その2では、鎌倉街道中道上道連絡路原町田〜鶴ヶ峰を行きました。
多摩川から西の、武相国境までの鎌倉街道はメジャーなものからマイナーなものまで知り尽くしている、既に走った、と、思っていましたが、これらのルートは知りませんでした。
まだまだ知らないルートがあるんじゃないか、と、一度走ったところも含めて、洗い直そうと思いました。
と、いうことで新シリーズ、マイナー鎌倉街道のスタートです。
まずは先日の鎌倉街道中道支道荏田〜登戸ルートの東側を並行して走る、鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートです。
□◆■◇
往路は鎌倉街道中道本道でもある大山街道で鷺沼まで。
嬉しいことがありました。
この大山街道、多摩川を渡った後、多摩丘陵に上がりますが、以降、アップダウンが激しいんです。
まずは溝口駅付近の多摩丘陵に登るねもじり坂(20m), 次に庚申坂を下り切った後の宮崎台駅付近の登り返し八幡坂頂上まで(28m), 最後に八幡坂を下り切った後の宮前平駅付近の鷺沼駅までの登り返し(45m)。
登り切れるかな、いや、登れないな、と、思ってたんですが、今日はクロモリだし、、、登れたんです。ダンシングのコツを掴んだようです。
鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートは、ここ、鷺沼駅から分かれています。
画面真中十字に、南東と南西から一本点線徒歩道が来て合流し、北西に向かっているのが分かると思いますが、南東からの道は一際太い道、これが大山街道ですが、そこから分岐しています。この一本点線徒歩道が件の鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートです。 |
思うのは鎌倉街道というのはつくづく尾根道だということです。
明治13〜19年に作られた迅速測図、その時代は世の中は安全で、アップダウンの少ない楽な道を選んで良いのです。結果、川沿いの道がよく使われるようになり、地図上で太い線で表されるようになりました。
一方、武士の世であった鎌倉〜室町時代は、安全最優先ですから、見晴らしの効く尾根道なんです。
迅速測図の時代には、スッカリ廃れて一本点線徒歩道になってますが、この道が、鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートなんです。
今後、マイナー鎌倉街道を見つけていくに際し、重要な認識ですね。
このルート上には、頼朝に関する伝承が幾つか残っています。
- 茶筌松、1189年の奥州合戦の往路、頼朝がここで茶会を開き、ここにあった松の葉を茶筌代わりに使った。
- 鞍掛松、同じく奥州合戦の往路、頼朝が鞍を掛けた松
茶筌松と鞍掛松の間にあるこの尾根で最も標高の高い梵天山の南(鎌倉方面)の眺望、鎌倉から来たら、八幡坂を登り切って多少のアップダウンの後に最高標高ですから、ここで馬を降り、鞍を掛け、鎌倉を望みながら茶会を開いたんじゃあないでしょうか?! |
さて、この後、道は矢上川に向かって急降下していきますが、下り切った所には東名川崎インターがあって抜けられません。
大きく迂回し、やはり1189年の奥州合戦の往路で、頼朝が橋を架けさせたという伝承が残るどんどん橋です。この辺りの地名、土橋の由来となった伝承となります。
その後、ラブボを左に見やりながら標高差35mの登りをクリアし、平瀬川に下り切る手前の初山地区の島坂の風景です。
この先のとんもり谷戸でランチの予定ですがその前に、白幡八幡大神です。
由緒からして、やはり、ここが鎌倉街道の証拠です。
とんもり谷戸に到着し、ここでランチ。
ようやく晴れてきました。鎌倉街道を復路にしたこと、正解でした。
ランチの後は、とんもり谷戸の東側の道が鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートですが、途中、崖上に上がる階段が。
これは迅速測図に載る一本点線徒歩道の古道です。
この道を尾根まで登り切った所にある馬頭観音。
ここで、1275年、佐渡に流罪となった日蓮を鎌倉から訪ねる際、日朗が一夜の宿を求めたという伝承があり、これが、本遠寺に繋がったと言われています。
これも、この道が鎌倉街道である証拠と言えるでしょう。
尾根道を先に進むとおし沼広場がありますが、その南を行くアスファルトの道ではなく、広場内の土道が古道です。
おし沼広場から坂を下り生田緑地メインエントランスの前を過ぎて、登戸の渡しを渡ってexplore完了です。
◆□■◇
如何でしたでしょうか。
初山の島坂から登戸へのルートは何度も走ったことがありましたが、島坂までは初で、楽しめました。
各地の伝承も調べつつ、尾根道を探して、マイナー鎌倉街道を探していきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿