市ヶ谷は私が担当するお客様もいらっしゃるので、よく来ますが、来る度に、歌川広重の名所江戸百景、第41景の、市ヶ谷八幡の構図で写真を撮ります。
が、いつもはこの構図の撮影のみで、忙しく、お客様の事務所に向かっていました。
今回はワクチン接種後、帰宅するのみです。天気も良いので、周りを散策してみましょう。
ショートマイクロツーリズムでしたが、それなりに楽しめました。
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まずは改めて場所ですが、ここになります。
JR市ヶ谷駅を降りると江戸城外堀に架かる橋があります。
この橋は江戸城外堀に架かる土橋をそのまま流用している橋です。江戸城の遺構ということになりますね。
その橋上から、広重はスケッチしたんですね。
この構図からは残念ながらビルによって見えませんが、市ヶ谷八幡は今もまだ同じ場所にあります。
何故ここが名所なのか、ですが、タイトルの通りまずはこの市ヶ谷八幡ですね。
1479年に、扇谷上杉定正家臣、太田道灌が、江戸城の西の守護神として、鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀しました。
鶴岡八幡宮に対して、亀ヶ岡八幡と称して、鶴に亀と縁起が良い、ということのようです。
元はもう少し東にあったようですが、外堀が出来て以降、外堀の外側である今の場所に移転しました。
人口爆発する江戸、木造住宅密集市街地が故の大火もあって、次第に、外へ外へと移転も始まります。
明暦の大火後、ここには、尾張藩が引っ越してきました。
この広さですから、人数もいっぱいいます。男ばっかり。
そりゃあもう、盛り場が出来ますね。
はい、市ヶ谷八幡を、広重が名所としたのは、盛り場として名所だったから、と、こういうことなのではないでしょうか。
加えて、弘法大師が開いたとの伝承が残る茶の木稲荷神社の存在も大きいと思います。平安期の古社ということもありますし、眼病平癒の霊験あらたかで有名でした。
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市ヶ谷八幡は、広重が選んだ名所江戸百景の一つで、何故、ここを名所としたのかについては、市ヶ谷八幡そのものの存在と、尾張藩上屋敷引っ越しに伴う盛り場化、加えて眼病平癒の霊験あらたか茶の木稲荷神社だとしました。
さて、尾張藩上屋敷のその後、ですが、尾張藩に限らず、大名屋敷は、明治維新以降、軍関係の施設になりました。
東京の方はご存知、市ヶ谷の尾張藩は、今は、防衛省市ヶ谷駐屯地となっています。
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