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2014年2月22日土曜日

Modern Architecture in Japan, Minami-Takahashi Bridge / 近代建築散歩、南高橋




東京都中央区の亀島川の最も南に架かる橋、それが南高橋です。
Minami-Takahashi Bridge is built over Kamejima-Gawa River located in Chuo-ku, Tokyo.

関東大震災の復興橋として新たに架橋する予定でしたが、予算が無くなり、震災で残った両国橋の中央部分を移築した橋です。
As an earthquake disaster revival bridge, Minami-Takahashi Bridge would be built. But the budget was used up. So the old Ryogoku-Bashi Bridge was relocated here.


つまり、この橋は旧両国橋でもあるのです。
So this bridge is also Ryogoku-Bashi Bridge.



特異な経緯で奇跡的に残った明治の橋(1904年完成、日本橋より古い。)なのです。
Minami-Takahashi Bridge is a bridge built in 1904, Meiji Period, older than Nihon-Bashi Bridge.

2014年2月16日日曜日

Modern Architecture in Japan, Sakura-nabe Nakae / 近代建築散歩、桜鍋 中江

桜鍋 中江 国指定重要文化財

このブログではこのような日本家屋は近代建築としていないのだが、たまたま食事に訪れたので取り上げたいと思う。

明治38年(1905年)創業の桜肉(馬肉)鍋屋。現在の建物は、関東大震災後に建てられ、東京大空襲から奇跡的に逃れた。

東京大空襲から僅か2年後のこの辺りの航空写真を見てみよう。

昭和22年 日本堤周辺古地図
※gooより

地図の真ん中に四角いマークがあるが、そこが中江である。

中江の前の道が土手通り、その左側は吉原だ。吉原は一面焼け野原になっていることが分かる。が、中江から土手通り沿いに北西に進んだ右側の一角だけが奇跡的に被災を逃れていることが分かる。

何故被災を逃れられたのか?

奇跡としか言いようが無いのだが、地理的側面から推理してみると、中江のすぐ裏は山谷堀が流れていたことと、正面の吉原も通称お歯黒どぶで囲まれていたことで、吉原からの火と山谷堀東側からの火がギリギリの所で延焼しなかったのではないかと思われる。

江東区の佐賀町も周りを囲んでいた堀がこの町を被災から救っていた。

2013年11月3日日曜日

Modern Architecture in Shanghai, Qibao Laojie / 近代建築散歩、上海 七宝老街

浦東10年、外灘100年、七宝1,000年

と、いう言葉が上海にはあります。

五代十国時代に、この地に七宝教寺が開山し、その周りに町が形成されていったことで出来た七宝。五代十国時代は907 - 960年ですから、1,000年の歴史があるということになります。

北街と南街を結ぶ塘橋、1519年架橋。奥に見える塔が七宝教寺。

七宝老街入口

北街

南街、いつもいつもスゴイ人

七宝のような長江流域の湿地帯の典型的な水郷老街は、蘇州などありますが、完全に観光地化していて人々の生活圏とは切り離されています。

が、七宝は、昔ながらの人々の生活が残っていて、それがそのまま観光地になっています。

路地、北街を歩いていると左右にこのような路地があり人々が生活している。

うだつが残る家々

路地②

そんな、1,000年の歴史を誇る、明・清時代の町並みが残る七宝ですが、忽然とゴシック建築が現れます。

1866年に上海の神父が建てた七宝天主堂です。1866年というと、前々回御紹介した宋三姉妹の父、宋耀栄がアメリカに渡る前ですから、それ以前に、租界の外にこのような教会があったというのは非常に興味深いです。

忽然と現れる、七宝天主堂(1866年)

天主堂の内部

2013年10月2日水曜日

Modern Architecture in Shanghai, Footprints of Soon 3 sisters / 近代建築 散歩、上海に残る宋三姉妹の足跡

三姉妹の父、宋耀栄は、海南島の貧しい商家に生まれ、アメリカで茶の販売をしていた叔父の養子(これで姓が韓から宋となった。)となり、1875年、叔父について11歳でアメリカはボストンに渡った。

商人に学問はいらぬ それに反発した耀栄は、家出してボストン港に停泊していた船に乗り込み密航を図った。13歳の時である。

簡単に船員に見つかった耀栄だったが、チャールズ船長に見込まれ、名前もチャールズ・ジョーンズ・スーンと改め、キリスト教伝道師として高度な教育を受け、大学まで卒業した。

1886年、25歳になっていた耀栄は、伝道師として母国中国の上海に戻った。

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この話、似ていませんか?

八重の桜を見ている方ならお気づきだと思います。同志社大学の創設者、新島襄に本当によく似ているエピソードです。

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上海に戻った耀栄は、同じくクリスチャンだった倪桂珍と結婚し、三男三女を設けた。この三姉妹が、宋家の三姉妹といわれる宋靄齢、慶齢、美齢だ。

この三姉妹、何がすごいかというと、、、

・靄齢、孔子の末裔の大財閥の御曹司、孔祥煕と結婚。夫は後に国民政府財務部長となった。
・慶齢、孫文と結婚。夫亡き後も夫の意思を継いで共産党で中国革命に命を懸けた。
・美齢、蒋介石と結婚、毛沢東率い、姉慶齢がいる共産党に、国共内戦で敗れ台湾に逃れた。

正に、中国を作った三姉妹だったのだ。この宋家の三姉妹の足跡が、上海に残っている。

今回は、それを訪ねた。


景林堂、昆山路135号
宋耀栄、倪桂珍夫妻はこの近辺に住み、三姉妹を生んだ。宋耀栄はここで牧師もしていた。

沐恩堂、西蔵中路316号
ここはかつて耀栄が開校した女学校でもあった。キリスト教に基づく学校の開設、そこも新島襄と同じ。
三姉妹はここで学んだ。

宋公館、陝西北路369号
三姉妹は沐恩堂で学んだ後、アメリカに留学した。留学後、それぞれが結婚し家を出るまで、
三姉妹は仲良くここに住んだ。今は、残念ながら、写真のように高い塀で閉ざされ、中は窺い知れない。

孔祥熙邸、永嘉路383、385号
長女、靄齢は、結婚後、ここに住んだ。

孫文記念館、香山路7号
慶齢は孫文と結婚後、ここに住んだ。因みに、孫文と慶齢は日本で結婚式を挙げている。
東京は九段下の学士会館だ。近くのカフェで休んでいたら閉館時間を過ぎていた。残念ながら門の外からの撮影。

宋慶齢記念館、淮海中路1843号
孫文亡き後、慶齢はここに住んだ。

宋慶齢記念館は、慶齢が1963年まで住んだ家だ。裏庭は非常に美しい。このバルコニーから眺めたのであろうか。

蒋介石・宋美齢私邸、現上海音楽学院中等部、東平路9号
国共内戦により賊軍となった蒋介石と宋美齢。共産党の中華人民共和国副主席を務め、死の直前に
中華人民共和国名誉主席の称号を授けられた宋慶齢とは、やはり扱いが違う。

慶齢が88歳で1981年に亡くなった時、蒋介石の死後アメリカに移住していた美齢はその葬儀に出席しなかった。※靄齢はこの時既に亡くなっていた。

中国の激動に飲み込まれた宋三姉妹。上海で、その足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。観光案内には載っていない、違う上海が感じられます。

以上

2013年9月7日土曜日

Modern Architecture in Japan, Tokyo Station, Marunouchi of Chiyodaward, Tokyo / 近代建築散歩、東京駅

夕日に輝く東京駅
東京駅の開業は、1914年、大正3年でした。

ドーム
日本の鉄道の歴史ですが、1872年、明治5年に新橋 - 横浜間で始まったというのは皆さんご存知の通りです。東京駅の南側ですね。その後、北は上野 - 熊谷間が1883年、明治16年に開通。西は1889年、明治22年に新宿 - 立川間が。1895年、明治28年には飯田町まで東に延長となり開通しました。東は、両国橋駅をターミナルとして1904年、明治37年に開通しています。


煉瓦高架橋、これも明治の遺産


東京駅の周りだけ、ポツンと空いていたんですね。

岩崎弥之助が一丁倫敦に着手したのを三菱一号館だと置くと1894年、明治27年のこととなります。

今の地図を見ると、丸の内の中心は東京駅ですが、それが無いまま、20年もの間、一丁倫敦だけが、ポツンと原っぱにあったということになります。だから、当時は、「三菱ヶ原」と呼ばれていたそうです。

東京駅開通後、東京駅から皇居に向かって西に真っ直ぐ伸びる行幸通り、ここに、大正7年、1918年に、海上ビルディングが竣工しました。続いて郵船ビルディング、日本工業倶楽部会館は大正9年、1920年。丸ビルは大正12年、1923年に竣工し、煉瓦造りの一丁倫敦に対し、アメリカ式鉄筋コンクリートのビル群が並ぶここは一丁紐育と呼ばれました。


このような意匠も残る。

現在の一丁紐育、東京駅より皇居を望む


ここ丸の内地区は再開発が行われ、今や、高層ビルが林立しています。が、よく見ると、百尺でデザインを分割し、嘗ての一丁倫敦、一丁紐育を忘れていないんだよというメッセージを発しています。

皇居より東京駅を望む


丸ビル、新丸ビル、日本工業倶楽部、日本生命丸の内ビルと高さ百尺でデザインが分割され統一的な景観を作り出している。

2013年9月3日火曜日

Modern Architecture in Japan, Mitsubishi Ichigo Kan, Marunouchi of Chiyoda word, Tokyo / 近代建築散歩、三菱一号館、丸の内

復元された一丁倫敦の象徴、三菱一号館

江戸時代は錚々たる顔触れの大名屋敷が並んでいた丸の内。

1858年の丸の内

維新後は、あの、大岡越前で有名な南町奉行所が在った関係からか、司法省が置かれたり、その他、練兵場など陸軍関係の施設が置かれていました。

明治13年、1880年の丸の内
歴史的農業環境閲覧システムより出典
明治21年、1888年、市区改正条例が出され、丸の内は、市街地へ転化されることになりました。陸軍は丸の内を売りに出します。当時の相場の何倍もしたそうですが、三菱創業者、岩崎弥太郎の弟にして二代目岩崎弥之助が買い取ります。造船所視察で英国に滞在中だった弥之助の腹心、荘田平五郎が、『丸の内、買い取らるべし』と電報を打ち、いずれロンドンのシティーのようなビジネス街が必要になると説いたのだそうです。

明治27年、1894年、日清戦争勃発の年、三菱一号館が竣工します。翌年には二号館が現在の明治生命館の場所に、翌々年には三号館が竣工し、馬場先門から鍛冶橋までの通りは、一丁倫敦と呼ばれました。

一丁倫敦、Wikiより

現在。奥の明治生命館が夕日に照らされ。

現在の丸の内、私はとても好きな街です。岩崎弥之助や荘田平五郎も喜んでるんじゃないかな。

2013年8月1日木曜日

Modern Architecture in Japan, Meijiseimeikan, Marunouchi of Chiyoda ward, Tokyo / 近代建築散歩、丸の内、明治生命館


古典主義建築の集大成とも呼ばれるこの明治生命館は、1930年(昭和5年)9月に、設計は岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計が内藤多仲で起工し、1934年(昭和9年)3月31日に竣工しました。

何故、この建築が古典主義建築の集大成と呼ばれるかというと、モダニズム建築の傑作と称される東京中央郵便局が前年に竣工しているからです。以降、古典主義建築は影を潜め、モダニズムが台頭してきます。

東京中央郵便局、Wikiより。素晴らしい写真です。
2001年から改修工事が行われましたが、30階建ての新しいビルと一体化することで、この古典主義の集大成である歴史遺産が残されることになりました。

30F建ての新ビルと共に
おかげで、お堀端の景観は、高さ百尺で統一された美しいものとなっています。


2013年7月28日日曜日

Modern Architecture in Shanghai, Marvel Hotel / 近代建築散歩、上海、商悦青年会大酒店


延安高架路から
又、上海に出張に行ってきました。

今回泊まったホテルは、商悦青年会大酒店でした。この建物も、近代建築です。泊まった利点を活かし、詳しくご紹介します。

このホテルの前身は、八仙橋青年会大楼で、中国人デザイナーが最初に設計した中華スタイルの高層建築でした。中国人建築家の李錦沛、範文照、趙深が設計にあたり、老舗のゼネコンである江裕記が施工を担当しました。

建設にあたっては、YMCAが投資しています。

1929年10月に着工され、1931年に完成しました。洋風クラシック建築と中国の伝統的建築が融合した、中洋折衷のデザインです。

日本の近代建築の歴史にも、帝冠様式という、和と洋が折衷した様式があります。明治になり一気に洋風建築が入ってきましたが、1930年代のナショナリズムを背景に、和を前面に押し出した建築様式が出てきました。

帝冠様式の象徴的建築、愛知県庁、Wikiより
中国でも同じようなムーブメントが起きていたんですね。建築にもそのような時代背景があらわされていることが興味深いです。

さて、入口を入ると、重厚な石造りの装飾がある階段が出迎えてくれます。

石造りの階段とその装飾
踊り場からは見事な天井絵とシャンデリアが追い打ちをかけます。

階段踊り場から、天井絵とシャンデリア
ロビーに入ると、落ち着いた雰囲気の空間があります。

ロビー
部屋からは、中洋折衷の象徴であるデザインが間近に見られます。

部屋から。天井絵もこの壁の絵もすべてハンドメイドです。
因みに、向こうに見える金色のビルがうちの会社です。てっぺんの丸いところは広東のレストランで、回るんです。
1847年のアヘン戦争に敗れ、列強にいいようにやられながらも、辛亥革命などを通じ自国のプライドを少しずつ醸成していった結果が、この建築だったのではないでしょうか。

2013年7月1日月曜日

Modern Architecture in Japan, Daiichiseimeikan at Marunouchi of Chiyoda ward, Tokyo / 近代建築散歩、丸の内、第一生命館

第一生命館、1938年(昭和13年)竣工
古いような新しいような、アールデコといえばアールデコだし、そうでないと言えばそうでない。そんな不思議な、なんとも言えないようなデザインの近代建築です。

戦前の竣工で、戦時中は屋上に高射砲陣地が置かれたりしましたが、戦火を逃れ、戦後は、GHQの本部として使われ、マッカーサーが毎日通勤していたビルとして、非常に有名です。質実剛健とした威圧感のようなものが、選定の理由でしょうか。

日比谷濠越しの眺望
右から、第一生命館、帝国劇場、東京会館、東商ホール、明治生命館。
高さの面が百尺で統一され、美しい景観を作っている。

2013年6月27日木曜日

Modern Architecture in Japan, Hibiya park of Chiyoda ward, Tokyo / 近代建築散歩、日比谷公園

皆さんお馴染み、日比谷公園です。

日比谷公会堂・東京市政会館
昭和4年(1929年)竣工
元日比谷公園公園事務所(現フェリーチェガーデン)
明治43年(1910年)竣工。明治時代の貴重な木造近代建築。
近代建築ですが、元は公園事務所で、今は結婚式場として使われているフェリーチェガーデンと、日比谷公会堂・東京市政会館が残ってます。

日比谷公園は、日本で最初の洋式公園として、明治36年(1903年)に開園しました。

元は大名屋敷。その後、練兵場として使われ、公園になりました。
1858年古地図
松平大膳、松平肥前、小笠原佐渡、朽木近江、丹羽長門、有馬兵庫、南部美濃、北條美濃の屋敷跡が
日比谷公園に。松平肥前の屋敷東側に堀があるが、それが今の心字池。
1880年(明治13年)古地図
公園内にも、色々な近代建造物が残ってます。是非、訪れてみてください。

2013年6月23日日曜日

Modern Architecture in Japan, Komazawa Water Tower of Setagaya ward, Tokyo / 近代建築散歩、駒沢給水塔(世田谷区)






大正13年(1924年)、工期中に関東大震災があるなどしたものの竣工したこの駒沢給水塔は、多摩川の川底の伏流水を採取し、砧浄水場でろ過した後、ポンプでこの駒沢給水塔まで組み上げ、渋谷までは自然流化で水を運んでいました。

空襲も受けましたが生き延び、1999年、その役目を終えました。

王冠のようなデザインは、今は出来ないんでしょうね。