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2020年6月7日日曜日

武蔵野

"昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。"

今の武蔵野 国木田独歩 1898年

1898年に国木田独歩が、"今の武蔵野"で描いた武蔵野の美は、当時は林でしたが、嘗ては、一面の萱(茅、ススキなど)の原でした。

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東は五日市街道が神明通りと交差する地点から、西は、五日市街道が千川上水と交差する地点まで、五日市街道の周囲に広がるエリアは、嘗て、江戸幕府御用達の茅刈場で、武蔵野御札茅場千町野と呼ばれていました。

そうです。

江戸時代のある時点まで、この辺りは、嘗ての武蔵野の美を象徴するエリアだったのです。

迅速測図を見てみましょう。


このエリアは、茅場千町野だったわけですが、迅速測図は明治13~19年作成ですから、
  • 1657年に明暦の大火がありましたが、延焼の一つの原因が茅葺屋根だったということで、茅葺屋根が禁止となり、茅刈場が不要になった。
  • 延焼を防止する目的で、火除地を設けることとなり、そのエリアにいた住民を移住させる必要が生じた。
  • 1653年に玉川上水が敷設されていた。
と、言うことが重なった結果、茅刈場を廃止し、火除地となり移住の必要が出た住民を移住させ、次々と、新田として開発されていった後の姿となります。

ある時点とは1657年の明暦の大火でした。

江戸幕府御用達茅刈場だから人家も無いし、地形的にも、迅速測図を見て分かる通り、善福寺池・善福寺川と、井の頭池・神田川に挟まれた台地で、起伏も無く真っ平らですから、道は自由に引けたんですね。

だから、五日市街道は本当に直線ですし、五日市街道と直角に交差する道~地割~も、直線です。

真っ直ぐな五日市街道、遠くまで見通せます。家康江戸入府時、荒廃していた江戸城再建の為、漆喰の材料である石灰は青梅から青梅街道で、石材は五日市から五日市街道で運びました。だから五日市街道は江戸初期に成立したものと思われます。青梅街道は1603年です、ほぼ同時期でしょう。

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五日市街道が出来てから50年後の1653年に玉川上水が出来ます。

そして、1657年に明暦の大火が起きます。

武蔵国豊島郡関村の名主、井口八郎右衛門は、武蔵野御札茅場千町野の野銭を徴収し代官に納める野守でした。

が、既述のように、明暦の大火によって武蔵野御札茅場千町野が廃止となり、言ってみれば、仕事が無くなった、収入源が1つ絶たれたわけですね。

そこで井口八郎右衛門は、900両の上納金をもって武蔵野御札茅場千町野の開発をしたわけです。

その井口八郎右衛門が創建したのがこの大宮前春日神社です。

恐らく地元関村にあったんでしょう。入植時に遷座したものと思われます。

大宮前春日神社

地割について、幅2間ですから3.6mの五日市街道の両サイドに60戸分地割しました。

地割の間口は20間ですから36m, 奥行は全部で250間ですから450mという細長い短冊型。

配分も決まっていて、まず家屋が5畝10歩ですから15m弱、次に、上畑、中畑、下畑という畑地で、最後に林でした。

下記写真は大宮前春日神社の少し西の、五日市街道から正に10数メートル北に入った所に残っている畑です。1658年当時の痕跡ですね。

今尚残る畑
迅速測図での大宮前新田、真ん中やや左上に大きく、"大宮前新田"の地名が記載されています。ど真ん中の青点が春日神社、地図にも説明記載がありますね。赤線が五日市街道で街道沿いに家があるのが分かります。この幅が20間ということです。地割は上下の紫線まであります。上の畑の写真は春日神社から西に2つ目の点線辺りかと思います。
現在の空中写真です。黄色点が撮影地。撮影地の左と右2つの地割は五日市街道から15mの家屋、その次に畑があるのが分かります。流石に江戸時代当時のままとはいかず、途中から畑が売られたんでしょう、一般の家々が並んでますし、林も無くなってます。

五日市街道を西へ進むと、西高井戸松庵稲荷神社があります。

西高井戸松庵稲荷神社、ピントがチャリに合っちゃいました。
迅速測図、明治13~19年当時ということになります。

迅速測図を見て下さい。松庵村という文字の直ぐ下に、"稲荷社"という文字が見えますね。で、五日市街道を挟んで直ぐの所にも、"稲荷社"とあります。

五日市街道の北が松庵村の鎮守のお稲荷さんで、南が中高井戸村の鎮守のお稲荷さんだったんですが、昭和9年に中高井戸村の鎮守のお稲荷さんが松庵村鎮守のお稲荷さんに合祀され今の形となっています。

迅速測図を見るとその様子が分かりますね。

松庵村は1658~1660年に、松庵という医者が開いたと伝えられています。開村の背景は不明ですが、時期からして、大宮前新田同様、明暦の大火、玉川上水が関連しているものと思われます。

中高井戸村は、一説によると、玉川上水の為、移住させられた高井戸の住民により開かれと言われています。

水は高い所から低い所に流れますから、上水は、標高が高い所から少しだけ低い所を選んで、それを繰り返し開削していきますので、移住させられる人たちもいたんだと思います。

更に西に進み、緊急事態宣言解除で賑わってしまっている吉祥寺も過ぎて、西窪稲荷神社を訪れます。

西窪稲荷神社

1657年の明暦の大火で、時の将軍家綱から移住を命じられた芝西窪城山町の住民が、地元の氏神様だったお稲荷さんも遷座しここに祀られています。

少し西に行った所には、関前八幡神社があります。

関前八幡神社、氏子の皆さんが境内を清掃中でした。

ここは明暦の大火から少し間を置いた1678年に創建されています。

関前村は、北にある千川上水を越えた先に武蔵関公園がありますが、そこら辺りに関村があり、そこの住民が進出し新田開発した村となります。

これまでご紹介した大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村は、明暦の大火の直後に入植、開発されていましたが、ここ関前村はその凡そ20年後。更に、明暦の大火の被害に遭わなかった練馬の人によって開発されました。

と、言うことは、新田開発が上手くいっていたということなのではないでしょうか。だから、俺達も、ということで、まだ空いていたこのエリアの開発に名乗りを上げたのだと想像します。

ん?!

関村と言えば大宮前新田を開発したのも関村名主井口八郎右衛門でしたね。

大宮前新田開発の成功により、2匹目の泥鰌ということでしょうか。

迅速測図における関村と関前村の位置関係、黄色ポイントしてます。

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さて、国木田独歩が言う武蔵野の美、武蔵野御札茅場千町野の開発の歴史を見てきたわけですが、もう一度、迅速測図を見てみましょう。

武蔵野御札茅場千町野

マーキングしちゃったんですけど、武蔵野御札茅場千町野だったから人家は無いし、地形的にもほぼフラットだから道は自由に真っ直ぐに引ける・・・と言っていたのに、突然の斜め道ですね。

これは何なのかと言うと、こういうことなんだと思います。

3八幡と井之頭弁財天

  • 井之頭弁財天、平安時代の天慶年間(938~947年)に、関東源氏の祖、源経基が創建
  • 武蔵野八幡宮、延暦8年(789年), 坂上田村麻呂が奥州征伐に向かう際、この地で兵馬が病気となり、進軍できなくなった。そこで坂上田村麻呂は、持っていた宇佐八幡宮の御分霊を井の頭池北の丘陵地に安置、祈願したところ、たちまち兵馬は回復した。坂上田村麻呂は、奥州征伐凱旋の途中、この地に立ち寄り、社を建立した。
  • 荻窪八幡神社、寛平年間(889~898年)に創祀されたものと伝えられ、永承6年(1051年)に、源頼義奥州東征の際、戦捷を祈願、康平5年(1062年), 凱旋時に社を修めた。
  • 井草八幡宮、創建当時、春日社だったが、源頼朝奥州征伐(1189年)の際、戦勝祈願をし、以来八幡宮を奉斎するようになった。
ということで、この斜め道は、奈良時代にまで遡れる古道で、奥州に向かう道だということが分かります。

(東北人としては、こうして改めて何度も征伐されたことを思い出させられ、複雑ですが。)

武蔵野の美、江戸時代に武蔵野御札茅場千町野と呼ばれた一面の茅(ススキ)の原は、しかし、一筋の奥州古道だけは、存在していたということになります。

想像してみて下さい。

一面のススキの原に、騎馬武者が進んでいくのを。

井之頭弁財天
武蔵野八幡宮
荻窪八幡神社
井草八幡宮

因みに、明暦の大火と、実は翌年には吉祥寺火事もあったんですが、これによって、更にその翌年、吉祥寺門前の住民には、幕府御用の茅刈り場であった札野が替え地として与えられ、移住を命じられました。これが今の吉祥寺村です。

ですから吉祥寺村も、大宮前新田、中高井戸村、松庵村、西窪村、関前村と同じく、明暦の大火キッカケで開発されたんですが、違いは、神社は持ってくる必要が無かったという点ですね、武蔵野八幡宮という立派なものがありましたから。

武蔵野八幡宮の境内社の覆殿の扉の彫刻

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帰り道、連雀に寄り道しました。連雀も同じような成り立ちです。

1657年の明暦の大火によって火除地とされた神田連雀町の住民25人は、代替地としてここ茅場千町野を指定され、新田開発しました。村の名は元の連雀としました。

少し経った1664年、八幡神社を遷座しました。それが今の下連雀鎮守、八幡大神社です。

八幡大神社

上連雀は、ナント!!, 大宮前新田、関前村を開発した井口家によって新田開発され、鎮守の上連雀神明社は、1672年に創建されています。

上連雀神明

井口家は新田開発のプロ集団だったんですね。

2020年3月1日日曜日

東京都町田市三輪、神奈川県横浜市青葉区奈良町・奈良

  • 東京都町田市三輪
  • 神奈川県横浜市青葉区奈良町、同県同市同区奈良
この2つの地区に共通しているのは、“三輪”、そしてこちらはそのものズバリですが、“奈良”という、奈良県の地名ですね。

しかも、この2つの地区は隣り合ってるんです。

どういうことなのか?

まさか、奈良から移住してきた人達が住んでいる?

はい、そうなんです。

“町田の民話と伝承”によると、
  • 奈良県桜井市大字三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)の社史には、武蔵国の三輪神社(上下二社)が、大神神社のご祭神、大物主神を勧請す、と記されている。
  • 上下二社とは、上三輪の熊野神社と、下三輪の椙山神社のこと
  • 同じくその社史に、斉藤氏、荻野氏を遣わされて移住させ、三輪の名称がつけられた、と記されている。
という記載があり、また、現在も確認できることとして、町田市三輪の沢山城があった七面山の山主は荻野氏であり、これは私自身も確認しましたが、高蔵寺から椙山神社に向かう古道沿い(七面山上、沢山城北側)には荻野氏の大きな邸宅があります。
    これだけ、三輪には、伝承やそれを裏付けるような事実もあるんですが、何故か、奈良にはこういった話が無いんですが、まぁでも、ともかくも、三輪にはこういう話があり、奈良も隣り合ってるんですね。

    三輪には鶴見川が流れます。

    武蔵国の延喜式古代東海道、浅草の記事で、大和王権勢力が大和川を下って大阪湾に出て、淡路島・四国と紀伊半島の間を抜け、太平洋を東進し、三浦半島を回り込み、東京湾に入って、浅草にあった無数の島々を伝って進出したという話をしました。同様に、品川の記事でも大和王権勢力が品川に進出してきたという話をしましたが、三浦半島を回り込み、本牧岬を過ぎて直ぐの所で口を開けている、鶴見川を遡る勢力もいたのではないか、と、想像するわけです。

    ということで今回は、里山癒やししつつ、この2つの地区で、大和王権の足跡を探ってみたいと思います。

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    津久井道から藤の木の交差点を南下、二股は左に行き、鶴見川を渡ります。

    実はこの辺りは何度も来ているのですが、最近ではこの里山癒しシリーズで来ていますが、武相国境シリーズでも来ています。

    その武相国境シリーズのテーマは、“産鉄”。“藤の木”の“藤”は産鉄地名です。今回も産鉄がキーワードになるかもしれません。

    さぁ、鶴見川を渡ったら上りです。コースは高蔵寺を左折するんですが、少し先まで行って熊野神社に寄ります。


    町田市史によると、プロローグで既述の通り、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。

    しかしその時は三輪神社として創建しています。何故、いつ、熊野になったのでしょうか?

    確かに、この辺りは熊野が濃いエリアです。

    鶴川駅前の香山園は熊野の出の神蔵家屋敷ですし、“柿生文化”によると、嘗て川崎市麻生区には、上麻生に2社、その他、片平・古沢・万福寺・高石などに8社の熊野神社があったそうです。その内の一社は麻生の大ヶ谷戸の鈴木一族の鎮守で、現柿生駅前のサープラス柿生にありました。そしてこの辺りには鈴木家が多く、その家紋は皆、熊野藤白神社の「下り藤(上り藤)」で、紀州の一族であることが分かります。また、町田市能ヶ谷の郷土史には、鎌倉時代に、紀州から鈴木、神蔵、夏目の氏族が来住し、この地に熊野神社を勧進したとあるそうです。

    ですから創建当初は大物主を祀った三輪神社だったのが、鎌倉時代の紀州熊野勢の進出により、熊野神社になっていったのではないか、と、想像しています。大和王権勢力の後は、熊野勢の進出もあったんですね。

    ルートに戻る前にもう一つ寄り道し、沢山城に登城します。

    七面大明神、少し見辛いですが、鳥居の奥の山頂に社があります。
    私は城関係はマニアではないのですが、これは堀跡と左の平らな所は郭なのだと思います。こういった城跡が比較的良く残っていると思います。

    風土記によると、“荻野与兵衛が先祖の居跡に造りし”とあります。プロローグの町田の民話と伝承を補強する資料ですね。

    ルートに戻り、高蔵寺です。

    この日は辻々で道案内のガードマンが出るなど何か物々しい雰囲気。高蔵寺で斎藤家のお葬式でした。斎藤家と言えばプロローグに既述のように大和国三輪から遣わされた一族の1つ。だからだったんですね。

    真言宗豊山派、1362年、足利将軍家祈願所として開山したとのことです。

    何故足利氏か?

    調べてみると、東隣の武蔵国麻生郷は足利尊氏の所領だったようで、その当時の麻生郷の範囲は不明ですが、後北条氏の時代は三輪も含んでいたことから、時代的にも合いますので、やはり、足利将軍家が所領地に祈願所として開いたということなのだと思います。

    また、この辺りの地名は“桜田”といい、産鉄地名です。

    先に進みます。

    高蔵寺から上り、荻野氏の大邸宅を過ぎると下りになりますが、その途中に白坂横穴古墳群があります。


    因みに、“白坂”は、沢山城への“城坂”だったのではないかと言われています。そう言われれば、この辺りは掘割に見えてきます。

    寒緋桜と梅が咲きます。先ほどの沢山城の写真でも梅がきれいでしたが、本当にこの辺りは花が美しいです。癒されますよ。

    話を古墳に戻します。

    この白坂横穴古墳群は、7世紀頃と言うことですが、横穴墓自体は、5世紀後半に九州北部で始まり、6世紀中頃には山陰、山陽、近畿、東海まで広がり、7世紀初頭までには北陸、関東、東北南部まで分布しましたから、これもやはり、大和王権を含む西からの勢力が入ってきたことを表しているのだと思います。

    下り切り、再び上り返し椙山神社です。


    町田市史によると、熊野神社同様、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。ここの御祭神は日本武尊と大物主です。日本武尊は、三輪神社から杉山神社になった時の後付と思われ、ということは、オリジナルの大物主がちゃんと残ってますね。

    この辺りの地名は”藤作”で、産鉄地名です。

    七面山を中心とした三輪の中心地を後に、椙山神社の山を下ったら、西ノ谷戸に入り、西谷戸横穴墓群を見てみます。ここの横穴墓群も7世紀に作られたと考えられています。


    また、そこにある鶴見川の支流は、その名も"多々良川”。そのものズバリの産鉄地名ですね。

    西ノ谷戸の奥の奥に美しい田圃が広がってました。正に癒やし。多々良川の水を使っています。

    さて、次は三谷戸です。三谷戸の支谷戸の玉田谷戸の奥には、下三輪玉田谷戸横穴墓群があります。ここも、6世紀末から7世紀にかけて作られたと考えられています。


    この辺りは非常に多いですね、横穴墓が。整理するとこうなりますね。
    1. 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
    2. 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、三輪神社を創建
    3. 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、三輪にも拡大し上三輪神社を熊野神社に
    下三輪玉田谷戸横穴墓群から、そのまま、東京都と神奈川県の都県境(嘗ては武蔵国多摩郡と都筑郡の郡境)尾根を楽しみます。まずは東に行き、ゴルフ場の手前で折り返します。

    こんなヤセ尾根があったり、
    こんな竹の道もあります。この竹の道は、ゴルフ場で折り返し、横穴墓も通り過ぎ、切り通し近くまで行った所にあります。

    寺家と言えばこの切り通しですが、


    迅速速図を見ると、今折り返してきた武蔵国多摩郡と都筑郡の郡境尾根道は、切り通しにはなっておらず、西に続いていますね(ここの峠で一本実線の荷車道から片実線・片点線の村道に切り替わって続いています。)。


    また、今の切り通しもかなりの迫力がありますし、等高線を見てもかなりの密度で、急峻なヤセ尾根だったと思われます。だからですかね、村道はここでクイッと直角に西に折れてます。辛うじて、一本点線の徒歩道がヤセ尾根を越えて続いているだけとなります。迅速測図が出来たのが明治15年前後ですから、切り通しはその後に出来たということになります。

    峠を越え、武蔵国多摩郡から都筑郡に入りました。山田谷戸に寄り道し、寺家を後にしたんですが、この山田谷戸が面白かった。

    迅速測図を見ると谷戸奥で徒歩道で村道がある尾根に上がれます。
    村道との合流点です。クヌギの大木が折れてました。昨年秋の台風でしょう。管理されてない道だということが分かります。
    これが嘗ての村道、さすがに村道なのでしっかり踏まれてますね。合流点から西に少し行ってから合流点を振り返って撮影。

    尚、山田谷戸の辺りは”菅ノ入り”という地名で産鉄地名です。

    鶴見川を渡り、向かったのはここ、稲荷前古墳群です。

    墳丘
    墳丘から大山方向、この日は暖かったので大山が霞んでます。

    前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基の計10基の古墳と3群9基以上の横穴墓から成ります。

    今はもう開発で失われましたが、1号墳だった前方後円墳は、4世紀末から5世紀始めに作られたとされています。

    前方後円墳と言えば大和王権

    そうなんです。私がわざわざここまで寄り道したのは、ここが全ての始まりだったのではないかと思うからなんです。

    今一度、整理しましょう。
    1. 4世紀末から5世紀始めにかけて、大和王権勢力が東国に進出、鶴見川を遡り、稲荷前古墳群の地に、前方後円墳を築造
    2. 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
    3. 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、上下三輪神社を創建
    4. 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、後に三輪にも勢力を拡大し、上三輪神社を熊野神社に
    尚、稲荷前古墳群がある辺りは、“黒須田”や“鉄(くろがね)”と言った産鉄地名が並びます。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

    稲荷前古墳群から鴨志田川が作った谷を西へ。奈良に入ります。

    ここに松岳院があります。1572年開山の曹洞宗寺院なんですが、そんなことよりと言ったら怒られてしまいますが、ここにはこのLinkにあるように、今は廃寺となった嘗ての末寺、瑞円寺から移設された剣先地蔵が祀られています。

    どう見ても男根ですね。

    これは全くの想像ですが、瑞円寺が作ったものではなく、瑞円寺付近で発見されたものを、近くの宗教施設だった瑞円寺に納めたものと思われます。

    石棒は縄文中後期、中部、関東で、住居の中、特に炉端で発掘されることが多いそうです。そのことから、何らかの火に関連する祭祀儀式に用いられたと考えられています。

    その縄文時代の宗教的感覚を引き継いだといえるのが今でも続く金精様信仰で、女性が木や石の男根に触れることで子宝に恵まれるという生殖、再生への願いが信仰となっていますが、縄文時代も同じく信仰だったと思われます。

    石棒は、縄文時代後期になると、東北地方を中心に、松岳院にあったような抽象的な形状になるそうです。

    この剣先地蔵は、縄文時代後期の東北地方にそのルーツを求められるかもしれません。

    奈良から奈良川に沿って南下し恩田に入ります。恩田薬師堂です。


    そして、地元で足利街道と呼ばれる尾根道を越えた白山谷戸には、白山神社があります。

    白山神社、なんともものすごい空気でした。恐らく1200年前と、ここは、何も変わってない、そう、思わせました。
    崩れてしまった祠を何とかして守るように石が囲んでいます。この白山神社を心の拠り所としてきた人達の思いが感じられます。その中に、御神体の石棒が。

    柴田弘武によると、別所という地名は産鉄地であり奥州俘囚の移配地ということです。山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということでした。

    ここは別所地名ではありませんが、東北の民達の信仰である石棒、薬師堂と白山神社があります。

    また、こちらのサイトによると(勝手にリンクでスミマセン)、地元の方によると、昭和の初め頃までこの近くに皮坊(かんぼう、動物の皮の加工の従事者)と呼ばれた被差別部落があり、白山神社を信仰していたそうです。

    恩田川を西に行き、多摩郡と都筑郡の郡境尾根を北上し、子ノ辺神社に行きます。恩田川から多摩郡と都筑郡の郡境尾根に上がる所は、“吹上”で、産鉄地名です。

    武蔵国多摩郡、都筑郡、郡境尾根道。郡境にある道ということは郡が出来た時に成立した道ということ。と、言うことは律令の時代ですね。
    郡境尾根道から子ノ辺神社に向かう道
    子ノ辺神社

    風土記によれば、“村の西より少く北の方によれり、上屋一間半に二間半、内に稲荷を相殿として小祠を置く、神体は石剱に似て長さ二尺ばかり、半より折てあり、円径三寸ばかりなり、是も徳恩寺持”と、あります。

    写真、ほぼ中央、招き猫の奥に石棒があります。風土記とは寸法が違いますが、オリジナルな紛失してしまったか奥に保管されているのかもしれません。

    これも松岳院と同じく、男根で、我が同胞、東北の民達がここに暮らしていた査証かもしれません。またここは、あかね台鍛冶谷公園から分かるように、産鉄地名です。

    引き続き、多摩郡・都筑郡郡境尾根を行き、西谷戸を経由して、岡上に入っていきます。途中、“大田平”、“梨子”といった産鉄地名を通り過ぎます。

    気持ちの良い尾根道を行くと嘗て集落があったエリアとなり、この辺りも三輪同様にとても良い所ですね。

    梅と庚申塔
    こんな徒歩道も残ってます。
    塞ノ神

    東に行き、岡上神社です。

    神奈川県神社誌によれば、創立年代不詳、明治四十二年三月十六日、四社を諏訪神社に合併し、地名をとって岡上神社とす、とあります。御祭神が日本武尊、健御名方命、大山昨神、稲倉魂命なので、この1社足りませんが。

    そんなことよりと言ったら怒られますが、ここにはこれがあるんです。

    金精様

    またしても金精様です。

    そして、碑文を見るとこれまた面白いことが。

    足利義氏、この人は足利家第3代当主で、足利尊氏の5代前となりますが、文治5年(1189)に生まれています。碑文を見ると、足利義氏が生まれた文治5年3月に陽石、これは石棒のことですが、それがこの地で出現したと。一方、伊豆にいた理真上人が密法変生男子によって渡良瀬川の近く、つまり足利の地で足利義氏が生まれた。だからこの石棒は霊験あらたかな金精大明神だと書いてあります。

    こういうことでしょうか。

    1189年に石棒が発見された。この時はただの石棒として祀っていたが、鎌倉時代となり、この辺りが足利家の領地となった時に、この石棒と足利義氏誕生を結び付けた。

    最後に、東光院です。開基開山詳らかならず、ということですが、天正年間で既に11代とのことで、またしても、という感じもありますが、行基が開いたという伝承もある古刹です。

    またしても東光院です、産鉄地名ですね。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

    如何でしたか

    行った本人の正直な感想としては良かったです。

    既述のように、何度も行った所だったんですが、それ以降に経験したものが蓄積されたのか、新たな視点で楽しめました。

    また、恩田の白山神社はスゴかったですね。久々の空気感でした。

    春の三輪はとても良いです。皆さんも是非!