豪徳寺、参道と山門 |
豪徳寺に眠る井伊直弼の墓 |
世田谷は元は天領だったが、後に、その殆どが、譜代大名筆頭井伊家の大名領になった。
1633年、多摩郡八幡山、大蔵、鎌田、岡本、荏原郡世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、小山(以上、現世田谷区)、多摩郡岩戸、猪方、和泉(以上、現狛江市)の15村2,300石余を所領とした世田谷領が成立、結果、井伊家は、計30万石となり、譜代大名筆頭となる。
1633年に彦根藩領になった時、既にあった吉良氏開山の弘徳院を、井伊家菩提寺豪徳寺とし、井伊直弼もここに眠っている。
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松陰神社拝殿 |
松陰神社に眠る吉田松陰の墓 |
1672年、長州藩が、現在の若林四丁目一帯1万8300坪の土地を買い取り、抱屋敷とした。
吉田松陰は、井伊直弼による安政の大獄が始まると伝馬町牢屋敷に送られ、1859年10月27日、斬刑に処された。
処刑後、小塚原回向院に葬られたが、1863年、高杉晋作らにより、若林に改葬されている。
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処刑した者と処刑された者、二人は歩いても10分と掛からない所に眠っている。
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掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに
井伊直弼の詠んだ歌だ。
彦根藩主就任直後、井伊直弼が国に帰った時、まだ何も成果を出していないのに、領民達が暖かく出迎えてくれたことに恥じて詠んだ。
これに、偉く感心した者がいる。吉田松陰だ。吉田松陰は、この句を知り、井伊直弼を名君と賛辞した。
二人共、日本を守りたかった。その方法が違っていただけだった。
結果的に、二人が思っていた通りになった(列強の侵略を免れ、逆に、列強の仲間入りした。)ことが、救いだ。
考えを近くし、やがて離れ、今再び近くに眠る。
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