2021年5月27日木曜日

府中〜日野間の甲州道中の変遷に見る暴れ多摩川の痕跡


大國魂神社付近の現在の地図

はい、上記地図は、大國魂神社を真ん中やや下に配置した現在の地図です。

北に府中駅が見えます。その少し北に東西に走る国道(黄土色塗り潰し), これが、現在の甲州街道です。

南に行くとやはり東西に走る道、西半分をオレンジ線を描いています。こちらは、1684年以降の甲州街道です。

更に南に行くと、大國魂神社の随神門前を横切る道、この道には青線を描いていますが、こちらは1684年以前の甲州街道です。

更に西の現代地図を見てみましょう。


JR西府駅付近の現在の地図


既出のオレンジと青以外に黒線も出てきましたね。
(それから、オレンジ線は現在の甲州街道[黄土色塗り潰し]と重なりました。)

はい、甲州道中は、青線→黒線→オレンジ線とルート変更したと考えられています(現在の甲州街道は除外して表現しています。以下、同様。)。

結論から言えば、これは、多摩川の度重なる氾濫、流路変更によるものです。

今回はその痕跡を探ってみましょう。

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1604年、家康は五街道に一里塚を整備させました。

府中の手前(東)、常久の一里塚。この一里塚、品川道にある。ということは、1604年当時、甲州道中はこっち(品川道)だった。府中より東でもルート変更があったということ。でもこっちは暴れ多摩川が原因ではない。品川道は元からハケ上だから。

今回のScopeである府中~日野間では、この時の一里塚が、NEC府中事業場に残っています(NEC内なので撮影しませんでした。)。上の2番目の地図で、黄色ポイントがそれになります。

青線と一里塚は重なってますから、この青線ルートは、1604年に一里塚が築かれた時の甲州道中だということになります。

府中〜日野間の甲州道中旧旧道全体図

その甲州道中の旧旧道(青線)ですが、これを見ると良く分かるんですが、直線ですよね。

多摩川の渡しの関係で一部折れてますが、右下のーーーGoogleMaps経路ボタンで隠れてますがーーー大國魂神社からNECの一里塚、多摩川を渡った先の黄色ポイントは万願寺の一里塚です、その先、青線とそのまま真っ直ぐに繋がってるのはオレンジ線ですから1684年以降の甲州道中ですが、ここまで含めて直線です。恐らく直線を意図したんでしょう。

直線であることは古代官道の常識ですし、最短距離ですから合理的です。

が、このエリアで直線を選んでしまうと、、、

上記現代地図とほぼ同じエリアの迅速測図 + 地形図

先程の地図と重ね合わせられれば分かり易いんですが、スミマセン、歴史的農業環境閲覧システムが終了してしまったのでこれで勘弁して下さい(参考までに以下の説明に該当する地点にスマイルスタンプを付けました。)。

右下が府中駅、大國魂神社の辺りで、左上が青柳段丘、中央高速が多摩川を渡る辺りです。

一際太い線が1684年以降の甲州道中ですが、見事に台地の上(ハケ上)にセットされてますね。

甲州道中旧旧道のNEC内の一里塚(真ん中下のスマイルスタンプ)はハケ下です。

ハケ下は多摩川の氾濫原です。いつ、洪水が起きてもおかしくないわけです。だから、洪水の被害を被らない為に、1684年以降に、ハケ上に移設したんですね。

それでは痕跡を探っていきましょう。東からです。

下河原八幡神社

境内石碑によると、下河原の集落は、蓮光寺(多摩市)に属しており、風土記には、蓮光寺村の小名としてその名が見えるとのことです。

下河原と連光寺の位置関係は、

下河原、連光寺付近の迅速測図。北が下河原で南が連光寺。スマイルスタンプを付けました。

ご覧の通り、多摩川を挟んでます。

これ、何を意味してるかと言うと、少なくとも連光寺村下河原が成立した時は、もしかしたら風土記編纂時(幕末)も、多摩川の流路が、下河原より北だったということです。さもなくば、多摩川が行政界になるはずですから。

甲州道中の旧旧道は、下河原より1km程北ですが、ハケ下ですから、洪水被害に遭っていた、あるいはその恐れがあった可能性は充分にありますね。

下河原八幡神社が連光寺村に属していたこと、これは暴れ多摩川の痕跡であり、暴れ多摩川によって甲州道中が変遷した痕跡と言えるのではないでしょうか。

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間島神社

境内石碑によると、間嶋の集落は本宿に属しており、風土記には、本宿村の小名としてその名が見えるとのことでした。また、元々間嶋は青柳島(関戸橋の西方)にあったものの、多摩川の洪水で流され、この地に移転したということです。

間島と青柳島の位置関係ですが、

青柳島、間島、甲州道中旧旧道の位置関係を迅速測図で。一番北が旧旧道、その南西が間島神社、一番南が青柳島。

で、青柳島の直ぐ北に薄茶色のギザギザした線がありますが、これは当時の堤で、今は四谷通りと下河原通りとなっています。

つまり、堤の内側ですから暴れ多摩川の餌食になったんですね。

で、移転先が、近いけど堤の外側となる間島で、更に北に、つまり、多摩川からはより遠くに位置しているのが旧旧道です。

これを見るとそこまで大きく蛇行したわけではないということですが、危険は感じたでしょうね。これも痕跡と言っても良いでしょう。

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日新稲荷神社

谷保天満宮旧地の碑

これは谷保天満宮の旧地と言われている日新稲荷神社です。

度重なる多摩川の洪水で、1181年に今の地に移ったということです。

新旧の位置関係ですが、

迅速測図における、東から、NECの一里塚、日新稲荷神社、谷保天満宮

もうこれはズバリですね。

旧旧道(NEC一里塚)より少しですが北にある日新稲荷神社が度重なる多摩川の洪水で流されたということですから、旧旧道も同時に流されたということになります。

痕跡中の痕跡、と言えると思います。

で、もう、ハケ下の限界地まで奥まった(左上の谷保天満宮新地は等高線が集まる崖地)ということですね。

これに伴って、なのか分かりませんが、黒線の旧道は、実は、ハケに沿った位置となっています。

多摩川が今の流路だったらここが渡し場ということになりますが、今の流路となったのは

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最後に、

上之島神社

境内石碑によると、旧地の森が多摩川の洪水で川原に没したため、村人土方織部と土方八郎左衛門がここへ遷座したものといわれています、とのことでした。

因みにこの土方はあの土方です。土方歳三を生んだ土方氏は、今の日野市石田が地元となります。

話を戻して、こちらも間島神社と同じく、移った先が今の場所ということですが、でも、違う村には移しませんよね。

石田村と上之島神社の位置関係

しかし、石田村と上之島神社は多摩川を挟んでいます。

つまり、多摩川は、上之島神社の向こうを流れていたか、あるいは、石田村のこっちを流れていたか、ということになります。

これも痕跡ですね。

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如何でしたでしょうか。

下河原八幡神社、間島神社、日新稲荷神社・谷保天満宮、上之島神社の歴史を調べたら、多摩川の暴れっぷりが分かってきました。それに伴って、甲州道中は奥へ奥へと追いやられ、終に、1684年、ハケ上に移動したことが分かりました。

所で気付かれましたか?

河原、間、上之、青柳

この地名も痕跡ですね。

いやぁ、面白いです。

最後に、甲州道中旧旧道の石田の渡しです。

現在の多摩川流路における石田の渡し。が、今の流路となったのは1590年ですから、それ以前はここではないということになりますね。

※暴れ多摩川シリーズのLink集

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