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2013年11月23日土曜日

Aciant Road in Setagaya, Odakyu Line of Odakyu Electric Railway / 世田谷区の古道、小田急線

今日はいつもと違うお話をご紹介したいと思ってます。

天子南面

と、いう言葉はご存知でしょうか?

『天子』とは、皇帝、天皇など、つまり王様の意味。南面はそのまま、南を向くという意味です。つまり、王様は南を向くという意味です。

これは、北の空で全く動かない唯一の星、北極星を崇め、王様を北極星に重ね合わせることで神格化する思想から生まれた言葉だそうです。北極星は北にありますから常に南を向いてますね。

この思想は、遊牧を主としていた時代に生まれたそうです。北極星が旅の道標だったからです。北極星が見えないと道に迷う。当時、道に迷うことは、『死』を意味していました。

やがて農耕の時代に入ってくると、定住し始めますから、北極星の必要性が薄れます。代わりに、収獲を左右する太陽が神様になっていきます。

しかし、北極星を神と崇める思想は無くなりはせず、日本にも入ってきます。

神社の参道が、全部ではありませんが、本殿から見て南に向いているのは、その影響です。

が、参道が南西を向いている神社があります。常陸国一宮、宮中の四方拝で遥拝される一社、鹿島神宮です。

何故、鹿島神宮の参道が南を向かず南西を向いているのか-----



鹿島神宮の参道をずっと伸ばすとどこに辿り着くか御存知ですか?

ナント!!! 富士山です。

しかも、冬至の日の入の時、夕陽が富士山に沈んで行くんです。冬至は日照時間が最も短い日、逆に言えば、次の日からは日照時間が長くなるように転換する日です。言わば"再生"の日。



鹿島神宮の参道が南西を向いている理由がこれなのか、私には分かりませんが、何だか、ロマンを感じませんか?



さて、前置きが長くなりました。本題に入ります。

鹿島神宮と富士山を結ぶライン、このようなラインを、「レイライン」と呼びますが、小田急線の下北沢から喜多見までの線路は、ものの見事にこの鹿島神宮・富士山レイラインに一致します。





2013年11月21日7:50頃、経堂駅から千歳船橋方面を望む
iPhoneの19mmではこんなにちっちゃくなっちゃいましたが
世田谷代田駅から梅ヶ丘方面を望む
ここは以前環七旧道を探検した時に知った眺望ポイント。
その時は富士山は見えてなかったけど丹沢山塊は良く見えていて『良いな』と、思ってました。
この記事を書くに中りここを思い出し、GXR A16を持って駆け付けてみました。

先日、多摩丘陵にトレイルライディングしに小田急線の先頭車両に乗った時に、真っ正面に富士山が見えたのがキッカケで調べてみたら、こんなことが分かったのでした。

小田急線は、今風に言うと、パワースポットですかね。

2013年8月26日月曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Flower Viewing Road at Kami-kitazawa / 世田谷区の古道、上北沢花見の道

最近、世田谷区の古道探険もネタが尽きて来ました。私の場合、週末のジョギングかサイクリングのついでに探険する(と、言うか、毎回同じ所を走るというのは飽きっぽい私には無理で、この古道探険がジョギング・サイクリングを続けられている最大の要因)ので、毎週末、さぁ行こうかと思い立ってからジョギング・サイクリングに行くまでに時間が掛かってしょうがない状態が続いております。

そんな感じで何時ものように地図を眺めていると、経堂の北西部に何やら丸い道がありました。


より大きな地図で 上北沢花見の道 を表示

古道かなということで明治13年古地図を確認しますとやはり古道。

出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム

しかし、どうも腑に落ちないんです。

と、いうのもこの道、西は滝坂北道と鎌倉道の出合いから、鎌倉道を南に伸ばす向きで始まっています。東はと言うと、ぐるっと半円形に回った後、縦ラインの古道を経由し再び滝坂北道に戻っています。甲州道中に出たいんだったら、素直に滝坂北道を行けば良いものを何故?


より大きな地図で 上北沢、花見の道2 を表示

青が滝坂北道、赤が鎌倉道、緑が縦ラインの古道、黒が今回探検の古道
出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム
さては地形か?!と、地形図を見てみます。

ちょっと黒が見づらいですが・・・むしろ、今回探険対象の道の方が、アップダウンが激しいです。
ん?!大した違いはありませんね。確かに、ここは北沢川が削った谷。けど、どちらのルートも谷を越えます。

じゃあ何でなんだろうなぁと色々考えてみましたが答えは出ず。と、いうことで上北沢の歴史を調べてみました。すると、アッサリ分かりました!

江戸も文化・文政の頃になると庶民の間にも旅行がブームになって来ました。上北沢も、以下の名所で旅行先の一つだったようです。

・密蔵院の枝垂れ桜
・鈴木左内家の牡丹園
・榎本平蔵家の藤
・榎本喜太郎家の霧島ツツジ

これら花の名所をプロットすると・・・


より大きな地図で 上北沢、花見の道3 を表示

出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム
見事にこのルート沿いになりました。この道は、上北沢花見ルートだったんですね。(榎本喜太郎家は見つかりませんでしたが、まぁ、近所でしょう。)

2013年6月29日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Tako-saka & Handa-saka / 世田谷区の古道、凧坂・半田坂

以前、世田谷区には縦のラインがあまりなく、環七と環八があるだけで、しかし、共に、新しい道だと思われていたが、環七は殆ど古道を踏襲しているということを記事にしました。

しかし、正確にいうと、実は、まだあったんです。しかも古道で。

それが、今回探検する、凧坂と半田坂です。

場所は、鎌倉道世田谷八幡ルートを、滝坂道との辻を北上し、豪徳寺、山下駅前を抜け、松原六丁目の交差点の少し先です。


凧坂・半田坂、明治13年古地図
二股に別れていて、向かって右が半田坂、左が凧坂です。半田坂の登坂途中で、鎌倉道は右に折れます。

凧坂・半田坂下
自転車の二人を見ると、『さぁ、上るぞ』という空気感で出ていますね。
追分にある馬頭観音
名前の由来ですが、凧坂は、高い坂、高う坂、凧坂と訛った様です。半田坂は、頂上付近に半田塚があり、この辺りを半田村と言っていたからです。

半田塚
坂を登り切るとそこは甲州街道。そこから先北には延びてませんから、甲州街道を経由して南に向う道だったことが分かります。

南に目を転ずると、鎌倉道ですから、二子玉川に向かいます。と、いうことは、この道は、大山道でもあったのです。

半田坂沿いにある大山道道標
もう一つ、縦ラインの古道があります。実はこれも鎌倉道です。以前、ご紹介しています。

もう一つの縦ライン、鎌倉道西ルート
東西方向の太い道は甲州道中、真ん中縦の川は品川用水、品川用水沿いの道と
画面真ん中で二股に分かれている道は、南下すると狛江に続く縦ライン

鎌倉時代は、武蔵国の中心は現在の府中で、江戸城ではありません。又、平安・鎌倉海進もあり、東京低地は歩くのが困難でもありました。よって、官道や鎌倉道は、台地上のルートをとったのです。

東京地形図(現代)
下総国の国府市川に向かうには、都心を通るのが最も近いが、御覧のように、隅田川、中川、江戸川が
作った東京低地であり、平安・鎌倉海進の頃は海か、泥濘だった。
だから、縦のラインは鎌倉道と重なるんですね。

2013年6月22日土曜日

Ancient Road in Setagaya, Old Ringroad 7 / 世田谷区の古道、環七

世田谷に引っ越してきて思うのは、縦のラインが無いということだ。

『無い』というと言い過ぎだが、地図を見て、あると思って走ってみても、道が狭かったり、一通だったり。

これは結局、今の道の多くが江戸時代の道をベースとしていて、江戸城を中心に放射線状に広がっているからだ。だから、横のラインはある。新旧大山道、滝坂道、甲州道中など。

そんな中、唯一あるのは、環七と環八だ。だから、いつも混んでいる。

古地図を見ると、環七は、今の道筋と古道とあまり経路が変わっていない。

で、今回は、環七のペースとなった旧道部分を探検してみたい。

まずは環七の歴史から、Wikiに詳しい。以下、Wikiから抜粋:

旧東京市が1927年(昭和2年)に策定した「大東京道路網計画」、昭和2年8月1日内務省告示「大東京都市計画道路構図」に建設計画が盛り込まれ、まず西側の区間から片側二車線以上の道路として、ルート上の既存道路の「環状道路」への指定替えや拡幅、および主要区間の建設工事が始められた。

やはり、古道がベースとなっている。

これは、現在の地図に、現在の環七と古道とを示したもの。ほぼ同じ経路であることが分かる。


以下は古地図

環七、明治13年古地図
古地図と照合すると、旧道部分は、北から、

1. 羽根木交差点の辺り
2. 小田急線世田谷代田駅付近
3. 若林陸橋付近
4. 世田谷線若林駅付近

最後、旧道は、駒留陸橋を過ぎた辺りから、南西に折れ、六郷田無道に接続する。

では、1から探検です。

ここはただの住宅地で距離も短く被写体となるものがない。とりあえず、ガイドとして出入り口のみ載せます。

羽根木交差点付近旧道入口
羽根木交差点付近旧道出口
世田谷代田駅付近は、1927年(昭和2年)の駅開業以降、商店街として賑わい始めた。看板建築の商店などが残っている。
世田谷代田駅付近旧道入口
世田谷代田駅付近旧道の看板建築
この辺りは空襲を受けたはずだが、看板建築の商店が幾つか残っている。
丹沢方面の眺望、丹沢の山々がくっきり見える。ここは眺めが良い。初めて知った。
恐らく老舗の和菓子屋
世田谷代田駅付近旧道出口

若林陸橋付近の旧道は、途中、滝坂道と交差する。滝坂道には商店などあるがこちら環七旧道は住宅街だ。
若林陸橋付近旧道入口
滝坂下道との辻にある庚申様
若林陸橋付近旧道出口
若林陸橋付近旧道入口2、環七を渡った向こうに短い旧道が残る。
若林陸橋付近旧道出口2

若林駅付近は、世田谷線若林駅開業の1925年(大正14年)以来、商店街として賑わった。
若林駅付近旧道入口
若林駅付近旧道出口

最後、環七の旧道は、南西に向きを変える。住宅街を通って六郷田無道に接続し、終わる。この旧道は、甲州道中と六郷田無道を南北方向に接続する道だったのだ。

環七沿いには、北から、代田八幡、円乗院、若林天満宮、駒留八幡と寺社が多い。なんで新しい道である環七沿いに? と、思っていたが、旧道だったからだ。
最後、駒留陸橋を過ぎてすぐ、旧道は南西に向きを変える。その辻にはお地蔵様がいた。

2013年2月6日水曜日

Acient Road in Setagaya ward, Shinagawa-michi / 世田谷区の古道、品川道

鳥越川は、城山小学校付近に架かる品川橋
世田谷に、何故、『品川』か。

『品川』、『歴史』というと、家康が整備した東海道は江戸より最初の宿、品川宿を思い浮かべる人が多いだろう。が、品川の歴史はそれよりもっと古い。

品川湊は、律令下の武蔵国の外港だった。品川と武蔵国国府は、品川道で結ばれていた。

この道は、大国魂神社のくらやみ祭りでも使われている。くらやみ祭りとは、1062年、源頼義・義家親子が奥州征伐に向かう途中、品川の海から海水を汲んできて、戦勝祈願したのが始まりで、今でも、毎年4/30に開かれ、続いている。

江戸時代には、毎年4月25日に神官、神馬の一行が、早朝、府中を発ち、荏原神社を訪れ、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日の内に府中に戻ったいう。

その道筋は、大国魂神社神主の日記、六所宮神主日記によると、府中を発ち、金子、馬引沢、目黒で休息しながら品川宿に着いたとある。「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区の上馬、下馬付近、目黒は目黒不動だから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水路沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社、安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、くらやみ祭りの道筋ではないかと考えられている。
※世田谷区役所ホームページより

世田谷区役所の記事を元に、早速、明治13年の古地図で推理してみる。

結果はこれだ。


より大きな地図で 品川道 を表示

明治13年の地図と重ねてみる。

品川道明治13年古地図

滝坂道の松原宿クランクを北に行かず江戸期の南側の方の道へ。途中で南に折れ、城山小学校の西端と南端に沿い鳥越川を渡る。この橋こそ品川橋だ。だから、「品川橋」だったのだ。鎌倉道世田谷元宿ルートで旧大山道へ。そのまま鎌倉道世田谷元宿ルートであり六郷田無道を進み、環七手前で六郷田無道へ分け環七に入り、野沢の追分で品川用水跡に入る。目黒通りに出たらそのまま目黒通りを東へ。山手通りを南に折れ、目黒不動尊付近の旧道に入り、中原街道に出たら再び山手通りに復帰し、居木橋を渡り目黒川沿いに荏原神社に至る。

滝坂道、鎌倉道、六郷田無道と、国府である府中と国津である品川湊を結ぶ古道を繋いでいたのだ。

1590年、秀吉の小田原征伐で、世田谷城も前田利家により落城、城主吉良氏朝は、抵抗せず、秘密裏に、この道を使い品川に出て、舟で上総に逃げている。歴史の道だ。

2013年1月20日日曜日

Acuent Road in Setagaya ward, Kamakura-michi / 世田谷区の古道、鎌倉道

碑文谷公園西に位置する鎌倉道 東ルート
頼朝挙兵の際、義経が平泉から馳せ参じた道であり、
壇ノ浦の後、頼朝が奥州征伐で平泉に向かった道。

鎌倉道というと、鎌倉時代に、御家人たちが、『イザ、鎌倉!』と、それぞれの領地から鎌倉に馳せ参じた道だ。

世田谷には、鎌倉道に所縁のありそうな通りや橋、史跡が幾つかある。今回は、それらを通して、世田谷と鎌倉道の関わりや歴史を紐解いてみたいと思う。

1. 鎌倉通りと北沢川に架かる鎌倉橋(太子堂八幡ルート)

京王井の頭線下北沢駅西口の踏切を南に渡り道なりに進むと、小田急線の踏み切りに出て、それを渡りほぼ真南に道なりに進むとやがて北沢川に出る。その橋は鎌倉橋で、その通りは鎌倉通りだ。世田谷に、何故、『鎌倉』なのか。通りは南北で鎌倉に向かってもいない。

北沢川に架かる鎌倉橋
鎌倉通り
古道の雰囲気が残る道だ。

謎を解いてくれるのは、そのまま南に進んだところにある太子堂八幡だ。

太子堂八幡

境内掲示の由緒によると、

『平安時代後期源義家が、父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中、この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から、少なくとも、これより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で、鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。』

源頼義・義家親子の、陸奥の阿部氏討伐とはつまり前九年の役で、源頼義が陸奥の守として奥州に赴任したのは1051年だ。この道は、1051年には既に成立していたということになる。

2. R20上北沢駅入口付近にある鎌倉街道入口(西ルート)

R20の鎌倉街道入口標識

この道を北上すると神田川があり、そこに架かる橋がやはり鎌倉橋だ。

神田川に架かる鎌倉橋の袂にある石碑

神田川に架かる鎌倉橋を渡り、西永福方面に進み、方南通りに出て暫くすると、大宮八幡がある。

大宮八幡

大宮八幡の由緒によると、

『鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。

また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。』

太子堂八幡ルートは前九年の行きに通ったとのことだったが、この西ルートの場合、前九年の役の行きと帰り、源頼義・義家親子がここを通ったとのことだ。更に、このルートの場合は、後三年の役の帰り、よって1087年頃、義家が再びここを通っていることになる。

逆に進んでみよう。

R20の鎌倉街道入口から、上北沢駅に向かい、松沢病院を抜け、八幡山グラウンドの北辺を西に、環八を渡り、芦花公園の北辺を西に、芦花公園西の交差点を南に。あとは一本道で、祖師谷大蔵の駅を過ぎ、やがて、津久井往還と出合う。

芦花公園西の交差点と祖師谷大蔵の間の南北の一本道、祖師谷大蔵の駅の手前に、祖師谷神明社がある。

祖師谷神明社

ここの伝承は、

『古老の口碑によると、正平年間(1346-69)に新田義興・義宗兄弟等が足利尊氏討伐の挙兵をしこの地に来た際に小祠があるのを見て、祭神の何たるかを聞き、天照皇大神であるのを知り、新田兄弟は、「吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなり」として戦勝を祈願し甲冑一式を献じ兵を励まして出発したと伝承されている。』

この伝承では、1335年の中先代の乱の際、この道が使われたことになる。

3. 千歳船橋の鎌倉道伝承(千歳船橋ルート)

能勢公園世田谷区案内板

※見易くする為、天地逆にしてある。

多少分かりづらいが、画面左下に、『鎌倉道』を確認できると思う。写真地図では橙の道筋が該当する。

また、千歳船橋の船橋の地名の由来だが、世田谷区によると、

『ずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200メートル、長さ1800メートルくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は、古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところは、かつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。』

確かに、この道をまっすぐ北へ進むと、上北沢駅の南で、西ルートとぶつかる。

4. 世田谷八幡(世田谷八幡ルート)

世田谷八幡

世田谷八幡の由緒は、境内掲示によると、

『義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。』

と、西ルート同様、義家後三年の役の帰り、世田谷八幡に寄ったとのことだ。

尚、この道は、北へ行くと笹塚で、太子堂八幡ルートとぶつかる。

5. 駒繋神社、芦毛塚(東ルート)

芦毛塚

祐天寺の駅の西、世田谷の下馬に、写真の芦毛塚がある。頼朝が奥州征伐で平泉に向かう際、このすぐ北を流れる蛇崩川に、乗っていた芦毛の馬が足を取られ、転倒し、死んでしまったことから塚を建てたという伝承が残る。その時、頼朝は、家臣たちに、馬を下りて渡河するよう指示したことから下馬、川を渡り再び馬に乗ったことから上馬という地名が起きたという伝承がある。(が、上馬・下馬は、上馬引沢と下馬引沢から来ている。上下は京に近い方が上、遠い方が下で、馬引沢は、既述の伝承から来ている。)

蛇崩川沿いに西へ行くと駒繋神社がある。

駒繋神社

駒繋神社の由緒は、

『源義家が父頼義公とともに朝廷の命をうけ奥州に向かう途中、この地を通過するさいに、子の神に祈願参拝休憩したと伝えられる。また、文治五年(1189)七月源頼朝が、源頼義・義家という先祖に倣い、藤原泰衝征伐のため立ち寄り祈願したさい、愛馬を繋いだ松を駒繋とよび、のちに駒繋神社と称するようになったとされる。』

3代目駒繋ぎの松

と、太子堂ルート、西ルート同様の源頼義・義家親子の前九年の役に向かう際の伝承と、頼朝奥州征伐の伝承が残っている。

又、このルートは、冒頭の写真のキャプションで記載したように、義経が、兄頼朝挙兵の際、平泉から鎌倉へ馳せ参じた道という伝承も残っている。弟義経が、未だ見ぬ兄、憧れの兄に会いに行った道なのだ。

頼朝が奥州征伐に向かう時は、義経は、藤原泰衡の裏切りにより既に自害していた。泰衡は、義経の首を酒に浸した瓶を頼朝に送り、なんとか征伐をやめてもらうようにしたという。頼朝の許可無く義経を討ったことに激怒し頼朝自ら奥州に向かった訳だが、それだけだったのだろうか。頼朝は弟義経を生かしたかったのではなかろうか。この道を行く頼朝の心を思うと・・・

6. 世田谷元宿ルート

世田谷元宿というのは、吉良氏が世田谷の地を拝領し、世田谷城築城後に開発した鎌倉道の宿場だ。場所は、今の世田谷区役所辺りという。時代は下り、後北条氏の時代、宿場は拡大され、新宿ができる。新宿では楽市が開かれ大いに賑わった。新宿は拡大し、上宿と下宿に分かれた。上宿は今の上町に名残がある。尚、上宿の楽市が今に残るのがボロ市だ。

世田谷元宿のあった辺り、現在の世田谷三丁目交差点付近

この世田谷元宿を通るのが、世田谷元宿ルートだ。ここまでご紹介した1~6のルートは、全て、鎌倉時代かその直前の平安末期(源頼義・義家の東国拠点は鎌倉)で、鎌倉の必然性がある。が、このルートは、吉良氏が開発した世田谷元宿を通っていることから室町期のルートとのことだ。

何故、室町期に鎌倉か。

1356~1365年の間、吉良治家は、鎌倉公方足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷の地を与えられ、その後、武蔵国世田谷も拝領、やがて世田谷城を築き、本拠を世田谷に移した。鎌倉公方は鎌倉将軍と言われ、東国において最高の地位にあった。その次が官領で、その次が御一家。吉良氏は、ご一家に列し、足利一門として、無御盃衆とされ、格別の処遇を受けた。

鎌倉と上野国碓氷郡飽間郷のルート上に、世田谷はある。

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源頼義・義家親子の前九年の役の伝承は、幾つかのルートで重なっている。どちらが本当か、はたまたどちらも単なる伝承の域を出ないのか、それは分からない。

その後の頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟の伝承も、その域を出ないかもしれない。

が、この辺り、世田谷の地を、1000年近く前に源頼義・義家親子、頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟が通って、我が先輩方と何らかの交流があったのだと思う。

そう思うと、何だか楽しいではないか。実際、私は、こうして調べたり、実走したりして、歴史に思いを馳せることができて、楽しかった。


より大きな地図で 世田谷区の鎌倉道 中道 を表示

鎌倉道 中道の地図

太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、北では笹塚で繋がっていて、南では大山道で繋がっている。

西ルートと千歳船橋ルートは、津久井往還で繋がっている。

西ルート、千歳船橋ルート、太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、中野通りの十貫坂上で繋がっている。

地図を見ると、現実には、多摩川の状況で渡し位置を変え、渡し位置によってその日の道筋を変えていたのかもしれない。

又、大山道、津久井往還の成立時期は、平安末期頃なのだと推定できる。大山道は、後北条氏居城小田原城と世田谷城、江戸城を結ぶルートであることから、戦国時代に成立したと思っていた(http://yogismessage.blogspot.jp/2012/12/blog-post_23.html)が、それより早いかもしれない。

一方、東ルートだけは、赤羽で全てのルートと接続するものの、南側はどことも接続していない。頼朝伝承があるのも東ルートだけで、そのことと何か関係があるかもしれない。

以上

2012年12月27日木曜日

Acient Road in Setagaya ward, Rokugou-Tanashi-michi / 世田谷区の古道、六郷田無道


より大きな地図で 六郷田無道 を表示

六郷田無道とは、その名の通り、六郷と田無を結ぶ道だ。

しかし、何故、田無と六郷を結ばなければならなかったのか、それが分からない。

例えば行徳道は、行徳が戦に欠かせない塩の産地だったので、江戸と行徳を結ぶ道を整備した。

田無と六郷にそのような話があるのか。

田無は、最も早くて後北条氏の時代の小田原衆所領役帳にその名が現れる。が、栄えたのは、家康が、江戸城改修の為、成木から江戸に石灰を運ぶ道として青梅街道を整備し、その宿場となったことによる。青梅街道は、八王子領主大久保長安が整備した。

一方、六郷は、西の防衛戦だった多摩川があるからだろう、家康江戸入府後直ぐに天領となり、その後、東海道整備後は、品川宿と六郷の渡しにより、栄えた。

田無と六郷の歴史を紐解いても、繋がりが見えてこない。唯一、大久保長安が六郷大橋架橋の責任者だったというのがあるが、幕府の重鎮がわざわざ現場視察に行かないだろう。

どうやら江戸時代に作られたわけではなさそうだ。

その前、後北条氏の時代も、重要な城があったわけではなく、この線も無い。

更に前、頼朝の時代でも、鎌倉とは方向が違う。

残るは、滝坂道や古府中道のように、律令の時代ということになる。

地形図をみてみよう。
六郷田無道地形図


綺麗にアップダウンを避けた道筋となっている。実走したが、実に走り易かった。やはり、六郷田無道は、六郷と田無を結び道ではなく、武蔵国国府府中と品川湊を結ぶ道だった。

以下、実走時の道中のスナップ

弦巻二丁目の馬頭観音、彫刻もきれいに残っている。
桜地区地蔵
直ぐ隣の庚申塔
千歳台の庚申塔、東・世田谷道
榎庚申塔
稲荷森稲荷神社
以上