多摩川の支流浅川と、武相国境境川の両谷に挟まれた多摩丘陵を南北に走る3つの峠道。その真ん中の峠が御殿峠こと、杉山峠だ。
杉山峠は、鎌倉時代は八王子方面からイザ!鎌倉と御家人たちが鎌倉に向かった鎌倉街道山ノ道であり、戦国時代には、武田軍小田原攻めの際、武田信玄・勝頼親子の本隊は、滝山城を攻めた後、ここを通って小田原に向かっている。江戸時代には大山参詣の道であり、明治はシルクロードであった。
更に、これは私の推測だが、716年の武蔵国高麗郡設置の際、平塚周辺の高句麗渡来人達は、相模川を遡り、あるいは陸路で、当麻辺りからここ杉山峠を経て、高麗郡に移住したものと思われる。
ということで今回はこの杉山峠をexplorerしたいと思う。
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非常に残念なことがある。下記地図を見てほしい。一枚目は明治13年、二枚目は明治39年、三枚目は現在の地図だ。
一枚目が恐らく高句麗渡来人も通ったオリジナルの道筋だが、二枚目になるともうルート変更されていて、三枚目もルート変更されている。その変遷の中で、御殿峠は日本閣の敷地の中となってしまった。肝心の峠に行けないのである。
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明治13年古地図、真ん中のクランクに三角点、その左下に縦書きで杉山峠の文字 |
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明治39年古地図、真ん中に三角点、そのやや右下に御殿峠の文字。上の明治13年古地図と見比べると良く分かるが、ちょうど、御殿峠の文字辺りから下の道筋は右に移動し、その上は左に移動している。 |
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現代の地図、青ラインがオリジナルの道筋。日本閣敷地内を貫いていて峠は敷地何に入ってしまっている。 |
仕方が無いので目を皿にして明治13年地図を見る。
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もう一度、明治13年地図。黄色い線に注目。 |
すると、オリジナルの道筋がクイッと右に直角に曲がる所から、そのまま素直に真っ直ぐ北上している徒歩道があるではないか。しかも尾根を行っている。もしかしてホントのオリジナルは・・・
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橋本まで輪行し、北上するルートを選んだ。
住宅街の急坂を早速押す。
『まだ?』と、思う頃、ようやく八王子バイパスを渡り、山道に突入した。今の徒歩道の左に早速掘割道。これがずっと続く。 |
チャリを掘割に置いてみた。 |
先に進むに連れ、掘割の深さは増していく。
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ここは藪は少なく分かり易い。 |
すると右に家の塀が登場。でも塀の向こうにも土塁。ここの掘割はデカイ!
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進むと右に塀。これは振り返って撮影、だから右左が逆。 |
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若干分かりづらいが塀の向こうに土塁 |
程無く、御殿峠のハイライト、殿丸に到着。
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最も迫力があるところ |
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上写真右の土塁上に上がってみた。館跡。 |
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この後、明治13年~39年の間に作られた切り通しで突然峠道は終わる。 |
既述の通り、泣く泣く日本閣はパスして明治39年旧16号を行き、ホテルフローラ脇から件の徒歩道に入る。ここもなかなかどうして、面白い道であった。
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八王子みなみ野から高尾方面の眺望 |
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堀切みたいになってるところの木橋 |
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このような幅一間の土道が続く。明治39年古地図では、里道の中の一番狭い道幅の「間道(幅1メートル以上2メートル未満)」と記されている。 |
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これは切り通しの先。ここは民家から少し入ったところで、右側は畑で人の気配はあったのだが、チャリの左の藪から獣の足音がし、こっちが足音を立てても逃げずで、一体何だったのか?! |
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程無く道は畑の中の道となり |
その後、16号に合流し、あとは市街地なので特段写真も撮らず、帰宅した。
御殿峠に行けないのは残念だが、代わりに行った、一つ西の尾根道も素晴らしかった。
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