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2022年5月1日日曜日

綴党(綴喜党、都筑党), その2, 立野牧

武蔵七党系図に載らない綴党(綴喜党、都筑党)を、前回は石川牧から切り込んでみました。

まず、綴党(綴喜党、都筑党)は石川牧、及び立野牧から出現した武士団であるとし、その石川牧の経営者は石川六郎で、つまり、綴党(綴喜党、都筑党)石川氏で、その居館跡の保木薬師堂、石川牧の総鎮守の驚神社を訪ねました。

同じく綴党(綴喜党、都筑党)には荏田氏がいて、その居城が荏田城で鎌倉街道中道を西から押さえ、観福寺西の敵見塚を支砦として鎌倉街道中道を東から押さえていたことを確認しました。

さて今回は、立野牧から切り込んでみたいと思います。

■◇◆□

町田駅まで輪行、鎌倉街道上道と中道を連絡する古道でまずは長津田に向かいます。

ほぼ古道を辿れますが、成瀬が丘の辺りは酷いですね。

南成瀬、東光寺の辺りから古道復活です。

JRと東急の線路を越え、長津田に入りますが、ここに隨流院があります。

隨流院、こんな感じで中に入れません。。。

隨流院そのものは立野牧に無関係のようなんですが、迅速測図では、このお寺の直ぐ北側には競馬場がありました。

画面真中を意味する十字の直ぐ上に競馬場を配置。恐らく、競馬場の文字の左のやや斜めになった南北の四角が見えますが、これは窪地で、恐らくこれが競馬場だったと思います。直線コースですね。

このパターンは、横山党の小野牧前回綴党(綴喜党、都筑党)の石川牧と同じです。ここが立野牧だった痕跡かもしれません。

鎌倉街道の上道と中道の連絡路を先に進みましょう。北門地区にある泣坂です。

今の泣坂、画面右方面は古道と一致

ここも、坂は立野牧に関係ありません。ここの地名、"北門" が、ターゲットなんです。

この地名、何と読むか分かりますか?

キタモン、ではありません。ボッカド、ボクカドです。

古道のほとりによれば(以下引用),

"ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる。"

実は石川牧は、石川牧の経営者石川六郎の館跡、石川牧総鎮守驚神社が直ぐに見つかりましたが、立野牧はそうは行きませんでした。

柿生文化65号によると、都筑氏は立野牧の荘司ということです。石川牧が石川氏、立野牧は都筑氏ということです。

ですから綴党(綴喜党、都筑党)の痕跡をexploreするとなれば、都筑氏の館跡など、都筑氏に直接関する遺跡、あるいは立野牧の総鎮守など立野牧に関する遺跡を、ということですが、これが全く見つかりません。

立野牧のエリア、ということで挙がってくる地名は、十日市場、中山、川和、佐江戸、池辺、小机です。
※GoogleMapsで黒ポイント打ってます。

そこで、いつも大変お世話になっております、谷戸めぐりで、馬や牧に関する地名を探しました。
※GoogleMapsで濃いグレーポイント打ってます。



そういった作業の中で発見したのが、上記の、北門 = ボクカド = 牧門、なのです。

もしかしたらここに、牧場支配者 = 立野牧別当都筑氏が居を構えていたかもしれません。

泣坂の旧道が残ってました。

やがて土道に(この先私有地に付き行き止まり)

さて、ここ十日市場には、馬場坂、馬家窪という地名も残っています。

十字からほぼ真南に伸びる一本点線が恐らく馬場坂。山を登ってますから。少し見にくいですが、画面下部ギリギリのところで鎌倉街道の中道と上道の連絡路(一本実線)に接続しています。

スッカリ変わってるはずですが今の馬場坂、私の背後にあるアパートは馬場坂ハイツですから恐らく。

―・―・―・―・―・―・―

目的地はクリアしましたが、この時点でまだ9:30。

ここに牧の門が出来た理由の一つでもあった、鎌倉街道中道と上道の連絡路、これは、横浜線に沿って走る道もそうなんですが、もう一つは、新治市民の森の西を行き、続いて三保市民の森の西を行く道も、川井に出た後、八王子街道で鶴ヶ峰に向い、鎌倉街道中道と合流する道筋、こちらも鎌倉街道中道と上道を連絡する道です。

今日はこの道で中道に合流し北上してここに戻ってきましょう。

ヒルタウンを登り切ると、ここが鎌倉街道連絡路の入口です。

ダブルトラックの良い道です。恐らくこの幅は当時のままでしょう。

今日はクロモリだからずっと舗装路でいてほしかったんですが、直ぐにグラベルに。そこの眺望です。

丹沢山塊がよく見えます。

やがて道は横浜創英大学西の道へ。

この辺りから街道沿いに杉の木が目立つようになります。

そして、三保市民の森へ。

三保市民の森、結局ここまでの約2.5kmは押しでした。冬にSIRRUSで再訪しましょう。

三保市民の森を過ぎれば八王子街道に向かって下り、八王子街道を鶴ヶ峰に向かいます。

鶴ヶ峰は畠山重忠の最期の地、史跡も多いですが、今回は道すがらのものだけ。

薬王寺、六塚

駕籠塚、今回で3回目

鎌倉街道中道は住宅街の道でフォトジェニック無し、中山に到着です。

中山から町田駅に向かう道すがら、観護寺に寄って行きましょう。

空海の再来とまで言われた印融の墓がある。印融はこの地出身。

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如何でしたでしょうか。

都筑氏は、吾妻鏡を始めとし、web検索すると沢山出てくるんですが、居館跡はさっぱり出てきません。

立野牧の方も、総鎮守は勿論、関連する何か、が、何一つ、出てきません。

唯一、手掛かりとして出てきたのが、北門 = 牧門でした。

何とか、ギリギリセーフという所でしょうか。

綴党(綴喜党、都筑党)はこれでひとまず完了とします。さて次のテーマは何にするか・・・

2022年4月24日日曜日

綴(綴喜、都筑)党、その1, 石川牧

武蔵七党の構成は実は諸説あって、

西党、横山党、村山党、丹党、猪俣党、私市党、児玉党

をベースとし、武蔵七党系図では私市党の代わりに野与党が、貞丈雑記には村山党の代わりに綴(綴喜、都筑)党が、記載されています。

今回は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡をexploreします。

大倉精神文化研究所では、催し物、"武士団「綴(都筑)党」を追う-中世の多摩丘陵に生きた武士たち-" 紹介文で、(ー以下引用ー)

"その「武蔵七党」のひとつに綴(都筑)党があります。綴(都筑)党の実態は不明ですが、港北を含む旧都筑郡域を地盤とした武士団であったことは間違いありません。丘陵地帯に属する都筑郡には平安時代、朝廷に馬を献上する石川牧・立野牧がありましたが、この牧の存在が武士団発生の一因ともなりました。"

と、綴(綴喜、都筑)党と石川牧、立野牧の関連性を指摘しています。

また、綴(綴喜、都筑)党は、武蔵七党系図に記載が無く、これまで取り上げてきた西党、横山党、村山党のようなアプローチが出来ません。

そこでまずは石川牧から切り込んでみたいと思います。

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往路は鎌倉街道中道登戸ルートで向かいます。

専修大学手前の激坂と馬頭観音

長沢の浄水場を過ぎたら三叉になります。左はゴルフ場沿いの古道、真ん中は新道、右が鎌倉街道ですが、ここは写真撮りませんでしたが今は階段ですね。当時は相当な傾斜だったものと思われます。

真中に件の階段古道を配置、等高線を見れば階段も頷けますが、今昔マップで時代を追っていくと振動が出来たのは戦後ですね。それまでこの急斜面を通ったなんて。

長沢の丁字路、平瀬川を過ぎ、軽い上りのピークには菅生神社がありました。

八重桜散る菅生神社

神奈川県神社誌によれば、創立は天福元年(1233)で、同郡平村白旗八幡大神からの御分霊を奉斎したといわれています。

菅生神社の前の道が鎌倉街道である証拠と言えるでしょう。

さて、こんな素敵な古道なんかも通りながら、

菅生清水公園付近にひっそりと残る古道

繰り返されるup and downを何とかクリアしながら、鶴見川と多摩川の分水嶺に到着です。

ここの分水嶺尾根道を右に折れ、保木薬師堂に向かいます。

この道は非常に重要な道で、鶴見川と多摩川の分水嶺であり、たがら、橘樹郡と都筑郡の郡境で、郡成立、つまり、律令の時代に既にあった道ということになります。チャリの向こうが都筑郡、撮影している私の背中側が橘樹郡です。

保木薬師堂

"柿生文化 第12号" によれば、ここは石川牧の経営者石川六郎の居館跡とのことです。

また、同じく、"柿生文化 第66号" では、ここの御本尊、薬師如来像は、承久3年(1221), 石川六郎の一族が建立したものとのことです。

早速、石川牧の経営者です。小野牧から横山党が出たように、由比牧、小川牧から西党が出たように、石川牧、立野牧からは綴(綴喜、都筑)党が出て、石川牧の方は石川氏が経営していた、ということです。これ当然、石川氏は綴(綴喜、都筑)党ということになりますね。

分水嶺尾根道から鎌倉街道中道に復帰して、折角登ったのに早渕川まで降ります。

早渕川の渕上橋の少し先にあるのが驚神社です。

驚神社

境内掲示によれば、

"創立年代詳かならざるも、往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守なりしと云ふ。其の当時、石川牧の地域は頗る広汎にして旧都筑郡内は旧山内村石川・同荏田・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鉄・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺、橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大字に亘れるものの如し。依って昭和14年、横浜市に合併当時まで、此の石川に秣場と称する馬料共有地五十餘町歩を遺せる。又、社前は旧鎌倉街道に当たり源頼朝の臣畠山重忠篤く崇敬せりと云へり。 (中略) 当神社の名称は、右の如く馬を大切にする意から、馬を敬う即ち「驚」がついたものと伝ふ。"

と、いうことで、石川牧の経営者石川六郎の居館跡に続き、石川牧の総鎮守です。これ当然、管理者は石川氏ということになりますね。

石川牧は当初令制牧でした。令制牧とは、700年頃成立した厩牧令に基づく牧のことで、全国の牧は兵部省兵馬司が管理し、実際現場では、国司のもとで牧長ら牧官が経営していました。

やがて令制牧は官牧、勅旨牧、近都牧の3つに分かれました。石川牧は、9世紀に、西党が管理した小川牧、由比牧と共に勅旨牧となっています。

ですので石川牧は早ければ700年代、遅くとも800年代には既にここにあった、ということになりますね。

その総鎮守ですから、驚神社も相当な古社だということになります。

また、石川牧の範囲ですが、東は第三京浜、西は新百合、北は生田緑地、南は横浜市歴史博物館までの広大なエリアです。茶線の都筑郡と橘樹郡の郡境も越えてますね。



さて、ここは牧跡らしく、近世の競馬場の伝承も残っています。

"都筑の民族" によれば、荏田高校の上から北へ五叉路までの凡そ300mで、秋の収穫期が終わると、農耕馬で競馬を行ったそうです。明治後半には終わったそう。

この直線です。

これは、横山党の小野牧でも全く同じ話がありましたね。

小野牧にある競馬場跡の碑

ここまでまとめますと、石川牧を経営していたのは石川氏だったということになりそうで、冒頭のように石川氏は綴(綴喜、都筑)党の一族のようですから、驚神社、競馬場跡は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡と言えると思います。
石川六郎は、吾妻鑑の、建久元年(1190), 11/7の頼朝上洛の記事で登場しています。頼朝の先陣随兵として、隊列の十二番に、都筑三郎、小村三郎と並んで石河六郎が記載されています。

上記、"柿生文化" の記事と時代が合いますね。

ー・-・-・-・-・-

さて、吾妻鑑で石川六郎は先陣十二番でしたが、後陣四十五番に江田小太郎がいます。

一方、驚神社から鎌倉街道中道を南下すると荏田城があります。

荏田城

この荏田城、諸説ありますが、綴(綴喜、都筑)党の荏田氏の居城という説もあります。

荏田城主荏田氏は、吾妻鑑に登場する、江田小太郎と思われます。

1343年の山内首藤通綱・通範の寄進状に、"武蔵国荏田郷内堀内赤田之田畠" という記述があって、"赤田" というのは、"赤田東公園" や、"赤田西公園" に残っている通り、この辺りの地名であり、その赤田の堀内と書かれていることから、1343年時点で既に荏田城があったと考えられています。

驚神社と荏田城の間、驚神社よりにある観福寺近くの山は、風土記で敵見塚として書かれており、鎌倉街道を東西両側から押さえる東側の砦と考えられています。

敵見塚

観福寺

石川牧の中心地、驚神社、荏田城があるエリアは、都筑郡衙がある都筑郡の中心地でもあります。

都筑郡衙跡

また、県重文で平安時代末期の作となる本尊の木造千手観音立像、国重文で鎌倉時代の作となる客仏の木造釈迦如来立像がある真福寺が、鎌倉街道中道沿いにあります。

真福寺

今真福寺が立つ場所は嘗て観音堂があった所で、上記県重文の本尊はその観音堂の本尊でした。

真福寺は今の場所から北へ3.4kmの所にあったそうですが、鎌倉期には今の場所の近く、今、宿自治会館がある場所に、釈迦堂と共に移っていたようです。

宿自治会館、写真にも写っている道を挟んだ向こう側はお墓で、真福寺がここにあった時の墓地ではないでしょうか。

上記国重文はその釈迦堂にあったもので、清涼寺式釈迦とよばれる形式の仏像です。

釈迦堂公園、敵見塚の近くにあります!今日往路に使った鎌倉街道中道登戸ルートのこの辺りの呼び名は釈迦道、この公園の直ぐ西を通ります。地形的にもここはお城で言えば殿ケ谷形式に適した地形で、ここに釈迦堂があったのではないでしょうか。

■◇◆□

如何でしたでしょうか。

武蔵七党系図に記載が無くexplore困難かと思われましたが、何とかなりました。

何度もexploreしてるところですが、新たな視点で楽しめましたし。

にしても、ここは牧になるだけあってup and downが激しい。最近になって改めて覚え直したダンシングをフル活用して何とか押しをしないでいましたが、鷺沼駅ての上りは足が残ってませんでした。

次回は立野牧をexploreします。

2022年4月10日日曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る、その4, 大井氏、難波田氏

村山党シリーズ、その1は、村山氏、宮寺氏、山口氏の痕跡を訪ね、その2では金子氏、その3では、山口氏系荒波多氏、久米氏の痕跡をexploreしました。

そして今回は、大井氏、金子氏系難波田氏の痕跡を訪ねます。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー大井五郎大夫家綱

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前回その3で、東山道武蔵路・鎌倉街道上道と鎌倉街道羽根倉道との交差点を東進し、久米氏館跡と目される北秋津城を訪れましたが、そのままその道を東に進みます。

道幅といい曲がり具合といい道沿いの大きな旧家といい如何にもという古道風景の中、西武池袋線を過ぎ、下安松の集落に入るとここに長源寺があります。

満開の桜越しの長源寺

開基は大石定久で、大石氏は村山党と直接の関係はありませんが、これまで、旧多摩郡の西党、横山党とexploreしてきましたが、この地を巡ると、大石氏を避けて通ることが出来ない、そのような存在でした。

大石氏系図によれば、大石信重は、1345~50年に関東管領山内上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷に300貫文を賜り、1356年には、入間郡・多摩郡両郡内に13郷を賜って、武蔵国目代を任じられています。

1333年、新田義貞によって北条の鎌倉幕府は滅びました。その後、室町幕府が開かれたんですが、関東を治める為、鎌倉に鎌倉府を設け、統治しました。

そのTopは鎌倉公方で、室町幕府にも征夷大将軍はいますが、関東にもう一人の将軍がいた、と言うような存在です。その鎌倉公方を補佐する役割が関東管領です。

つまり、鎌倉幕府が滅んだ後の関東の新たな統治機構の枠組みにおいて、入間・多摩両郡に13郷を賜り、武蔵国の目代(国司: 現地に行けない守(かみ), 介(すけ), 掾(じょう), 目(さかん)ら、今で言う知事クラスの役人の現地に居住する代理人)だったわけです。

時は大きく下り、1545年、46年の河越夜戦では、大石定久は、やはりまだ、関東管領山内上杉憲政に従い戦っています。目代としては1400年代前半までだったようですが、その後も、関東管領山内上杉家の重鎮として活躍していたということです。

そして河越夜戦で後北条氏の関東支配が決定的となった後は、後北条氏に付いています。

ということで大石氏は、1350年頃から後北条の時代まで、旧多摩郡のエリアを支配、管理していたのです。

一方、それより前から、西党、横山党、村山党は、旧多摩郡エリア内のそれぞれの地域で土着し、生活していました。そして、頼朝が関東を支配したら頼朝に付き、北条の時代には北条に、というようにして生き延び、大石氏に対しても同じようにしてきたんだと思います。

ーーーーーーーーーー

JR武蔵野線を潜って下安松通りに合流しそのまま東進を続けると、柳瀬川の丁字路にぶつかり、そのまま道なりに行くのが羽根倉道、一つ目の交差点を左に入るのが本郷道で、大井氏の支配地に行くのは本郷道と推測します。

道の名、本郷に到着するとここには柳瀬川の河岸段丘の景色が広がります。

河岸段丘を背にした東福寺、749年、行基が開創

その先の河岸段丘

やがて滝の城に至ります。

このまま河岸段丘下を行きたい所ですが、東川を渡る橋がありません。

地理院地図、右上から左下に流れる川が柳瀬川、左上から右上に合流しているのが東川。合流部に橋が無いのが分かる。

迅速測図の時代にもありません。

歴史的農業環境閲覧システムより迅速測図、右上の柳瀬川・東川合流部にやはり橋無し

大井五郎太夫家綱の時代はどうだったか。

しかし、迅速測図をよく見ると、滝の城址公園の崖下に一本点線徒歩道があるではないですか!!!

しかも、地理院地図の公園内園路(両点線)とほぼ重なってます。

迅速測図で一本点線徒歩道の現在の姿

柳瀬川河岸段丘上の滝の城が望めます

迅速測図の方は、運悪く、地図の切替部もあって詳細は不明ですが、大井五郎太夫家綱の時代はもしかしたら、東川を渡河する方法があったのかもしれません。

東川は渡れませんから、関越道の側道で河岸段丘に上がり、坂之下の集落に入ったら、風土記によれば鎌倉坂と呼ばれる坂を下って再び河岸段丘下の道を進みます。

道はやがて英インターにぶつかり、そこから河岸段丘に上がって竹間沢こぶしの里を行きます。ここには鎌倉街道伝承が残ります。

入口です

この辺りは古井戸山と呼ばれ地蔵がありました。この砂利道が古道である証です

アスファルトの道に合流する手前を右に行くのが鎌倉街道

この山道からアスファルトの道に合流して直ぐの所に、木下稲荷があります。

良い雰囲気だったので思わず自転車を止めました

ここ竹間沢は、京都の伏見稲荷を勧請した六つの稲荷神社があって、それぞれ、10~20軒程の家で講を組織し、管理しているそうです。撮影はしませんでしたが、この道すがらにも幾つもありました。

初午の時には大きな幟旗を立て、夜には宴会を開くとのことですから、養蚕が関係しているのだと思います。河岸段丘の上ですから、水田は出来ませんし、この辺りは渡来人の入植地で、渡来人が齎した先進技術であった養蚕が盛んでしたから。

さて、この鎌倉街道は川越街道に平行する鎌倉通りに続きます。

鎌倉通りは、村山党大井氏の支配地、大井郷に行き着きます。

大井戸に向かう古坂と呼ばれる坂

まずは、大井戸跡を訪ねます。

大井戸

1696年の大井郷田畑水帳によれば、川越街道、鎌倉街道と砂川堀に囲まれたこのエリアは、"大井戸" と呼ばれており、この井戸が地名由来と言われています。

井戸は武蔵野台地特有の所謂まいまいず井戸です。富士山や箱根の山、浅間山の火山灰が数十メートル積もった関東ローム層の為、水源が深く、一般的な垂直に掘る方法では水源に辿り着かず、まいまいず = かたつむりのように掘り進めなければなりません。

井戸の底からは須恵器が見つかり、平安期に掘られたことが分かりました。

大井五郎太夫家綱の時代です。

大井五郎太夫家綱の館がここにあったのでは、と、目されています。

大井氏館は、このまいまいず井戸を含め、目の前の埼玉トヨペットふじみ野支店と、川越街道を挟んだ徳性寺がそのエリアだと言われています。

徳性寺

それにしても何故、大井五郎太夫家綱は、狭山丘陵を離れて、この地に住んだのでしょうか???

謎ですね。

さて、大井五郎太夫家綱の支配地、大井郷から次は村山党金子氏系難波田氏の痕跡を探りに南畑に向かいます。

鎌倉通りを南に戻り、砂川堀を越えて1つ目の交差点を左折します。この道も両実線の県道クラスの古道です。

新河岸川に到着しました。振り返れば休耕田に突如として現れたららぽーとです。

新河岸川を渡って南畑に入ればそこは金子氏系難波田氏の支配地です。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー金子六郎家範ー高範ー難波田小太郎某(難波田氏初代)

まずは八幡神社を訪れます。

八幡神社

難波田氏が篤く崇敬したと伝わります。1400年に鎌倉公方足利満兼が勧請ですから、その後の難波田氏ということになります。

難波田城公園に向かいますが、その手前に天神社です。

天神社、民家の庭の中にあるように見えて入りづらい

難波田城の鬼門除けとして創建されたと伝わります。

難波田城です。

全景

本城門

金子高範は鎌倉幕府北条氏に従い、承久の乱に参戦し、その恩賞として難波田の地を与えられ、その子、難波田小太郎某がここに住み、支配しました。

1351年の羽根倉合戦で難波田氏と高麗氏がこの近くの羽根倉橋付近で戦ってますから、承久の乱の1221年から1351年、八幡神社創建の1400年、そして、河越夜戦後、この地は後北条方の上田氏に与えられましたから1546年まで、難波田氏はこの難波田城に拠ってたということになります。

先を行きましょう、下南畑氷川神社です。

下南畑氷川神社

難波田城の元の場所だと言われていますが、、、

歴史的農業環境閲覧システムより、難波田城、下南畑氷川神社、蔵福寺の位置関係

むしろ、その間の蔵福寺も含めた広いエリアが難波田城だったのではないでしょうか。

蔵福寺越しの難波田城

先を行きましょう、宗岡天神社です。

宗岡天神社

この神社には、この地で代々名主を務めていた木下氏の先祖、村山党山口氏の山口大膳が、山口からこの地に進出した時に、山口の氏神を分祀したという伝承があります。

入間郡誌によれば、山口大膳は、山口大膳高信で、父山口主膳正高稿の時代に既に後北条氏の配下でした。

それまでは関東管領山内上杉家に属していて、山口三河守高実(1383年没)の時代には所沢から足立郡までを領地としていたといいますから、1546年の河越夜戦で、後北条氏に下ったことで、領地を安堵されたのではないでしょうか。それが、上記の伝承になったものと思います。

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如何でしたでしょうか。

柳瀬川の河岸段丘を左に見ながらのツーリングは楽しかったですし、ちょうど桜の季節でもあったので。

竹間沢は鎌倉街道だけじゃなく、古い集落の雰囲気も残ってて良かったです。

武蔵野台地の東端である大井郷から降りて、新河岸川と荒川の間の氾濫地であった難波田は、広大な田園で、景色が違いました。

さて、これで村山党は一段落としたいと思います。

次はどうするか。また悩まないと。