東京都日野市平山から同あきる野市引田に行くには秋川街道を行くわけですが、八王子駅前を通るんです。
八王子駅周辺は横山党の本拠地中の本拠地です。
八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社 |
通れたのか?!
と、思いましたが、1213年の和田合戦で横山党は滅亡してますから、簡単に通れたはずでした。
でもここまで来て新たな懸念が生まれました。
じゃあ平山季重秋川進出の道はどうだ、と。このルートも八王子駅周辺、横山党本拠地を通ります。
例えば秋川沿い小川郷の小宮神社は1207年創建です。まだ横山党は滅亡してませんね。
和田合戦の際、横山党は全支族和田方についたから滅亡したんですが、西党も和田方についています。Googleすると情報が錯綜してるんですが、平山氏だけは幕府方だった、いや、平山氏だけが和田方についた、など、でも、西党は一部を除き和田方についたようですから、西党と横山党は関係が良かったのだと思います。だから通れた。
ここで更に一つ懸念が。じゃあ、大石氏は?!, と。
- 風土記にある大石系図によれば、大石氏は木曽義仲の子孫で、大石信重は1334年生まれ、貞和年中(1345~1350)には関東管領山内上杉憲顕に仕え、1356年には武蔵国入間・多摩両郡内に一三郷を賜り、武蔵国目代の職となって、二宮に居住したといいます。
- 小川大明神こと二宮神社は小川氏庇護、訪問済み
- その後、1384年には浄福寺城を築城し二宮から移ります(風土記によると1521年に定久が、武蔵名所図会では1532~55年に定重あるいは定久が築城とある。)。
- 信重の子、憲重の時代には、関東管領の就任に圧力をかけるまでに勢力を大きくしたものの、憲重の子、憲儀を最後に守護代に就くことはありませんでした。
- 憲儀の子、房重は、1454年、享徳の乱に上杉方として参戦し戦死しています。
- 房重の子、顕重は、1458年、高月城を築城しました。
- 房重の孫、定重は、1521年に滝山城を築城しました。
- 高月城、滝山城は小川郷と平山を結ぶ平山季重秋川進出の道沿い、訪問済み
- 定重の子、定久は、1538年、北条氏康の子、氏照を養子とし家督を譲り、自身は戸倉城に隠居、1549年に由木城近くの野猿峠で自害しました。
- 戸倉城は小宮氏築城、居城後、大石氏が居城(恐らく後北条氏の指図), 訪問済み
- 由木城は元由木氏館で、後、大石定久館に、訪問済み
と、いうことで、西党と大石氏は場所も時期も重なってます。
この状況で、平山季重は平山から小川郷に、平山氏重は引田から平山に来れたんでしょうか?!
来れたんでしょうね。逆に、来れたからこの結果になっているということです。
実際、阿伎留神社の、1417年に足利持氏が武州南一揆に下した恩賞状がありますが、武州南一揆とは、多摩地区に存在し、その構成員は、平山、梶原、由井、川口、立川、山口、師岡、小宮、木住野、萩原、網野、土士田、宮本、戸倉などで、御覧の通り西党氏族が主要メンバとなっています。
つまり、1417年、西党は足利持氏の側に立っていたということになります。
この1417年という時代は、前年1416年に上杉禅秀の乱がありましたが、この戦は、足利持氏・関東管領山内上杉憲顕 vs. 犬懸上杉氏憲の戦いであり、既述のように大石氏は関東管領山内上杉憲顕に仕えてましたから、足利持氏→関東管領山内上杉憲顕→大石氏→西党というように指示命令が流れる関係、味方同士だったんですね。
1438~1439年の永享の乱は、上杉禅秀の乱では味方同士だった足利持氏と山内上杉憲実が戦います。この時は山内上杉憲実側に付きました。この時武蔵守護代は大石憲儀です。
しかし、翌1440年の結城合戦では中立の立場をとり山内上杉憲実の呼びかけには応じませんでした。大石氏は勿論参戦しています。
しかしその後の享徳の乱でも上杉方についているようなので、大石氏とは直接の指示命令を受ける関係が続いていたものと思われます。
長くなりましたが、平山季重秋川進出の道、平山氏重先祖供養の道は、横山党、大石氏の領地を通っていきますが、横山党とは関係が良かった、大石氏とは、在郷武士団と武蔵国守護代・目代の緩やかな主従の関係があったので、問題無く通れたということです。
ということで今回は、既に訪れた大石氏と西党とが重なるエリア、二宮、高月、滝山、戸倉、由木以外の、このシリーズでこれまで訪れていない、浄福寺城をexploreしたいと思いますが、ここは、西党由井氏の根拠地だったのです。ここも重なっているわけですね。
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京王線京王八王子駅まで輪行、八王子駅前、つまり、横山党本拠地を通って甲州道中と案下道との追分に向かい、勿論今回は案下道を行きます。
南浅川を水無瀬橋で渡り、城山川も渡って案下道は三村橋西の三又を右に進路を取り、現代の陣馬街道に復帰したら、諏訪町の丁字路を真直ぐが案下道ですが、ここを左に入り、桜木天王宮に寄ります。ここには、由比牧士址があります。
由比牧址 |
由比牧とは、武蔵国の令制の牧の1つです。令制の牧とは、国家制度の1つとして令や律によって規定された牧です。成立は8世紀か9世紀頃と非常に古い、その牧がここにあったわけです。この牧を経営していたのが西党の由井氏でした。
由比牧には牧堀という土手と堀がありそれが現在の野堀川です。この堀は、牧場の柵でもあり馬の水飲み場でもあったそうです。
野堀川 |
陰影起伏図で由比牧の位置を想定してみますと、青線が野堀川ですが、野堀川の西側ではないでしょうか。東側は広大な浅川が作った氾濫地ですから、制御が難しい。西側は大沢川の谷が柵の代わりになります。野堀川で策を1つ設けるだけで良いのです。大沢川の口を塞ぐような正にそういった位置に野堀川があります。 |
北上すると由井氏館跡があります。
由井氏館跡 |
由井氏館跡から東の眺望 |
1313年の天野文書によれば、由井氏の娘、由比尼是心が、この地、由井郷に、天野氏が進出してきて、天野氏に嫁いだ時、由井郷は天野氏に伝領されたと記されています。
この頃、女性が、家の所領を相続する権利を持っていましたから、由井氏が由井郷を領していた、由井郷に由井氏がこの頃まで存在し続けていたということになります。
先を行きましょう、弍分方日枝神社です。
弍分方日枝神社 |
697年、令制によって武蔵国に由比牧を定め、当時の国造が牧の守護神として大巳貴命を祀り太政官符により創建したとの伝承があります。
隣には明治期の切通しがあります。
切通し、この切通しを使う道筋は明治期以降の道 |
と、このように、この辺りは由井氏が支配する由比牧を中心としたエリアだったんですね。
それが平安から鎌倉、室町まで続いていたわけです。で、室町になって大石氏が入ってきたわけですが、守護代として上手く統治を進めていく為には、何百年もこの地を支配してきた西党由井氏と仲良くやっていくしかなかったわけです。
先を行きましょう、前回訪れた宝生寺の前の道が案下道だったとは知りませんでした。
馬頭観音も |
そこを通り、山入川、小津川を渡ったら、鎌倉街道山の道と案下道との辻となる川原宿に至ります。北浅川の松竹橋からは現代の陣馬街道と案下道は同じ道筋となります。程無く、浄福寺に到着です。
浄福寺 |
寺伝によれば、
"大永年間(1520年代)に木曽義仲の末裔である大石道俊が、この地に居城を構えました。大石道俊は後継となる子どもが居なかったことから、この千手観音に祈りをささげたところ、子どもを授かったそうです。この子どもが、後の大石憲重です。その後、大石氏は、北条氏康の力を借り、滝山城に居城を移しました。"
と、いうことです。道トシとは定久のことで、既述の大石系図の説明とは異なりますが、大石氏と関係があるのは確かでしょう。
そのまま、浄福寺城に登城します。浄福寺は記述の通り、大石系図によれば、1384年に、大石信重により築城されました。
いや、これが結構キツカッタ。
途中の観音堂 |
千手山頂上、浄福寺跡 |
三角点がある高まり手前の平地、ここが主郭でしょうか。 |
下山し、皎月院に向かいます。
皎月院 |
開基は滝山城主大石定久で、開山は玉田存隣、本尊は釈迦如来、創建は1469~87年で、大石定久の邸跡と伝えられています。
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来た道を戻るのも芸が無いので、力石峠を越えて小津の集落を抜け、川原宿に戻り、鎌倉街道山の道から大沢川沿いの集落を抜けて八王子から輪行で帰りました。
力石峠途中から恩方の集落を望む |
力石峠 |
おっと、大事なことを忘れてました。心源院です。風土記には、"開山季雲永岳、大永六年二月十五日寂す、開基は大石遠江守にて、法謚を英岩道俊といふ則石見守憲重が父にて、初め源左衛門と稱せし人なり、この道俊がことは浄福寺及び瀧山の條にもしるせるなり" とあって大石氏が開基となったお寺です。 |
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如何でしたでしょうか。
由井氏と大石氏、見事に重なってました。ということは上手くやっていたということです。じゃなきゃ戦国の世、生き残れない。
以前も言いましたが、これでひとまず古甲州道シリーズは一旦お休みとしたいと思います。残りは大菩薩峠なのでね、チャリでも行けるのか研究調査しないと。
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