まず、綴党(綴喜党、都筑党)は石川牧、及び立野牧から出現した武士団であるとし、その石川牧の経営者は石川六郎で、つまり、綴党(綴喜党、都筑党)石川氏で、その居館跡の保木薬師堂、石川牧の総鎮守の驚神社を訪ねました。
同じく綴党(綴喜党、都筑党)には荏田氏がいて、その居城が荏田城で鎌倉街道中道を西から押さえ、観福寺西の敵見塚を支砦として鎌倉街道中道を東から押さえていたことを確認しました。
さて今回は、立野牧から切り込んでみたいと思います。
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町田駅まで輪行、鎌倉街道上道と中道を連絡する古道でまずは長津田に向かいます。
ほぼ古道を辿れますが、成瀬が丘の辺りは酷いですね。
南成瀬、東光寺の辺りから古道復活です。
JRと東急の線路を越え、長津田に入りますが、ここに隨流院があります。
隨流院そのものは立野牧に無関係のようなんですが、迅速測図では、このお寺の直ぐ北側には競馬場がありました。
このパターンは、横山党の小野牧、前回綴党(綴喜党、都筑党)の石川牧と同じです。ここが立野牧だった痕跡かもしれません。
鎌倉街道の上道と中道の連絡路を先に進みましょう。北門地区にある泣坂です。
ここも、坂は立野牧に関係ありません。ここの地名、"北門" が、ターゲットなんです。
この地名、何と読むか分かりますか?
キタモン、ではありません。ボッカド、ボクカドです。
古道のほとりによれば(以下引用),
"ボクカドは、牧の門である。つまり、このへん一帯は牧場だったようで、ここに牧場入口の門があったからであろう。そして牧場入口には牧場支配者が居を構えていたことであろうし、古代の官道が通っていた東光寺にも早くから連絡道があって、この地が有名になった。そこでこのあたりは牧門といわれ、後に北門の文字になったと考えられる。"
実は石川牧は、石川牧の経営者石川六郎の館跡、石川牧総鎮守驚神社が直ぐに見つかりましたが、立野牧はそうは行きませんでした。
柿生文化65号によると、都筑氏は立野牧の荘司ということです。石川牧が石川氏、立野牧は都筑氏ということです。
ですから綴党(綴喜党、都筑党)の痕跡をexploreするとなれば、都筑氏の館跡など、都筑氏に直接関する遺跡、あるいは立野牧の総鎮守など立野牧に関する遺跡を、ということですが、これが全く見つかりません。
立野牧のエリア、ということで挙がってくる地名は、十日市場、中山、川和、佐江戸、池辺、小机です。
※GoogleMapsで黒ポイント打ってます。
そこで、いつも大変お世話になっております、谷戸めぐりで、馬や牧に関する地名を探しました。
※GoogleMapsで濃いグレーポイント打ってます。
そういった作業の中で発見したのが、上記の、北門 = ボクカド = 牧門、なのです。
もしかしたらここに、牧場支配者 = 立野牧別当都筑氏が居を構えていたかもしれません。
さて、ここ十日市場には、馬場坂、馬家窪という地名も残っています。
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目的地はクリアしましたが、この時点でまだ9:30。
ここに牧の門が出来た理由の一つでもあった、鎌倉街道中道と上道の連絡路、これは、横浜線に沿って走る道もそうなんですが、もう一つは、新治市民の森の西を行き、続いて三保市民の森の西を行く道も、川井に出た後、八王子街道で鶴ヶ峰に向い、鎌倉街道中道と合流する道筋、こちらも鎌倉街道中道と上道を連絡する道です。
今日はこの道で中道に合流し北上してここに戻ってきましょう。
ヒルタウンを登り切ると、ここが鎌倉街道連絡路の入口です。
今日はクロモリだからずっと舗装路でいてほしかったんですが、直ぐにグラベルに。そこの眺望です。
やがて道は横浜創英大学西の道へ。
そして、三保市民の森へ。
三保市民の森を過ぎれば八王子街道に向かって下り、八王子街道を鶴ヶ峰に向かいます。
鶴ヶ峰は畠山重忠の最期の地、史跡も多いですが、今回は道すがらのものだけ。
鎌倉街道中道は住宅街の道でフォトジェニック無し、中山に到着です。
中山から町田駅に向かう道すがら、観護寺に寄って行きましょう。
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如何でしたでしょうか。
都筑氏は、吾妻鏡を始めとし、web検索すると沢山出てくるんですが、居館跡はさっぱり出てきません。
立野牧の方も、総鎮守は勿論、関連する何か、が、何一つ、出てきません。
唯一、手掛かりとして出てきたのが、北門 = 牧門でした。
何とか、ギリギリセーフという所でしょうか。
綴党(綴喜党、都筑党)はこれでひとまず完了とします。さて次のテーマは何にするか・・・
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