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2014年1月12日日曜日

The History of Setagaya ward, Kyodo was a manor of Ise Jingu Shrine? / 世田谷区の歴史、経堂は伊勢神宮の荘園だった?

前回、経堂の氏神様が経堂駅から遠い経堂天祖神社なのは何故なのか? というテーマでお話しました。理由は、経堂の中心地が今の天祖神社近くだったから、という結論でした。

その中で新たなテーマとして浮かび上がってきたのが、天祖神社です。天祖神社は私の世田谷区のイメージではありません。世田谷区 = 吉良氏 = 八幡様のイメージが強いからです。

そこで、世田谷区の天祖神社を調べてみました。


より大きな地図で 世田谷区の天祖神社 を表示

調べてみると意外に多いですね。

青が天祖神社、赤が天照大神を祭神として合祀している神社です。

この辺りは伊勢神宮の荘園だったのかな? ということで世田谷区と荘園の関係を調べてみると、この辺りは菅刈庄と呼ばれていたことを思い出しました。

しかも、経堂天祖神社にほど近い稲荷森稲荷神社のサイトの説明では、稲荷森稲荷神社は古くは菅刈社と呼ばれていて、菅刈庄にあって菅刈の名を冠しているのだから、稲荷森稲荷神社の辺りが、菅刈庄の中心地であったと書かれています。

稲荷森稲荷神社

上記地図では、世田谷区と同じく菅刈庄だった目黒区の天祖神社、天照大神を祭神として合祀している神社を緑でプロットしています。

しかし、菅刈庄が伊勢神宮の荘園だったか調べてみましたが、そのものズバリの答えは出ませんでした。

以前住んでいた江戸川区では、平安時代末期の1165年頃、領主 葛西三郎清重が、領地を伊勢神宮に寄進しています。同じ頃、世田谷区を領地とした大名は誰だったか。後の喜多見氏、当時の江戸氏でした。江戸氏といえば秩父・豊島氏の庶流、葛西氏も同じ。平安末期、税金対策と土地を守る為に有力寺社に領地を寄進して荘園化していたことは盛んに行われていましたから、葛西氏と同じ一族だった江戸氏も、世田谷区の辺りを伊勢神宮に寄進し荘園化し、菅刈庄となった可能性もあるのではないでしょうか。

2014年1月11日土曜日

The History of Setagaya ward, Where "WAS" the center of Kyodo? / 世田谷区の歴史、経堂の中心地はどこだったか?

右膝を痛めてしまいました。

1/6, 月曜日の仕事始めの日、神田神社に初詣に行き、新年会に雪崩込み、店を出た時に右膝に激痛が。翌日、医者に行くと半月板損傷とのこと。暫くはMTBトレイルライディングもジョギングも出来ないので、この三連休はマヒーマコノヒーです。と、いうことで、前々から手を付けようと思っていた歴史関連の調べごとに勤しみます。

1/2, 今年の初詣は訳有って"出世の階段"愛宕神社と代々木八幡の出世稲荷に行きましたが、その前に、しっかり、我が地元の氏神様である経堂天祖神社にも寄りました。

前々から思ってたんですが、なんで経堂の氏神様が天祖神社なのか。だって経堂駅よりかなり西、むしろ、千歳船橋の方が近い所にあるからです。

昔から、神社はその村の中心にありました。経堂も、昔は天祖神社の近くに中心地があったのでは? と思い、調べてみました。

1805年作図の目黒筋御城絵図

この古地図は、1805年作図の目黒筋御城絵図です。左下に、『経堂在家』とあります。ここに経堂在家村があったということを示しています。普通、その村の中心地に村名を書くでしょうから、江戸時代は、この辺りが経堂の中心地だったのではないかと思われます。

『経堂在家』の村名の左の、『稲荷』。これは、稲荷森稲荷と思われます。その上の、『神明』。これが、経堂天祖神社です。

『稲荷』、『経堂在家』キャプションの下の道は六郷田無道。滝坂道はちゃんとキャプションがありますね。今は車がすれ違うのに苦労しますが、当時は大きな道だったんです。六郷田無道と滝坂道の間の川、これは烏山川です。

現在の地図に合わせてみましょう。

オレンジの道が滝坂道、ブルーのラインは烏山川、グレーの線は六郷田無道です。ポイントは、左から、赤が稲荷森稲荷、青が経堂天祖神社、青ピンが目黒筋御城絵図の左側の橋、赤ピンは右側の橋、今の経堂大橋です。緑ポイントは常徳院、紫が杓子稲荷、ライトブルーが世田谷八幡、黄色が豪徳寺、紫が勝光院です。オレンジの囲みが、『経堂在家』キャプションの辺りです。


より大きな地図で 経堂の中心地 を表示


明治13年の古地図とも合わせてみましょう。

明治13年の古地図
※歴史的農業環境閲覧システムより

『経堂在家村』の文字が地図真ん中から左下に縦に書かれています。
『堂』の上の道が六郷田無道の北道。『在』の上は六郷田無道の南道です。その追分の辺り。そこは今は桜丘小学校です。その右の縦の道。これは二子道、現在の経堂駅から南へ延びる農大通りです。

上記現在地図で、明治13年古地図の『経堂在家村』キャプションを緑で囲んでみました。

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やはり、今の経堂駅周辺ではなく、烏山川の南側、経堂天祖神社の南側辺り、桜丘小学校の辺りが経堂(在家村)の中心地だったんですね。

これで一つ疑問解決です。

PS.
しかし、なんで天祖神社なんですかね?
天祖神社はこの辺りのイメージじゃないな。天祖神社は要するに伊勢神宮です。以前住んでいた江戸川区には沢山の天祖神社がありました。それは、江戸川区の辺りは伊勢神宮の荘園だったからです。伊勢神宮雅裳苑を持っていたころは平安時代。世田谷区内の地名が初見されるのは1274年だから、鎌倉時代。それより前の世田谷の歴史を探る手掛かりか?
また一つ、右膝痛が治るまでの暇潰しが見つかった。良かった、良かった。

2013年10月13日日曜日

The History of Setagaya, Ike-jiri and Ike-no-ue / 世田谷区の歴史、池尻と池ノ上

半蔵門線の渋谷の次の駅、池尻大橋は皆さんご存じだと思います。

それと、これは少しマイナーですが、京王井の頭線の池ノ上駅も知っている方いらっしゃると思います。

池尻という地名は全国各所にありますが、元々、池の尻、つまり、池から川に変わる部分、アウトレットの意味です。

地形図を見てみましょう。

池尻の地形図
山と谷の地形が分かると思います。北側の谷は北沢川が作った谷、北沢川流路です。南側は烏山川になります。この二つの川が合流後は、目黒川とその名前を変え、東に流れています。

北沢川・烏山川合流点
左が烏山川、右が北沢川、後ろが目黒川

目黒川になった後、東に徐々に目を転ずると、何か気付きませんか?
徐々に谷の幅が狭まっているんです。R246を過ぎた辺りから、等高線の間隔が短くなってますよね。

二つの川が合流し、その後、直ぐに川幅が狭くなる。水の流れはJammingを起こし、溢れ、池になりますよね。

だからここは池尻なんです。

地形図から、池跡を想定してみました。


より大きな地図で 池尻、池ノ上 を表示

現在地図の上部にあるポイント、これは池ノ上駅です。池の北側なので池ノ上。このことからも、池尻には嘗て池があったことが分かります。

現在地図にポイントした眺望ポイントから想定される池跡の眺望

眺望ポイントへは階段で上がるが、上がった所に、『馬神』の碑。
馬にとっても難所で昔はよく馬が疲れきって命を亡くすことも珍しくなかったから、坂道には馬頭観音が祀られていることが多い。これもその一種なのか。あるいは、ここは明治の時代、軍の施設だったからそこにいた騎馬に対するものなのか。滝坂道への古道の途中に池尻見晴らし広場があるが、そこには、明治の戦役で亡くなった兵士への忠魂碑があった。それについては後日ご紹介することにする。

池ノ上駅
眺望ポイントを北上すると滝坂道に出る。この道は江戸期から既にあった古道。滝坂道を西に行き淡島通り交番を過ぎると都道420号が右から合流する。それも古道でそれを北上すると池ノ上の駅に出る。

池ノ上駅からは森厳寺へ抜ける古道を使ったが、古道らしく、庚申様が祀られていた。
又、国登録有形文化財の富士見ヶ丘教会の場所も分かった。富士見ヶ丘教会については、後日近代建築散歩でご紹介することにする。

今回のルート


より大きな地図で 池尻、池ノ上サイクリングルート を表示

2013年3月5日火曜日

The History of Setagaya ward, Naosuke Ii and Shoin Yoshida / 世田谷区の歴史~井伊直弼と吉田松陰

近くにいたが、やがて、遠くに離れ、運命の糸に手繰り寄せられる様に、再び、近くに。

豪徳寺、参道と山門
豪徳寺に眠る井伊直弼の墓

世田谷は元は天領だったが、後に、その殆どが、譜代大名筆頭井伊家の大名領になった。

1633年、多摩郡八幡山、大蔵、鎌田、岡本、荏原郡世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、小山(以上、現世田谷区)、多摩郡岩戸、猪方、和泉(以上、現狛江市)の15村2,300石余を所領とした世田谷領が成立、結果、井伊家は、計30万石となり、譜代大名筆頭となる。

1633年に彦根藩領になった時、既にあった吉良氏開山の弘徳院を、井伊家菩提寺豪徳寺とし、井伊直弼もここに眠っている。

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松陰神社拝殿
松陰神社に眠る吉田松陰の墓

1672年、長州藩が、現在の若林四丁目一帯1万8300坪の土地を買い取り、抱屋敷とした。

吉田松陰は、井伊直弼による安政の大獄が始まると伝馬町牢屋敷に送られ、1859年10月27日、斬刑に処された。

処刑後、小塚原回向院に葬られたが、1863年、高杉晋作らにより、若林に改葬されている。

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処刑した者と処刑された者、二人は歩いても10分と掛からない所に眠っている。


より大きな地図で 豪徳寺と松陰神社 を表示

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掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに

井伊直弼の詠んだ歌だ。

彦根藩主就任直後、井伊直弼が国に帰った時、まだ何も成果を出していないのに、領民達が暖かく出迎えてくれたことに恥じて詠んだ。

これに、偉く感心した者がいる。吉田松陰だ。吉田松陰は、この句を知り、井伊直弼を名君と賛辞した。

二人共、日本を守りたかった。その方法が違っていただけだった。

結果的に、二人が思っていた通りになった(列強の侵略を免れ、逆に、列強の仲間入りした。)ことが、救いだ。

考えを近くし、やがて離れ、今再び近くに眠る。