曹洞宗経堂山福昌寺 |
中国からの帰化人で、元江戸城御殿医、吉良氏家臣の松原土佐守彌右衛門が開基。
開山は、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この地の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけた。寛永3年(1626年)のことだ。
これまでご紹介してきた寺社と違い、吉良氏が直接開基や開山に関与したわけではないが、江戸城御殿医、吉良氏家臣、常徳院と来れば、吉良氏所縁の寺社だ。
松原土佐守彌右衛門は1588年没。常徳院は、遅くとも1573年にはあったとされるから、開基は1573年前後か。1573年と言えば、河越夜戦も終わっており、扇谷上杉氏は滅亡していて、山之内上杉氏は長尾景虎後の上杉謙信を頼り、江戸城は後北条氏の支配、吉良氏も後北条氏の家臣だ。
だから、松原土佐守彌右衛門は、後北条氏の居城である江戸城の御殿医で、家臣吉良氏によりここ世田谷の地に呼ばれ、福昌寺を開基したと考えられる。
この時代、後北条氏=吉良氏の敵は上杉謙信と武田信玄。実際、1561年には上杉謙信が、1569年には武田信玄が、小田原攻めの際、世田谷城を攻め込んだ(実際は、名門吉良氏の後光で通過のみ)。武田信玄の別働隊のルートは、六郷田無道か滝坂道で、福昌寺は滝坂道にある。
吉良氏、あるいは後北条氏は、武田信玄から世田谷城を守る為、松原土佐守彌右衛門を江戸城から呼び、武田信玄進軍ルートである滝坂道に、常徳院に続いて、福昌寺を開いたのだ。
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松原氏は、秀吉の小田原攻め、世田谷城廃城の後、この地の名主となった。
福昌寺から二子道(現農大通り)を南進し、烏山川を渡り、六郷田無道に至る台地を登ると経堂在家村の中心地だ。この辺りには松原姓の屋敷が多い。名主の子孫だ。
滝坂道に松原宿がある。この宿を開いたのは、吉良氏家臣松原佐渡守三兄弟だ。その子孫に松原土佐守彌右衛門がいる。
松原宿、あるいは松原地区と少し離れた経堂に松原姓が多いのは、一旦江戸城御殿医となり、再び世田谷に戻ったという経緯から来るものであろう。
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