泉澤寺私的推定跡地、ウテナ本社・世田谷文学館周辺 |
吉良氏が、長尾景春の乱において、豊島氏が練馬城、石神井城、平塚城の各居城から、鎌倉道太子堂八幡ルートと大山道を経由し世田谷城に進軍してくることを想定し、軍事的意味合いで開山せしめた元真言宗豊山派現浄土宗大吉寺。
その、大吉寺を末とするのが浄土宗宝林山泉澤寺だ。現在は、川崎市中原区にある。
泉澤寺は、元は烏山に、1491年、吉良頼高開基、好善和尚により、吉良氏菩提寺として開山した。
1491年といえば、長尾景春の乱の真っ最中。直ぐ南を走る鎌倉道西ルートは、十貫坂上で各鎌倉道と合流し、北上すれば豊島氏の練馬城、石神井城、平塚城に至る。
この泉澤寺も、豊島氏進軍ルートに開山された世田谷城守備の為の軍事拠点であったと考えるのが妥当だろう。
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その後、1549年には火災により焼失。吉良頼康(頼高の曽孫)が現在の地に移転した。
移転後の泉澤寺が、周囲に水濠を巡らすなど城塞化していた為、烏山の泉澤寺も世田谷城の砦として機能していたものとされている。
実際、1537年、扇谷上杉氏陣営の深大寺城に対抗し、北条氏康は、牟礼に高橋綱種による牟礼砦を、烏山に高橋氏高による烏山砦を築き牽制した。烏山砦は、泉澤寺跡地に築かれたとされている。
1491年から1537年までは、豊島氏を敵とし吉良氏により寺の形を維持したままの軍事的施設として機能し、1537年からは、上杉氏を敵とし後北条氏により本格的な砦として機能したのだ。
さて、泉澤寺跡地=烏山砦だが、2説ある。
- ウテナ本社、世田谷文学館周辺(冒頭写真)
- 烏山神社
私は、2説共、正しいのではないかと思っている。
冒頭の写真、ウテナ本社・世田谷文学館だが、丁度、横断歩道のところが烏山川に当たる。烏山川の向こうは僅かだが微高地となっている。又、地図を見て欲しい。世田谷城と同じように、烏山川が天然の水壕となっている。城には適した地形と言えよう。
一方、烏山神社だが、以下の写真を見て欲しい。
烏山神社拝殿の額。白山宮、御嶽宮と彫られている。 |
春日神社高橋番神堂撤去記念碑。ここに、高橋氏が勧請した三十番神を祭る堂があったことを示している。 |
高橋氏高は、北条氏綱の命により、雲見からこの地に移住した。雲見では、雲見上の山城を居城とし、雲見上の山城の正面にある烏帽子山の雲見浅間神社、又の名を御嶽浅間宮を氏神としていた。今でも雲見浅間神社の神主は、高橋氏の末裔が務めている。
烏山神社は元は御嶽神社だ。烏山神社は、高橋氏高が烏山に移住し、烏山砦築城の時、雲見の氏神を勧請したと考えられる。
更に、烏山神社の直ぐ北にある医王寺境外堂念仏堂は、泉澤寺の念仏道場として利用されたという。すると、ここまでは泉澤寺の寺領だったことになる。
医王寺境外堂念仏堂薬師様、室町期の作という。 |
1491年から1537年までは、現在のウテナ本社・世田谷文学館から念仏堂までの烏山川北側が泉澤寺寺領で、1537年高橋氏高が烏山砦築城の為、この地に移住した時に御嶽神社を勧請し、ここまでを烏山砦の城域としたと考える。
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と、投稿したのだが、後日の調べで、間違いがあるのでここに訂正する。
まず、烏山神社が元は御嶽神社という点だが、御嶽神社が古来より烏山の鎮守だったことは間違いないのだが、烏山神社の由緒をよく読むと、御嶽神社を白山神社に遷宮したとある。御嶽神社の元の場所の記述は無いが、文面から、ここではない何処かにあった御嶽神社を、この場所に遷宮したと考えるのが妥当だろう。
更に、新編武蔵国風土記稿には、医王寺持ちとある。
だから、高橋氏高が、雲見から移住の際、勧請したというのは間違いだ。
医王寺境外堂念仏堂と、烏山神社は、医王寺が平安末期開山だから、その後、1491年の泉澤寺開山までの間に、成立したものと思われる。
高橋氏高は、既にあった烏山神社に、三十番神を祀った。1537年の頃だ。
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