2020年10月24日土曜日

武蔵国郡境を行く、橘樹郡、その2, 有馬古墳~

前回の続き

先を行きましょう。

有馬古墳です。

有馬古墳、円墳

実はこの辺りから古墳ラッシュとなります。次は馬絹古墳です。

馬絹古墳、これも円墳

次は西福寺古墳です。

西福寺古墳、これも円墳です。

何故、こんなに古墳が集中してるのか。

赤線に注目してください。左下から行きます。左下の青マーカが有馬古墳です。すぐ北を流れる川は有馬川です。北東に進み次の青マーカは馬絹古墳です。直ぐ南を流れる川は矢上川です。その直ぐ右(北東)に位置するのは西福寺古墳です。南東に折り返し次のマーカが野川1号墳です。東西を深い谷(矢上川支流)に挟まれた舌状台地に位置していることが分かります。

この写真の3つの古墳は全て川を望む尾根に位置していますね。

しかも、その川は、直ぐに合流し多摩川と鶴見川が作った沖積低地に注いでいます。

古墳時代、この沖積低地は海かあるいは干潟で、これらの古墳は、海から少し入った所に築造されたんでしょう。

それも全部円墳。

前方後円墳は、大和王権そのものや大和王権と関わりが深かった勢力にのみ許された墳形ですから、円墳はローカル勢力の墳墓だということになります。

さて、もう一度、上記地形図に注目してください。

続きを行きます。赤線は二股に分かれていますが、右(南)の方に注目してください。この半島の先端まで伸びています。

先端に最も近い青マーカ、海を望む岬の先端に位置しているのは橘樹神社です。

橘樹神社

その北の等高線が最も高い位置にある青マーカが、富士見台古墳となります。

海からこの地へ来た人の目線で見ると、まず鳥居が見え、その奥の高台に富士見台古墳があるとゆう状況です。いやぁ〜何か、意図的ですね。

弟橘姫の御陵か、富士見台古墳。ここへのアプローチは激坂です!

橘樹神社の社伝は、よくあるように、日本武尊東征の際の、弟橘媛の入水伝承で、媛の御衣、御冠などがこの地に漂着し、それを祀るというものです。

古事記に、それら姫の身につけていたものを御陵に収めたという記述もあり、橘樹神社の後方高台にある富士見台古墳がその御陵だとしています。

日本武尊、弟橘姫と言えば大和王権の象徴ですね。

何故、こんなに古墳が集中してるのか。

その答えは、太平洋に大きく口を開けた多摩川と鶴見川の河口部 = (仮称)鶴見湾から、大和王権の勢力がこの地に進出してきて、半島の岬に上陸、富士見台古墳を築造し、その影響を受けたローカル勢力が、大和王権の古墳に倣い、富士見台古墳の後ろに控えるような位置に、円墳を築造した、ということなんじゃないでしょうか。
※富士見台古墳が前方後円墳だったら完璧なロジックだったんですが、円墳ですね。でも、方墳という記事も見つけました。合わせると前方後円墳ですか・・・ね。

さて、橘樹神社ですが、この神社の社名がそのまま郡名になったということですから、郡成立時には既にあったということになり、相当な古社ということにもなりますね。橘樹郡の総社でもあります。

そして同じ台地に影向寺と郡衙があります。

影向寺

郡衙跡

影向寺は、寺伝によれば、聖武天皇の勅により740年に開山で、橘樹郡の郡寺だったと言います。

総社があり郡寺があり、郡衙があるこの台地が、橘樹郡の中心地ということになります。

影向寺ですが、発掘された軒丸瓦から、その更に数十年前の7世紀後半ですから律令の前に、建立されていました。

こうなって来ると先の寿福寺や寺尾台廃寺などとの関係が気になってきます。

さて、郡境尾根に戻って先を行きましょう。

迅速測図の時代では都筑郡だった旧高田村エリアです。

橘樹郡は郡成立当初、4つの郷からなっていたといいます。
  • 橘樹郷、影向寺一帯
  • 高田郷、横浜市港北区の高田町一帯
  • 御宅(みやけ)郷、加瀬白山古墳のある北加瀬、南加瀬一帯
  • 県守(あがたもり)郷、津田山周辺
はい、高田村は郡成立当初は橘樹郡だったんですね。

黒が迅速測図当時の郡境、紫が想定郡成立時の郡境です。高田村を橘樹郡に入れるなら、矢上川支流の松の川を取り込むこの位置になるんじゃないでしょうか。ここは矢上川と早渕川の分水嶺になります。

松の川、迅速測図の時代では橘樹郡と都筑郡に分断されている。

ここ高田村は慈覚大師円仁所縁の寺が2つある、平安期から開かれた古いエリアです。

塩谷寺、ここは上記迅速測図を見ても分かりますが、郡境尾根から凄まじい激坂を下って辿り着く、三方を囲まれたすごい空気感の場所に立地しています。稲城の妙見寺を思い出しました。

こちらは興禅寺

何故ここに円仁が?

と、思いますが、よく見るとここ高田村の直ぐ西は古代官道だった中原街道が走っています。

また、この中原街道を東京方面に少し戻ると、影向寺がある橘樹郡の核心エリアとなりますが、影向寺も円仁伝承が残る寺となります。ついでに言えば、更に東京方面に進むと目黒エリアとなり、ここも、目黒不動瀧泉寺、成就院、安養院など、円仁所縁の地ですね。

中原街道は、平安期には既に開かれメジャーだった、だから、円仁東国巡礼道に採用されたんでしょう。

先を行きましょう。

郡境はこの後南下しますが、地形図を見るとここも鶴見湾に突き刺す岬となっています。

黒線が郡境で、高田村の後は南下してますが、東を見ると岬状の地形となっています。

と、いうことで寄り道です。迅速測図を見てみれば、高田村からこの岬までは尾根道が付いています。走っても楽しそう。行ってみましょう。

迅速測図

ここに、日吉不動尊金蔵寺があり、由緒としては、円珍が清和天皇の勅により東国教化の巡礼の途中、ここに立ち寄り云々かんぬんという、どこかで聞いたことがあるような伝承です。

金蔵寺

もしかしたら、円珍と円仁を取り違えているのか、と、失礼ながら思ってしまいます。

そしてその直ぐ先にも大聖院があり、こちらは円仁開山の伝承があります。

大聖院

ここは、高田村の塩谷寺、興禅寺、その先の影向寺、能満寺を含め、濃厚な、天台宗エリアだったんですね。

先を行きましょう。

今は夢見が崎と呼ばれる嘗ての御宅郷、加瀬山は、今は、矢上川で東西に分断されていますが、往古は地続きだったそうです。

じゃあ矢上川はどう流れていたか。

私は多摩川の支流だったんじゃないかと思ってます。だから、橘樹郡の郡境は、矢上川と鶴見川水系早渕川の分水嶺なんだと思うのです。

さて、加瀬山にも古墳がありました。

中でも白山古墳は4世紀に作られた87mもの大型前方後円墳でした。

画面真ん中の小山が白山古墳、その奥の山は日吉の山です。

加瀬山古墳群の9号墳、6世紀後半の円墳

加瀬山の先端から(仮称)鶴見湾を望む。ここが一面海あるいは干潟だった?!

やっぱりそうでしたか。

大和王権勢力が太平洋から鶴見湾に入ってきた時、最初に目にする岬はこっちの方ですからね。

まずここに上陸し、前方後円墳を築き、加瀬山の奥にある影向寺や橘樹神社がある橘樹郷のローカル勢力がその影響を受け、円墳を築いた。

大和王権はローカル勢力を上手く取り込んだんでしょう、あるいは強い勢力だったんでしょうか、ともかく、そこを郡の中心、郡衙としたわけです。

しかし、前方後円墳は許さなかった。だから、橘樹郷の古墳は円墳なんだ、ということだと思います。

さて、郡境尾根道に戻りましょう。

と、言ってもまた直ぐに寄り道です。綱 "島" に行きましょう。

地形図を見てお分かりの通り、ここは正に、"島" なんですね。いやいや、ホントに、ポツンと島です。

画面中央の島が綱島

この激坂が島の始まり

ここにも古墳があります。

綱島古墳、5世紀末の円墳

もう2箇所、岬がありますから寄ります。

まずは駒岡です。上記地形図で、綱島の東のこちらもやはり島地形、青マーカ1つが駒岡です。ここにも古墳があります。

駒岡堂の前古墳、6世紀後半の前方後円墳

そしてこちらは古墳こそありませんが、885年創建の師岡熊野神社があります。綱島の南、青マーカ3つの半島地形です。

師岡熊野神社

法華寺

記事を書いてて今気付きましたが、この辺り、鶴見川流域は熊野神社が多いような。

紀州勢も太平洋から鶴見川を遡り進出してきたんだな、、、なんて思っていたら、同じようなことを書いたことを思い出しました。これです。

そう思って古墳分布(勝手にLinkでした。スミマセン。)を見てみると、古墳は矢上川と言うか多摩川と言うか、その流域に特に多く、鶴見川沿いではこの辺りまでが多くて、ここから上流は、ここで書いたように無いことはないんですが少なくなります。

これは多摩川も同様で、どういうことかと言うと、上流に行く頃には古墳時代が終わりを迎えていたということなんだと思います。

だから、古墳の代わりに横穴墓が増えますよね。

さて、20年以上前に4年間住んでいた大倉山を経由して帰りましょう。

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如何でしたか。

正直もう何度も行ったエリアなんですが、新たなテーマを以て、楽しむことが出来ました。

橘樹郡はやっぱり海に面した、開かれた、いや、見方によっては開かされた郡ということができると思います。

4世紀、太平洋から鶴見湾に大和王権勢力が入ってきます。白山古墳などの前方後円墳を、鶴見湾を望む岬の先端、一等地に築造します。

ローカル勢力は仕方なく、その奥に円墳を築くことになります。

200年後、仏教勢力が同じルートで入ってきて、山のテッペンに大型寺院を築きます。

更に200年後、橘樹郡が成立します。郡域は、
  • 橘樹郷、影向寺一帯
  • 高田郷、横浜市港北区の高田町一帯
  • 御宅(みやけ)郷、加瀬白山古墳のある北加瀬、南加瀬一帯
  • 県守(あがたもり)郷、津田山周辺
ですから、上記のような歴史を反映し、多摩川水系、鶴見川水系は早淵川辺りまでの下流域(鶴見湾、入江エリア)までとなっているんだと思います。

このexplorerで分かったことと、郡成立当初の郷から類推する郡成立当初の郡境の最後の部分は早淵川より下流域の鶴見川だったと思われます。尚、早淵川は、現流路(迅速測図時も同じ)の不自然さと、現流路屈曲部分東の地形図での低地加減から、郡成立時の旧流路は上図紫線の通りと思われ、上記推論はこれを前提としています。この郡境が鶴見川の早渕川より下流の部分と重なるまでは、鶴見川と多摩川の分水嶺と重なってます。記事中にも書きましたように、矢上川が多摩川水系なら、橘樹郡と西隣の都筑郡の郡境は鶴見川と多摩川の分水嶺だということになります。これは実にスッキリする仮説です。橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系ということですから。いやぁ、橘樹郡がLの字を反転させたような形だと言いましたが、下辺は後付だったんですね。

そして、ついでと言っては怒られますが、郡成立の100年後に、天台勢力が入ってきます。これは海路ではなく中原街道ルートだったのではないでしょうか。

以上です。

2020年10月4日日曜日

武蔵国郡境を行く、橘樹郡、その1, 多摩川~大山道


比較的近場となる、東京と埼玉南部は行ったことになりますので、神奈川に足を延ばしましょう。

今回は、橘樹郡です。

画面下部の、アルファベットLを上下反転して左右反転したような形が橘樹郡

郡境ですが、まず、北辺は多摩川ですね。

JR南武線矢野口駅辺りで直角に内陸に入り込んでます。

内陸に入り込んだ後は、迅速測図を見ると良く分かるんですが、尾根に乗ります。


尾根ということは分水嶺ということになりますが、三沢川と五反田川でした。

共に多摩川の支流ですが、まずこのエリアでは、橘樹郡と多摩郡の郡境は、三沢川と五反田川の分水嶺尾根だということが分かりました。

郡境は、尾根終わりで南に向かい、川に乗ります。鶴見川水系麻生川です。

その後、麻生川支流、真福寺川、早野川、黒須田川、早淵川(以上、鶴見川水系)の源頭を避け、一方、平瀬川(多摩川水系)と矢上川(鶴見川水系)は郡内に取り込んで、郡境道は進んでいきます。これら河川の分水嶺ですね。


その後、早淵川と矢上川の分水嶺尾根に乗ります。


その後、尾根終わりで南に進路を変え、早淵川に乗り、その後、鶴見川に乗ります。


その後、鴨居川(鶴見川水系)、富田川(帷子川水系)と、砂田川、鳥山川(鶴見川水系)の分水嶺尾根に乗ります。ここは言うなれば鶴見川水系と帷子川水系の分水嶺尾根です。


その後、尾根終わりで進路を西に取り帷子川を渡り、尾根に乗ります。


その後、帷子川の2つの支流の間の尾根に乗り南下し、ナント!!, 武相国境尾根に乗るんです。いやぁ、橘樹郡、L字の形をしてるので怪しいとは思ってましたが、マサカ!!, 武蔵国の西の端まで到達しているとは!!


その後、武相国境道と別れ、帷子川と大岡川との分水嶺尾根を行き、帷子川河口で郡境道は終わります。


郡境道は基本的に尾根を行ってましたね。

既述のように尾根を行くということは分水嶺です。登場する水系は、多摩川、鶴見川、帷子川、大岡川でした。

多摩川水系は五反田川までを取り込み、鶴見川水系は下流部や海側の支流は取り込んでそれ以外は都筑郡に譲り、帷子川も下流部のみ、大岡川は全く取り込まない、という意思を感じました。

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では実走です。

イキナリですが、橘樹郡の郡境北辺(荏原郡との郡境)が多摩川なのは分かります。

が、何故、西辺(多摩郡との郡境)が矢野口だったのでしょうか?

地図をもう一回見て頂きたいんですが、荏原郡と多摩郡の郡境は南北ラインで、等々力渓谷の谷沢川と砧公園の谷戸川の分水嶺尾根です。

これが南下して多摩川とぶつかるところ、そこは荏原郡、多摩郡に加え橘樹郡との郡境になるわけですが、この南北ラインが、その続きという感じで、そのまま川崎側の二子や溝口辺りに来るなら分かるんですが、何故、ググッと西の矢野口辺りなんでしょうか?


これには布田天神社と穴澤天神社が絡んでると思うんです。


  • 布多天神社、創建は垂仁天皇の御代(BC29~AC70), 祭神は少彦名尊
  • 穴澤天神社、創建は孝安天皇の御代(BC389), 祭神は少彦名尊
共に祭神が少彦名で、多摩川沿いに向かい合うようにあります。

布田天神社

布田天神社旧社地

私はこれは一心同体と言いますか、小野神社のように、元は一つで多摩川流路変更で旧地、現在地というようになったか、あるいは、同じものを多摩川両岸に創建したか、と思ってます。

穴澤天神社

こちらにも書きましたが、多摩川は出雲族とは切っても切れない関係で、出雲族が勢力を張ってるエリアは多摩郡だ、という感じがするのです。

だからここ矢野口辺りに郡境ラインが西動しているんじゃないか、と。

先を行きましょう。

穴澤天神社のある、三沢川と五反田川の分水嶺尾根です。

郡境尾根道、素晴らしい掘割道で、使われていたことを表していますね。足利尊氏道とも呼ばれています。

その後、郡境尾根はよみうりランドに入りますが、この近辺には寿福寺があります。

三沢川からここまでの道のりがつらいのなんのって。急坂です。寿福寺が位置するのはほぼ山頂なんですね。

風土記によれば、

"夫仙谷山壽福寺者、推古天皇六戊午年、聖徳皇太子就于高橋丸之亡妃、入阿彌尼公終焉之地、剏建七區練若、以資冥福之舊趾也、蓋山曰仙谷者、有仙人道鏡者、遅于此山、錬行修身積有年矣、應永十四年丁亥稔六月十八日 沙門宗圓敬記焉"

と、598年、聖徳太子による開山との伝承もある古寺です。

聖徳太子???, 598年???, いやいやそれはちょっと言い過ぎでしょ?!

と、お思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、この近くに、寺尾台廃堂跡があり、

ここも長い階段をチャリを担ぎようやく到着した山頂です。

八角形をした石積が復元されているんですが、これは建物の基壇で、その上に建てられた建物も八角形をしていたものと推測され、八角形の建物と言えば、聖徳太子が建てた法隆寺の夢殿が著名ですね。

また、この基壇は、掘り込み基壇といって一旦深く竪穴を堀り、そのなかをローム土と黒色土で交互に固くつきかためるという、非常に丁寧な基礎工事を行っており、この基壇の上に重量のある瓦葺きの建物が建っていたことが想定されています。

建物の屋根には、剣菱文様蓮華文という軒丸瓦を葺いており、この瓦は、東京都稲城市大丸の瓦窯跡から発掘され、同じ瓦が国分寺でも使われていました。


と、言うようなことから、奈良時代には建てられていた、規模の大きい、同じ橘樹郡でいえば影向寺のような公的な役割を持つ寺だったとも考えられています。

と、いうことで、強ち、聖徳太子???, 598年???も、馬鹿にできない伝承と言えます。

もしかしたらこの辺りは、郡境が定められる律令の時代より前に、仏教によって開かれていたエリアなのかもしれません!!

先に進みましょう。

弘法松公園です。

西南方向に素晴らしい眺望で、うっすらと大山も見えます。

弘法大師がこの地に寺を建立しようとしたんですが、この辺りの地形は九十九谷で百谷に足りないということで中止したそうです。その際、突いていた松の枝を差すと、そこから根が生え立派に育ったという伝承があります。

左下青マーカが弘法松公園、上の青マーカの左が、これ地図にも書かれてますが寿福寺、右が寺尾台廃寺跡です。弘法松公園を中心に置き、この辺りの鳥観図ですが、見てください。見渡す限り、山、谷で、人の住むところはありませんね。正に九十九谷という名が相応しいです。寿福寺の風土記の説明にも、仙人が住む谷だから戦国という地名だという記述がありました。明治10数年でもまだこの状況ですから、郡境が定められた律令の時代は推して知るべし。しかし、故に、でしょうか。仏教的には適地だったのかもしれません。

先程の寿福寺、寺尾台廃寺跡と通じますね。

先を行きましょう。

弘法松公園には建立出来なかった真言密教の寺をここに立てたのでしょうか。室町時代には真言密教の道場となり、関東の高野山とも称せられた王禅寺です。

921年、高野山三世無空上人が開山

風土記によれば、

"境内もまたいとひろし、土人の傳へに、いつの頃か當山を關東の高野山と號せしと、その地のさまをうつさんとせしに、山内の谷々九十九ありて百谷にたらざりければ、やみしといへり、是は誤し説なるべけれど、境内のひときことはこれにてもはかりしるべし。"

と、弘法松公園でも聞いた内容が伝えられ、強ち突拍子もない想像でもないようです。

先を行きましょう。

菅生緑地裏に残る郡境道

今走ってきた尾根が良く見えます。

郡境は既述のように多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺尾根を多摩川と並行して東進し、有馬で大山道と交差します。

郡境尾根道を背に、大山道を撮影

大山道は言わずと知れた古代官道、古代の東海道です。ここは古代東海道と橘樹郡・都筑郡の郡境道の交差点だったのです。

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如何でしたでしょうか。

まだまだ先は長いんですが、キリが良いので第一弾はこの辺で終わりたいと思います。

何度も走った道ですが、視点を変えると二度楽しめますね。この辺りはどうやら律令成立前に、仏教の隆盛があったようです。

寿福寺、寺尾台廃寺、弘法松公園、王禅寺・・・
しかも、全部、尾根のテッペン付近に建てられていました。


浅草同様、仏教勢力は鶴見川を遡ってきたんでしょう。

次回は有馬古墳からです。