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2022年8月6日土曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、【番外編】大師道

このシリーズの前回、横大道を行きました。

横大道は、鎌倉街道下道、中道、上道を結ぶ連絡路であり、羽田や品川、その周辺から武蔵御嶽神社へ参拝する御嶽道、でもあったという話をしました。

羽田や品川の御嶽講の人達は、羽田道で穴守稲荷神社、弁天様をお参りし、羽田の渡しで多摩川を渡河して川崎大師を参り、そこからは大師道を使い小杉村まで来ていたそうです。

そこで今回は、マイナー鎌倉街道シリーズ番外編として、前回紹介の横大道 = 御嶽道の続編として、近代御嶽講のルート通りに、大師道をexploreしたいと思います。

◆□■◇

多摩川サイクリングロードで一気に穴守稲荷の旧一の鳥居まで。

しかし、二子玉から先の多摩川左岸は走りづらいですな。

何度も訪れてますが改めて、広重も描いた、"はねたのわたし弁天の社" の今の風景です。

はねたのわたし弁天の社、2022/8/6

広重が描く程の名所とあれば、寄らないわけには行きませんね、御嶽講といえども。

歌川広重、名所江戸百景より、はねたのわたし弁天の社、1858。それにしても広重構図ですね。船頭の膝の辺りにあるのが弁天様、今の羽田空港のトンネル出口付近で、ここに、弁天様と穴守稲荷がありました。

今は、鈴木新田に波の侵食によって開いた穴を守る(塞いだ穴が再び大きくならないようにする。)稲荷と弁天様は、この風景の中にはありません。

敗戦によって今の場所に移転させられました。

今の穴守稲荷神社

今の弁天様、外観は見る影も無い

しかし、弁天様は今でも美しく、スマホの方は是非クリックしてピンチアウトしてzoom upしてご覧ください。

さぁ、羽田道で羽田の渡しに向かいます。

羽田道の鷗稲荷

羽田の渡し

程無く、川崎大師です。

仲見世

川崎大師

寺伝によれば、1128年開創、平間兼乗開基の古寺です。

漁師兼乗はある日、網の中に弘法大師の像を引き上げ、洗い清め、花を捧げ、小堂を建てお祀りしていた所、高尾山尊賢上人これを見て、開山となって平間寺を開創、という縁起です。

浅草寺と全く同じですね。

1813年には、11台将軍家斉も厄除けで訪れたとあっては、御嶽講もお参りししないわけには行きません。

と、御嶽講はここにも寄り道して、大師道を小杉に向かうのでした。

その道筋で、面白そうな話が残る私なりの名所に寄り道しながら、小杉に向かいましょう。

まずは薬王山医王寺です。

薬王山医王寺

風土記によれば、

"開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。"

と、彼の伝教大師最澄の従者が開山、801年、あるいは805年と言われる古寺です。

先を行きましょう、下平間村の天満天神社です。

寂れに寂れた

ここの縁起が興味深い。

"当社の由来については、創立年代は不詳であるが「新編武蔵風土記稿」に、「当社は村の北方にあり、神体は木の坐像にて長さ一尺二寸余、社辺に松樹数株あり。小倉村無量院の別当なり」と記されている。また、下平間の旧家に伝わる古文書(弘化三年[1846]記)によると、「武州多摩郡谷保村天神社伝記に、延喜三年[903]二月二十三日父君菅原道真公筑紫にて薨去(五十九歳)なされたと聞き三男道武公悲嘆のあまり、父君の尊像を自ら模刻し孝道の誠を尽くされた。その後、道武公その尊像を供奉し、谷保村に来たり一社を草創しこれを安置した。

こののち道武公当地縣主、上平貞盛の女を娶り一子を得、その子を菅原道英と号す。それより六世の孫津戸三郎為守、菅原道真公の尊像を供奉し、当地(下平間)に来住し一社を建立する」と記されており、当初は一氏族の、氏神としての性格が強かったようでありますが、年月が経つにつて、下平間の鎮守として祀られるようになり村民の信仰を集め現在に至っている。また、江戸時代の再建と思われる社殿は第二次世界大戦の末期、昭和二十年四月十五日の川崎大空襲によりことごとく焼失し、かっての面影はない。しかし昭和四十年九月氏子の寄進により、現在の社殿が再建された。(境内石碑より)"

どっかで聞いたことあるぞ、ということで、谷保天満宮の縁起を改めて確認してみると、

"昌泰四年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。延喜三年父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りである。天暦元年京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。建治三年後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められる。

その後、道武公の裔孫津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てるが、養和元年十一月三日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、 社務六院を置き祀典を司どった。明治十八年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。"

と、いうことで、とてもよく似ています。

ここ天満天神社は、谷保天満宮旧地からここ下平間に還した、とし、谷保天満宮は、旧地から今の谷保天満宮の位置に還したとしています。

先を行きましょう、同じく下平間村の稱名寺です。

称名寺

開創時期不詳も、当初、真言宗寺院として創建され、1300年前後、浄土真宗へ改めたとのことです。

ここで面白い話が。

浄土真宗へ改宗時、不要になった弘法大師像を多摩川に捨てたそうで、それが、下流で平間兼乗が網にかけた弘法大師像だということです、風土記によれば。

更に、赤穂浪士所縁の寺としても有名で、大石内蔵助が吉良上野助邸へ討入りを果たす前に、この付近に滞在していたものとされています。

これまた意外な名所でした。

ここで、ちょっと道筋からは外れますが、多摩川方面に行ってみます。古市場村です。

理由はこれです。

三日月湖、天満天神社と称名寺に赤点

はい、迅速測図の時代(1880〜1886)には、ここに、三日月湖があったんですね。

元の流路はこっち、ということです。今は公園になってます。

多摩川旧流路、三日月湖

この大師道、よく見ると、道の両サイドが茶色でゲジゲジに描かれているんですが、これは、土手道を表しています。

つまり、この道は土手道、堤道、防波堤なんですね。

なのでその内側にはこのような三日月湖が残っている、そういうことになります。

先を行きましょう、今井神社です。

今井神社

ここは、頼朝の時代に、小宮筑後守道康(重康とも)の霊を祀ったという伝承があり、この辺りには小宮筑後守道康(重康とも)の居館があったとされています。

いやいや、頼朝の時代とは、こんな、いつ洪水が起きてもおかしくないエリアに、意外な古社ですね。

しかし、この、小宮筑後守道康(重康とも)、西党小宮氏かな、なんて想定しながら探しましたが出てきません。

記事によっては、畠山重忠のことだ、というのもありました。

この少し先から府中街道を離れ旧道に入り、中原街道に出合う所に油屋の庚申塔があります。

油屋の庚申塔

十字を油屋の庚申塔の立つ位置に配置、迅速測図の時代(1880〜1886)には府中街道はここを通っていた。

つまり、道標を兼ねていた、ということになります。1843年に建立、"南大師道" と彫られています。

クリックして選択しピンチアウトしてzoom upしてみて下さい。

◇■□◆

如何でしたでしょうか。

酷暑続きで3週間振りのサイクリングでしたので、どフラットのコースにしてみました。

暑さもそれ程でなく、曇で写真は映えませんが、まぁ、良しとしましょう。

2021年10月4日月曜日

狭山三十三観音巡礼道

天明8年(1788)に、金乗院の亮盛和尚と妙善院の万杲和尚が開創しました。

一番が金乗院で三十三番が妙善院となっていて、狭山丘陵の縁を、逆 "の" の字を描くように配置されています。全長約30km。



天明と言えば歴史の授業で習いました。天明の大飢饉。私は、これが、狭山観音巡礼開創の一因であったと思います。
  • 天明の大飢饉
    天明2年、3年は天候不順で、異常低温、多雨、洪水が発生、追い打ちをかけるように浅間山の大噴火で、天候不順と降灰で作物は育たず、飢饉となりました。この飢饉は翌4年にも続きます。天明5年は良かったですが、翌6年は再び異常乾燥、洪水(浅間山噴火の降灰により川床が上昇)により大凶作となりました。これもやはり翌7年まで影響しました。天明の大飢饉で全国で約90万人が餓死したと言われています。
  • 武州村山騒動
    天明4年、とうとう、ここ武州村山で、米などの買い占めをしていた豪農に対する打ち壊しが発生しました。
こういった事態から民を救う為、観音巡礼を開創したものと思われます。観音信仰は現世利益と結びついています。この飢饉をどうにかしてください、民のそういう思いを汲み取るということだったんでしょう。

◇■□◆

多摩湖自転車歩行者道で多摩湖へ。

いつものカット

多摩湖北岸に回り込み、一番札所金乗院です。ここは二回目です。

金乗院、本堂

風土記によれば、

"山口観音と號す、此邊昔は近村をすべて山口と號せし故にかく呼べるなり、天正十九年観音堂領十石の御朱印を給ひしより、今も御朱印の地なり、本尊は千手観音行基菩薩の作にして、弘法大師の開基と云、さればことに古跡にして、諸方よりも詣る人多し・・・"

と、観音巡礼一番札所に相応しい歴史です。

さて、三十三観音全てを巡っては時間も掛かるし、今回は道に焦点を当てて、お寺はポイントのみ巡ります。

三番札所の六斎堂、四番札所の正智庵、五番札所の勝光寺をやり過ごし、二番札所の仏蔵院を訪れます。ここも二回目です。

仏蔵院、本堂

風土記によれば、

"辰爾山佛蔵院大坊と號す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺の末、本尊十一面観音を安ず、相傳ふ當寺は殊に古き寺院にて、往昔百済より帰化せし儒生王仁が五代の孫、王辰爾が子、其父の菩提の爲に開闢せし伽藍なりと云、又王辰爾此地にて終焉せしとも云・・・"

王辰爾は6世紀後半の人物ですから、金乗院をも凌ぐ相当な古寺ということになります。

六番札所瑞岩寺、七番札所普門院をやり過ごし、八番札所新光寺です。ここも二回目でした。

新光寺、本堂

猫の足あとによれば、

"新光寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられ、源頼朝が建久4年(1193)那須野へ向かう途中に田地を寄進したといいます・・・"

とのことで、こちらも三十三観音を代表する古寺です。

新光寺まで、東へと向かっていた巡礼道はここで南へと向きを変えます。

所沢駅を通り過ぎ、九・十番札所梅岩寺、十一・十二番札所徳蔵寺をやり過ごして、十三番札所正福寺です。

正福寺、国宝地蔵堂、1407年建立

風土記によれば、

"金剛山と号す。臨済宗、鎌倉建長寺の末なり。今御朱印10石を賜ふ。開山心月禅師文永年中示寂す。開基は北条相模守時頼なりと云。今按に下に出せる佛殿も時宗建立なりと云へば、開基は時宗なるにや・・・"

と、鎌倉期の開創ですが、何といっても国宝です。

巡礼道は西に進路を変え、十四番札所宝珠寺、十五番札所清水観音堂、十六番札所三光院、十七番霊性庵とやり過ごすと高木村に至ります。

高木村鎮守、高木神社

武州村山騒動では、高木村の高木村名主の庄兵衛が打ち壊しに遭いました。この辺りでしょうか???

十八番札所雲性寺、十九番札所はやし堂をやり過ごすと、二十番札所真福寺です。

真福寺、本堂

境内掲示によれば、

"龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(七一〇)、行基によって創建され、その後、承久二年(一二二〇)に落雷によって焼失したと伝えられる故刹です・・・"

ということでここも相当な古刹です。

二十一番札所原山観音堂を過ぎると、中藤の日吉神社があります。

中藤日吉神社

武州村山騒動では、高木村とここ中藤村が打ち壊しに遭いました。中藤村では、山王前という屋号の文右衛門が被害に遭っています。旧中藤村で山王と言えばここ日吉神社ですから、この辺りと思われます。

二十二番札所吉祥院、二十三番札所慈眼寺、二十四番札所禅昌寺、二十五番札所福正寺とやり過ごし、日光街道と出合ったら北に進路を変えるとここに狭山池があります。

狭山池

武州村山騒動は、天明4年(1784)2月27日夜中の12時に、ここ狭山池を出発し、今回の私の巡礼道とは逆に道順で、中藤村、高木村に向かっています。

巡礼道は狭山湖の北側に回り込み、東進します。二十六番札所山際観音堂、二十七番札所寿昌寺をやり過ごすとやがて、二十八番札所西久保観音堂です。

西久保観音堂

境内掲示によれば、

"陽射しをいっぱいに浴びた西久保観音堂。神亀5年(728)春、行基が全国行脚の途中、堂を開いたのが始まりといわれています・・・"

と、ここも古刹です。

西久保観音堂の直ぐ先には二十九番札所の西勝院があります。

西勝院、本堂

猫の足あとによれば、

"西勝院の創建年代等は不詳ながら、一説には、聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺(最勝王院)の一つではないかともいい・・・"

また、風土記によれば、

"本尊彌陀立像長四尺許、相傳ふ昔行基菩薩當國行脚の時、偶此地に宿して彫刻せし像なりと・・・"

と、ここも由緒正しき古刹ということになります。

三十番札所松林寺、三十一番札所聴松軒、三十二番札所慈眼庵をやり過ごし、最後の三十三番札所妙善院です。

妙善院、本堂

風土記によれば、

"光輪山と號す、曹洞宗、多磨郡前澤村浄牧院の末寺なり、慶安年中寺領十一石餘の御朱印を賜はる、開基は家傳によれば澤次郎右衛門吉縄が子、勘七郎吉宗といひし人なりと云、又寺傳に云所はもとの地頭澤次郎右衛門寺勝その亡父次郎右衛門幸時がために、開山僧呑碩を住持として起立せり、幸時が院號を光輪と云、是を山號とす、呑碩は承應元年三月十日化す、本尊白衣観音坐像にして長六寸許り、行基の作なりと云、當寺古くは小名寺山と云所にありしを、後ここにうつせしと云。"

と、いうことで、慶安は1648〜1652年、承応元年は1652年ですから、これまでご紹介した古刹とは違い、江戸期の開創ですが、天明期には影響力があったのでしょう。

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如何でしたでしょうか。

一番の金乗院は真言宗、三十三番の妙善院は曹洞宗です。宗派の異なる寺が、天明の大飢饉という社会的な危機に、協力し合った、当時はお寺が人々の社会に大きな影響があった、大きな役割を持っていたということが垣間見えるのではないでしょうか。

さて今の世の中、振り返るとコロナですね。

―――――

お気付きでしょうか?

行基伝承が目立ってましたね。

はい、ここは行基濃度が濃いエリアかな、と、個人的な感想です。

今回スコープじゃなかったので訪問しませんでしたが、出雲族濃度も高い。

武蔵野台地で唯一(実は他にもありますが)多摩川に押し流されなかった狭山の地。面白いエリアです。

2020年9月6日日曜日

深大寺道と牟礼道

このシリーズの前々回で、後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ラインについて記事にしました。

今回はその続きです。

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まずは振り返りから

1495年、小田原城を居城としていた大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。

1504年、小沢城で、扇谷上杉朝良を助ける為、北条早雲の軍勢が山内上杉顕定を打ち破っています。

→1504年辺りから、小沢城は後北条氏の城だった、ということになりますかな。

1524年、北条氏綱は、江戸城を奪取すべく、高縄原(高輪)で、扇谷上杉朝興と戦い、見事、江戸城を奪い取りました。扇谷上杉朝興は、主城の川越城に退却します。

1530年、扇谷上杉朝興は、川越城から度々深大寺城に移動し、江戸城奪還の機会をうかがってました。

一方、多摩川対岸の小沢城には北条氏康が陣取り、牽制します。そしていよいよ、小沢原の戦いが勃発しました。

初陣だった北条氏康、初戦は破れ、小沢城に籠城します。

この時、扇谷上杉朝興は、江戸城との間にある世田谷城にもちょっかいを出しに行き、世田谷城は一旦落城します。

が、結局、初戦の勝ちに酔っていた扇谷上杉朝興に夜襲をかけた北条氏康が勝ち、扇谷上杉朝興は河越城へ退散して、世田谷城は奪還され、江戸城も無事でした。

1537年、この小沢原の戦いが契機となり、江戸城主北条綱高は、深大寺城と江戸城の間、世田谷城の北西に、烏山砦、牟礼砦を築きました。

後北条氏は、小沢城、世田谷城に加え、牟礼砦、烏山砦と、江戸城防衛ラインを築き、扇谷上杉朝興も、深大寺を江戸城奪還の重要拠点として、両陣営鍔迫り合いを繰り広げていたんですが、、、

味方をも騙したのか、それを尻目に、その年、北条氏綱は深大寺城を迂回し、河越城を直接襲い、念願の河越城を奪取、武蔵国全体を手中に収めるに至りました。

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この時の、扇谷上杉朝興側の、川越城〜滝の城〜深大寺城を結ぶ軍道を、"深大寺道" と言い、それに対抗する後北条氏側の、武蔵岡城〜牟礼砦を結ぶ軍道を、"牟礼道" と言います。

今回はこれを行きます!!


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滝坂道で青渭神社まで。

青渭神社前の都道121号線三鷹通りが深大寺道です。ここを南下すれば深大寺城です。

手前の木の奥の森が深大寺城

深大寺道を北上し、滝の城を目指します(今回は川越城までは行かない。)。

道は野崎で都道12号線武蔵境通りに合流します(これも古道)。

今回は後北条氏と扇谷上杉朝興が江戸城を巡って対峙していた時(1524~1546年)に既にあった寺社を巡り、当時の痕跡を探るマイクロツーリズムですが、実は、深大寺城から黒目川河畔の宝泉寺まで、何もありません。

理由は何度か話してます(1, 2)が、ここら辺りは武蔵野原野で、江戸時代に玉川上水が開削されるまで、白子川、黒目川、柳瀬川の河畔以外は、前人未踏の原野だったからです。

と、言うことで、宝泉寺です。

宝泉寺

宝泉寺の由来については明らかではないですが、明治28年の社寺調書に、承和5年慈覚大師円仁の開基と伝う、とあります。また、宝泉寺に現存するもので一番古いものは、文永5年(1268)5月作の不動明王像があります。

と、言うことで、1524~1546年には確実にここにあったでしょうから、扇谷上杉朝興の軍勢も訪れたことでしょう。

先に行きます。

柳瀬川沿いの円通寺です。

円通寺

風土記によれば、

"除地、一段五畝、小名岡にあり、真言宗新義、同郡成木村安楽寺の末山なり、清水山と號す、本堂八間に六間南向、本尊観音木の立像にて長二尺、行基菩薩の作と云、古へ新田義助奥州下向のとき(1340年), 此観音の像を相州鎌倉松ヶ岡より此地に移す、往古は當寺の前に堂ありて安置す、いつの頃か當寺に移し今は本尊とせしなり。此像松ヶ岡より移せしによりて、此あたりを小名に岡と云り、此像霊佛にして古観音堂に安せし比、其前を乗うちするものあれば必落馬す、故に當寺に移すと云、當寺は暦應三年創造せりと、開山詳ならず、中興開山應永三十二年巳三月十日に寂せり。"

と、言うことですから、扇谷上杉朝興も訪れただろうと思いますが、面白いのは脇田義助の話ですね。吉川英治さんの私本太平記は大好きな本ので、思わず身が入ってしまいますが、1340年は、義助が四国に入った年ですから、奥州に下向はないでしょう。義助本人ではないのだろうと思います。

先を行きましょう。

滝の城です。

黒目川にかかる橋から滝の城を望む。高架の向こうの森が滝の城。

この城は、山内上杉家重臣大石氏が築城したと言われています。

扇谷上杉家ではないんですよね。

果たして河越城と深大寺城の連絡城として、扇谷上杉家に使われたんでしょうか???

1537年、北条氏綱が河越城を攻略。

1546年、有名な河越夜戦で、後北条氏は勝利を収め、大石氏は後北条氏に下り、滝の城は後北条氏の城となります。

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牟礼道です。

武蔵岡城です。

住居の向こうの森が武蔵岡城

この城も明確には、北条方だったか分かりません。太田道灌のひ孫の太田康資の居城という伝承もあり、康資の康は、北条氏康の康ですから、北条方なんですが、生まれたのが1531年ですから。

深大寺城と小沢城、世田谷城で丁々発止し、牟礼砦や烏山砦を作ってたのは1524~1546年。

康資、殆どの期間でまだ元服前ですね。

なので牟礼道は、江戸城を巡って丁々発止していた時というより、後北条氏が河越城を奪取し、河越夜戦でも勝った後、割と後半の軍道ということかもしれません。

先に進みましょう。

本仙寺です。

本仙寺

明治17年の過去帳によれば、創建年は天文元年(1532)で、開山は池上本門寺第九世恵眼院日純上人。旧境内付近からは宝篋印塔、板碑等が出土されていますが、このうち最古の年代は貞治五(1366)年であることから、少なくとも14世紀半ばには何らかの堂宇あるいは持仏堂の建立があったと推測されています。

と、いうことで、後北条氏も訪れたかもしれません。

境内に祀られてたオシャクジ様。恐らく近隣で見つかったものなんでしょう。

程なく、東円寺です。

東円寺

開基は詳細不明としていますが、いつの日か荒廃し、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年中(1004~1012)になって再興に尽力したとありますから、平安に遡る相当な古寺です。

長禄・文明の頃(1457)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を崇めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話もあり、この城は武蔵岡城でしょうから、と、なると、太田道灌、子の資康、孫の資高の居城でもあったでしょうから、で、あれば、資高は後北条氏江戸城奪取の立役者ですから、そうなんであれば、丁々発止していた時の、深大寺道に対抗する軍道だったということになりますね。

先を行きます。

泉蔵寺です。

泉蔵寺

風土記によれば、1328年に寂した法印慶誉寂心房を開山としているから、鎌倉時代ということになろうかと思います。1429年や1504年の板碑も発掘されています。

後北条氏も訪れたかもしれません。

次です。

子の神氷川神社です。

子の神氷川神社

風土記によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が膝を折って死んだことに由来するそうで。また昔高麗の城の落人5人が原野だった当地を開墾したともいいます。

廻国雑記には、1486年、ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記されていますので、後北条氏も訪れたことでしょう。

ここまで黒目川沿いに来ましたが、ここから黒目川からは離れ、白子川に向かいますが、それまでは武蔵野原野ですから、何もありません。

次は白子川沿いの妙福寺です。

妙福寺

以前ご紹介済みですが、この妙福寺を中心として、この辺りは日蓮宗の勢力が張った地区。

江戸城主北条綱高の末の弟は日蓮宗の僧で、牟礼に真福寺を開いていますから、この辺りの妙福寺を中心とした日蓮宗の寺は、後北条氏に協力的だったのではないでしょうか。

牟礼道は程なく神明通りにぶつかり、江戸時代の新田開発でスッカリ碁盤の目になってしまって牟礼砦までの道筋は分からす、ここで終了としたいと思います。

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深大寺道は多摩郡と新座郡の郡境道と重なりますので、一度行った道でしたが、視点が違ったので寺社を訪れることは無く、そういった意味では楽しめました。

街中癒やしシリーズ、後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ライン
街中癒やしシリーズ、多摩川における後北条氏水軍の痕跡

2017年1月7日土曜日

平安の道〜慈覚大師円仁の東京における足跡から

七福神詣でで目黒を廻ろうと思い、改めて目黒のお不動さんのことを調べた所、15歳の慈覚大師円仁が、故郷の下野国から比叡山に向かう途中、この地に泊まり、夢に従い仏像を彫り、この地に安置したのが始まりと言う。808年のことだそうだ。

古道マニアはここで一つ疑問に思うはず。下野から比叡山なら東山道でしょ?808年という時代的にも。

結論から言うとこの理由は分かり切らなかったんですが、新たな発見もありました。

目黒不動龍泉寺は鎌倉街道 中道 新宿御苑ルート沿いなんですね。

もしやと思って慈覚大師円仁開山のお寺を地図上にプロットしてみると、ものの見事に鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに沿ったのです。(現代地図参照)



  • 渋谷区 宝泉寺
  • 新宿区 宝泉寺
  • 豊島区 正法院
が、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに沿っていました。

これだけでは勿論、808年に慈覚大師円仁が比叡山に向かった時の道とは言えませんが、比叡山に行き、修行して、大師となって東国での布教活動をする時に、全く、縁も縁も無い所には行かないだろうと推測すると、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートを行った可能性も出てくるわけです。

こうなると、鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートは、平安時代に既に存在していたということになります。

龍泉寺から京都向きのルートですが、最終的には古代東海道に接続するんだと思いますが、恐らくは、円融寺を経由したルートだったのではないでしょうか。

この道は円融寺からは見事なまでの直線で古代東海道に接続しています。

それでは目黒に残る平安の道、慈覚大師円仁の足跡を辿るAncient Road Explorerに出発です。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

自宅から滝坂道、太子堂~池尻道と行き、下馬で鎌倉街道 中道 新宿御苑ルートに接続します。中目黒から環6の一本西の古道を行き目黒のお不動さんに到着です。


お参りを済ませ、円融寺に向かいます。

この通りは地蔵、庚申塔が残っており、古道の趣がありました。


円融寺に到着です。

円融寺の仁王門と釈迦堂。釈迦堂は室町時代の創建。国指定重文。
これは江戸名所図会の円融寺ですが、描かれている道はこのルートのように思えます。

左下から参道に向かう道、途中で左(西)に分かれているこの道が今回のルートと思われる。法華寺とあるが、この時代、日蓮宗に改宗していて、寺の名前も今とは違っていた。