内上杉家と扇谷上杉家は対立する。長尾景春を味方につけたものの、多くの家臣が山之内上杉家に鞍替えされている扇谷上杉定正は、窮地に立たされた。そこで、扇谷上杉定正の子、朝良は、今川氏と、先に堀越公方を撃ち破っていた後北条氏と手を組むこととなった。これが、後北条氏関東進出の大きなきっかけとなった。

その後、後北条氏を驚異と感じた両上杉家は再び手を組み、後北条氏と対峙することになる。

1524年に、後北条氏と扇谷上杉氏との、河越城を巡る戦いが始まる。一連の戦いとして、同年には、江戸城が後北条氏に奪われる。1530年に、世田谷城は扇谷上杉家の攻撃を受けたとあるから、扇谷上杉家についていた吉良氏は、扇谷上杉家が後北条氏と手を組んだこの頃、1490-1500年ぐらいから後北条氏に接近し始め、河越城の戦いが始まる1524年には、後北条氏と同盟を組んでいたと思われる。1532年には、後北条氏綱の娘、崎姫を、吉良頼康(成高の子)は妻として向かい入れている。1537年、遂に、河越城は後北条氏に落ちる。1546年には、河越夜戦で河越城を死守した。後北条氏に追われた山之内上杉憲定は、1552年に、越後の長尾氏を頼り、長尾景虎、後の上杉謙信を養子に取り、反撃の機会を伺う。1561年、遂に、上杉謙信の小田原攻めが始まった。その時、上杉謙信勢は世田谷城近くを通過したが、名門吉良氏の居城世田谷城はスルーされた。1569年の武田信玄による小田原攻めの際も、別働隊が世田谷を通ったが、同じく、スルーした。が、1590年、遂に、秀吉により、小田原城が落ちる。世田谷城は、前田利家の担当だっだが、当時の世田谷城主吉良氏朝は、抵抗せずに、秘密裏に、城を抜け出し、品川道で品川に出て、舟で上総に逃げた。

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  1. (味方)鎌倉公方足利氏→(敵)犬懸上杉氏
  2. (味方)山之内・扇谷両上杉氏(この頃、世田谷に)→(敵)鎌倉公方足利氏、古河公方足利氏
  3. (味方)扇谷上杉氏→(敵)山之内上杉氏
  4. (味方)後北条氏→(敵)山之内・扇谷両上杉氏
正に、昨日の味方は今日の敵。強そうなところを嗅ぎ分けて海原を泳いでいかないと生き残れない、そういう状態だったのだ、関東は。