2021年12月20日月曜日

古甲州道番外編、平山氏重先祖供養の道

前回の古甲州道番外編では、平山氏根拠地、東京都日野市平山、旧平山村を訪ねました。

その事前exploreと実走を通じて新たな私的発見がありました。

1190年頃、ここ平山に進出し平山氏を名乗り、暫くして、というより、程無く、秋川沿いに進出し、天正年間ですから1500年末に、当時の当主、平山氏重が、平山季重を始めとする先祖供養の為に、今の平山季重神社、当時の日奉明神社と、明治に廃寺となりましたが平山城址公園駅付近に大福寺を開きました。

平山村は、400年間、何と言いますか、間が空いてたんですね。これは知りませんでした。まぁ、平山氏関係者の誰かは居たんだと思いますが。

前回も書きましたが、日奉明神社、今の平山季重神社の風土記での説明に、

日奉明神社
村の南の方山上に有、小祠、平山武者所季重が靈を祀れりと云、近村引田村の日吉社に、天正十七年奉納の絵馬あり、裏に武州多西郡引田村當領主日奉之朝臣平山右衛門大夫也とあり、是によれば當村も昔かの人領せし所にして、村名も平山を唱ふれば、後世季重をば祀りたるならん、例祭は三月六日なり、則ち季重が歿せし日なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

とあって、先程の平山氏重が平山季重を祀ったという話に加え、引田村の日吉社の話が出ています。

古甲州道は、滝山から秋川丘陵の尾根を行くのが本道のようですが、戸吹で栃淵峠を越え秋川左岸に渡り、戸倉で本道と出合うまで、檜原街道を行くルートもあったようです。

前回辿った秋川丘陵ルートだと引田村は通りません。

平山氏はこの回で言ったように、平山から小川郷へ鎌倉街道で向かったのは分かっているんですが、地図を見てください。

現代地図における平山と引田村の位置関係

平山(右下、現在地ボタンの上)から八王子を経由して浅川支流川口川沿いに北西に向かう茶線があると思いますが、これは現在の秋川街道で、上川町で鎌倉街道山辺の道に出合い北に向きを変え秋川を渡河すると引田村へと行き着きます。

このルートの寺社の状況を見ると鎌倉時代には少なくとも成立していたと思われ、何より、引田村↔平山村間の移動だったら、こっちの方が素直に思えませんか?!

と、いうことで今回は、平山から八王子を経由して秋川街道で引田に向かい、帰りは、前回通ってなかったルートで折り返し、栃淵峠を越えて滝山に帰ってこようと思います。

平山氏重先祖供養の道です。

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京王線京王八王子駅まで輪行。八王子を経由して秋川街道に向かいます。そのまま川口町まで。

ここに、川口氏館跡があります。

川口兵庫介館跡、ここは実際行ったら、あるいは地形図を見ると分かりますが、秋川街道から旧坂を上った原にあります。確かに、館があってもおかしくないですね。

日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗貞ー(由木)重直ー川口二郎太夫が川口氏の祖で、この川口氏館跡は、第11代の兵庫之介幸季の時代の館跡ということです。

因みに初代川口氏二郎太夫の父は前回訪れた由木氏の祖ですね。由木氏と川口氏は近いなぁ。親子ですね。由木氏と川口氏との交流も勿論あったことでしょう。そのルートもこれと同じでしょう(由木から長沼経由で八王子までは小野路道[旧野猿街道])。

因みに平山氏は、日奉宗頼―宗親―宗忠―宗貞―宗綱―平山直季で平山氏の祖、なので、川口氏とはおじいちゃんが一緒ですね。こう言うと分かり易いかも。

はい、道筋的に素直だということだけでなく、同族川口氏の根拠地だったわけです。

これは益々こちらを通ったんじゃあないでしょうか。

その直ぐ先に、法蓮寺があります。

法蓮寺

時宗の寺です。なかなか見ないですね、この辺りだと。しかも、鎌倉時代の嘉元2年(1304年)に遊行二祖他阿真教上人によって開山されたということです。

これの何がスゴイかというと、時宗の始まりは1261年、一遍が当麻に草庵を開いたことなんですが、実質的には、その弟子、他阿真教が1304年に遊行を終えた後、落ち着くところとして開いたのが始まりだと言われています。

はい、だから、1304年に法蓮寺が開かれたならば、実質的な時宗の祖、他阿真教が遊行時、あるいは直後に開いたお寺ということになりますね。

時宗当麻派本寺無量光寺はR16を南に行き相模国に入ったところにありますから、R16, 当時の鎌倉街道を通ってここに至ったのだと思います。

いやぁ、R16は時宗一遍・他阿真教遊行の道、ですね。

川口氏との関係で言うと、本尊阿弥陀如来の体内銘に、川口氏の庇護にあったとの記載があるとのことです。

法蓮寺の直ぐ隣には鳥栖観音堂があります。

鳥栖観音堂

川口兵庫介幸季が大般若経600巻を鳥栖寺に住み着いて写経し納めたという伝承があり、今は鳥栖寺はありませんが、この鳥栖観音堂がそれではないかと言われています。

先を行きましょう、秋川街道からは少し外れて宝生寺です。

今昔マップ関東、地形図を見て、古道があるはずと踏んでexploreした結果、こんな素敵な古道がありました。しかし、この手前、廃墟と不法投棄があってそこだけですが雰囲気が良くありません。

ピークを過ぎ下りに入るとこのような掘割が残ってます。

こちらが宝生寺です。

帰りも古道で。宝生寺団地の北東端から長楽寺に抜けられます。

しつこいですが良い道だったので

宝生寺自体は明鑁が開山し1425年に開創されました。この明鑁が、鳥栖観音堂の所で出た大般若経の筆者です。鳥栖観音堂の記述と異なりますが、川口兵庫介幸季は発願者ということです。ですから川口兵庫介幸季の時代もこの頃ということですね。

1590年の北条攻めの際、八王子落城に伴い、大般若経を火災から守る為、鳥栖寺から円福寺に移動しています。

先を行きまして長楽寺です。

長楽寺

1187年に明玄が開山している古寺です。ここにも、川口兵庫介幸季が薬師如来坐像を寄進しています。

先を行きます。先程出ました円福寺です。

円福寺

円福寺自体は、1222年、源実朝の菩提を葬るため智賢法印が開山し、開かれました。

川口兵庫介幸季が発願し、宝生寺の明鑁が筆者となった大般若経600巻は、その一部は、裏山にある川口氏が勧進した熊野神社にも今も埋められているようです。

熊野神社、良い空気感でした。

川口氏館跡からここまでが、西党川口氏の痕跡があるエリアですね。

平山氏重は、檜原、戸倉、五日市から根拠地平山村に通うのに、同族川口氏が支配するここ秋川街道を行き来した、ということだと思われます。

先を行きましょう、鎌倉街道山の辺の道を北上し、秋川も渡って左岸へと行き、山田の町並みを抜け引田に向かいます。到着したのは引田八雲神社です。

引田八雲神社

上記平山村の日奉明神社の風土記の記事にあった日吉社です。

風土記によれば、

(引田村)日吉山王社社地、七千二百坪餘、秋川の端にあり、小社東向、勧請の願主は、日奉朝臣平山右衛門大夫にて再興は天正十七年志村肥前守と云ふ、村内眞照寺の持、例祭二月初午、四月初申、同月二の申の日なり、この社へ彼肥前守の納しと云古き繪圖の如き繪馬あり、繪馬竪は八寸五分横は六寸ありて、畫像は猿の馬を曳たるを高く彫たるものなり

と、ありますので、現在の引田八雲神社が件の日吉社と思われます。

先を行きます、真照寺です。

真照寺

秋川市史によれば件の絵馬はここにあるようです。真照寺自体は891年に開創された古寺です。大悲願寺よりも古いですね。

はい、これで平山村と引田村が繋がりましたね。言うなれば平山氏重先祖供養の道です。

帰りは古甲州道のもう1つのルート、栃淵峠を経由して滝山から古甲州道を逆に辿り最後は多摩サイで帰ります。

今昔マップ関東と地理院地図を並べてみました。1894 - 1915と2021の比較です。127~106年の差があります。つづら折りがありますね。これがそのまま残ってます。

これは2つ目(1つ目はR411から折り返すようにこのエリアに入る部分なので省略)

3つ目

峠部、道は概ねダブルトラックで主要道路だったことが伺えます。ただ殆ど人は通らないんでしょうね。猪の掘り返し跡が非常に多かったです。前々回の満地峠も書きませんでしたが非常に多かったんですよね。ですので今回は鈴を付けました。なので少しは安心してexplore出来ました。

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如何でしたでしょうか。



その後、秋川を遡るように進出範囲を広げ、五日市周辺戸倉、最終的には檜原の檜原城に拠り、1590年の秀吉の小田原攻め、八王子城落城に伴って、平山氏は滅亡しています。最後の当主は氏重です。

その氏重は、滅亡の少し前、先祖供養の為、平山に大福寺と日奉明神社を開いています。

その時行き来した道、それが今回の道筋だったのではないか、ということです。言わば、平山氏重先祖供養の道、です。

この道は同族の川口氏が支配する道でした。川口氏も平山氏同様、最終的には後北条氏に属し生き延びています。行き来しやすかったでしょうね。

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