2020年10月4日日曜日

武蔵国郡境を行く、橘樹郡、その1, 多摩川~大山道


比較的近場となる、東京と埼玉南部は行ったことになりますので、神奈川に足を延ばしましょう。

今回は、橘樹郡です。

画面下部の、アルファベットLを上下反転して左右反転したような形が橘樹郡

郡境ですが、まず、北辺は多摩川ですね。

JR南武線矢野口駅辺りで直角に内陸に入り込んでます。

内陸に入り込んだ後は、迅速測図を見ると良く分かるんですが、尾根に乗ります。


尾根ということは分水嶺ということになりますが、三沢川と五反田川でした。

共に多摩川の支流ですが、まずこのエリアでは、橘樹郡と多摩郡の郡境は、三沢川と五反田川の分水嶺尾根だということが分かりました。

郡境は、尾根終わりで南に向かい、川に乗ります。鶴見川水系麻生川です。

その後、麻生川支流、真福寺川、早野川、黒須田川、早淵川(以上、鶴見川水系)の源頭を避け、一方、平瀬川(多摩川水系)と矢上川(鶴見川水系)は郡内に取り込んで、郡境道は進んでいきます。これら河川の分水嶺ですね。


その後、早淵川と矢上川の分水嶺尾根に乗ります。


その後、尾根終わりで南に進路を変え、早淵川に乗り、その後、鶴見川に乗ります。


その後、鴨居川(鶴見川水系)、富田川(帷子川水系)と、砂田川、鳥山川(鶴見川水系)の分水嶺尾根に乗ります。ここは言うなれば鶴見川水系と帷子川水系の分水嶺尾根です。


その後、尾根終わりで進路を西に取り帷子川を渡り、尾根に乗ります。


その後、帷子川の2つの支流の間の尾根に乗り南下し、ナント!!, 武相国境尾根に乗るんです。いやぁ、橘樹郡、L字の形をしてるので怪しいとは思ってましたが、マサカ!!, 武蔵国の西の端まで到達しているとは!!


その後、武相国境道と別れ、帷子川と大岡川との分水嶺尾根を行き、帷子川河口で郡境道は終わります。


郡境道は基本的に尾根を行ってましたね。

既述のように尾根を行くということは分水嶺です。登場する水系は、多摩川、鶴見川、帷子川、大岡川でした。

多摩川水系は五反田川までを取り込み、鶴見川水系は下流部や海側の支流は取り込んでそれ以外は都筑郡に譲り、帷子川も下流部のみ、大岡川は全く取り込まない、という意思を感じました。

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では実走です。

イキナリですが、橘樹郡の郡境北辺(荏原郡との郡境)が多摩川なのは分かります。

が、何故、西辺(多摩郡との郡境)が矢野口だったのでしょうか?

地図をもう一回見て頂きたいんですが、荏原郡と多摩郡の郡境は南北ラインで、等々力渓谷の谷沢川と砧公園の谷戸川の分水嶺尾根です。

これが南下して多摩川とぶつかるところ、そこは荏原郡、多摩郡に加え橘樹郡との郡境になるわけですが、この南北ラインが、その続きという感じで、そのまま川崎側の二子や溝口辺りに来るなら分かるんですが、何故、ググッと西の矢野口辺りなんでしょうか?


これには布田天神社と穴澤天神社が絡んでると思うんです。


  • 布多天神社、創建は垂仁天皇の御代(BC29~AC70), 祭神は少彦名尊
  • 穴澤天神社、創建は孝安天皇の御代(BC389), 祭神は少彦名尊
共に祭神が少彦名で、多摩川沿いに向かい合うようにあります。

布田天神社

布田天神社旧社地

私はこれは一心同体と言いますか、小野神社のように、元は一つで多摩川流路変更で旧地、現在地というようになったか、あるいは、同じものを多摩川両岸に創建したか、と思ってます。

穴澤天神社

こちらにも書きましたが、多摩川は出雲族とは切っても切れない関係で、出雲族が勢力を張ってるエリアは多摩郡だ、という感じがするのです。

だからここ矢野口辺りに郡境ラインが西動しているんじゃないか、と。

先を行きましょう。

穴澤天神社のある、三沢川と五反田川の分水嶺尾根です。

郡境尾根道、素晴らしい掘割道で、使われていたことを表していますね。足利尊氏道とも呼ばれています。

その後、郡境尾根はよみうりランドに入りますが、この近辺には寿福寺があります。

三沢川からここまでの道のりがつらいのなんのって。急坂です。寿福寺が位置するのはほぼ山頂なんですね。

風土記によれば、

"夫仙谷山壽福寺者、推古天皇六戊午年、聖徳皇太子就于高橋丸之亡妃、入阿彌尼公終焉之地、剏建七區練若、以資冥福之舊趾也、蓋山曰仙谷者、有仙人道鏡者、遅于此山、錬行修身積有年矣、應永十四年丁亥稔六月十八日 沙門宗圓敬記焉"

と、598年、聖徳太子による開山との伝承もある古寺です。

聖徳太子???, 598年???, いやいやそれはちょっと言い過ぎでしょ?!

と、お思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、この近くに、寺尾台廃堂跡があり、

ここも長い階段をチャリを担ぎようやく到着した山頂です。

八角形をした石積が復元されているんですが、これは建物の基壇で、その上に建てられた建物も八角形をしていたものと推測され、八角形の建物と言えば、聖徳太子が建てた法隆寺の夢殿が著名ですね。

また、この基壇は、掘り込み基壇といって一旦深く竪穴を堀り、そのなかをローム土と黒色土で交互に固くつきかためるという、非常に丁寧な基礎工事を行っており、この基壇の上に重量のある瓦葺きの建物が建っていたことが想定されています。

建物の屋根には、剣菱文様蓮華文という軒丸瓦を葺いており、この瓦は、東京都稲城市大丸の瓦窯跡から発掘され、同じ瓦が国分寺でも使われていました。


と、言うようなことから、奈良時代には建てられていた、規模の大きい、同じ橘樹郡でいえば影向寺のような公的な役割を持つ寺だったとも考えられています。

と、いうことで、強ち、聖徳太子???, 598年???も、馬鹿にできない伝承と言えます。

もしかしたらこの辺りは、郡境が定められる律令の時代より前に、仏教によって開かれていたエリアなのかもしれません!!

先に進みましょう。

弘法松公園です。

西南方向に素晴らしい眺望で、うっすらと大山も見えます。

弘法大師がこの地に寺を建立しようとしたんですが、この辺りの地形は九十九谷で百谷に足りないということで中止したそうです。その際、突いていた松の枝を差すと、そこから根が生え立派に育ったという伝承があります。

左下青マーカが弘法松公園、上の青マーカの左が、これ地図にも書かれてますが寿福寺、右が寺尾台廃寺跡です。弘法松公園を中心に置き、この辺りの鳥観図ですが、見てください。見渡す限り、山、谷で、人の住むところはありませんね。正に九十九谷という名が相応しいです。寿福寺の風土記の説明にも、仙人が住む谷だから戦国という地名だという記述がありました。明治10数年でもまだこの状況ですから、郡境が定められた律令の時代は推して知るべし。しかし、故に、でしょうか。仏教的には適地だったのかもしれません。

先程の寿福寺、寺尾台廃寺跡と通じますね。

先を行きましょう。

弘法松公園には建立出来なかった真言密教の寺をここに立てたのでしょうか。室町時代には真言密教の道場となり、関東の高野山とも称せられた王禅寺です。

921年、高野山三世無空上人が開山

風土記によれば、

"境内もまたいとひろし、土人の傳へに、いつの頃か當山を關東の高野山と號せしと、その地のさまをうつさんとせしに、山内の谷々九十九ありて百谷にたらざりければ、やみしといへり、是は誤し説なるべけれど、境内のひときことはこれにてもはかりしるべし。"

と、弘法松公園でも聞いた内容が伝えられ、強ち突拍子もない想像でもないようです。

先を行きましょう。

菅生緑地裏に残る郡境道

今走ってきた尾根が良く見えます。

郡境は既述のように多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺尾根を多摩川と並行して東進し、有馬で大山道と交差します。

郡境尾根道を背に、大山道を撮影

大山道は言わずと知れた古代官道、古代の東海道です。ここは古代東海道と橘樹郡・都筑郡の郡境道の交差点だったのです。

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如何でしたでしょうか。

まだまだ先は長いんですが、キリが良いので第一弾はこの辺で終わりたいと思います。

何度も走った道ですが、視点を変えると二度楽しめますね。この辺りはどうやら律令成立前に、仏教の隆盛があったようです。

寿福寺、寺尾台廃寺、弘法松公園、王禅寺・・・
しかも、全部、尾根のテッペン付近に建てられていました。


浅草同様、仏教勢力は鶴見川を遡ってきたんでしょう。

次回は有馬古墳からです。

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