当時の多摩川・浅川両河川の流路はGoogleMapsの通りで、北から、まず、古多摩川の河岸段丘上に武蔵国府、次に古多摩川、で、実は現在の多摩川は古浅川の流路だったんですが、古多摩川と古浅川の間、つまり、"河原" に府中市小野神社があります。ここは、"河原" ですから氾濫地です。一見陸地に見えても一度大雨が降れば川になる所です。ここに府中市小野神社があるわけです。で、主祭神は瀬織津姫、水の神です。さもありなん、ですね。
古浅川の南に大栗川が合流しています。この大栗川の谷戸を活用し小野牧を整備し、小野牧を管理するこの地に小野郷の中心を置き、小野神社を創建したものと思われます。落川は牧の西側の柵の名残かもしれません(GoogleMaps赤太線)。
その後、小野(横山)氏は、この大栗川沿いに進出していきました。
堀ノ内、下柚木、中山の各村の支流を遡り、大栗川と浅川の間の尾根を越えて、今の八王子駅周辺に進出していったのです。連光寺の支流を遡って、大栗川と乞田川の間の尾根を越えて小野路にも進出しています。
そして、924年ですから武蔵守着任の年ですが、八王子駅周辺に八幡八雲神社を創建しています。927年には小野路に小野神社を創建しています。
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古甲州道シリーズの日野の回でご紹介した、936年に武蔵国府の任期を終えた日奉宗頼は、武蔵国府から見て大栗川の次に位置する浅川沿いに進出し、しかし、長沼より先は小野(横山)氏が存在してましたから、それより上流には行かず、浅川の次の秋川沿いに鎌倉街道を使って移動し、秋川最上流の檜原村まで進出しています。先輩に配慮したのでしょうか。
ですから日奉宗頼の西党は浅川・秋川より北、小野孝(隆)泰の横山党はそれより南と棲み分けていたように思います。
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八王子駅周辺に進出した小野(横山)氏は、湯殿川、山田川沿いに進出していったようです。
と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党の痕跡を辿るexploreしたいと思いますが、横山党は1213年の和田合戦で滅亡していますから、痕跡を探すのが難しいです。
が、和田合戦後、その領地を引き継いだのが大江・長井氏ですから、大江・長井氏の痕跡を辿れば、それはイコール横山党の痕跡ということになります。
と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党、大江・長井氏の痕跡を辿るexploreをしたいと思います。
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京王高尾線、京王片倉駅まで輪行。まずは片倉城に向かいます。
東京都によれば、
"『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(1394-1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。"
と、ありますが、大江・長井氏築城ならここは横山党のエリアということになります。
個人的には、この鎌倉街道を南下すると横山党相原(藍原、粟飯原)氏の支配地に至りますので、元々は横山党の城だったと思います。
小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー相原時重
先を行きましょう、斟珠寺です。
八王子市史によれば、本尊は地蔵菩薩で大江広房内室に縁があるということです。
大江広元(鎌倉幕府政所別当)ー時弘(評定衆)ー泰秀(評定衆)ー時秀(評定衆)ー宗秀(評定衆)ー広秀(大善大夫)ー広房(入道道弘)
次に広園寺を訪れます。
寺伝によれば、1389年に、大江師親による開創ということです。片倉城と同じですね。風土記からの採用だと思われます。
が、この大江師親、系図に見つかりません。
一方、その子の長井道広という説もあり、道広は広房の別名です。広房の父は広秀なので、師親 = 広秀、あるいは道広 = 広房の開創ということになります。他に師親 = 広秀開創という記事もあるので、この親子のどちらか、あるいは両方による開創でしょう。
長井広房は1380年頃、米沢城を追われていますので、その後、この地に戻ってきたのかもしれません。
先を行きましょう、真覚寺です。
津久井城主長山忠良が開基ということですが、長山ではなく長井の間違いと言われています。
と、いうことで長井氏関連と思いましたが、この長井忠良という人物が系図に見つかりません。
なので津久井城主の方を調べると、津久井三郎親直という人物がヒットしました。wikiでは、大江氏の津久井氏という言い方がされていますし、"親" は先の大江師親との通字ですから、何らかの関係があるかもしれません。
先を行きましょう、龍見寺です。
慶長年間ですから1596〜1614年に開創ということですが、境内にある大日堂の大日如来坐像は、寺伝よれば横山経兼が前九年の役で源頼義に従い奥州を攻めた時、戦勝記念に湯殿山から持ち帰ったと伝わるもので、湯殿川の名前の由来となっているということでした。
ようやく、大江・長井氏ではなく本命横山党の伝承に当たりました。
ここは横山党の館跡という話もあります。"館", "殿入" という地名からして頷けます。
先を行きます。御霊神社と浄泉寺です。
何故ここに鎌倉権五郎景正を祀る御霊神社が???
1079年、横山党と鎌倉党は領地争いをしています。また、1113年、横山党は愛甲氏を攻め立て、鎌倉権五郎景正を含む軍と戦ってもいます。このどちらかの時、このエリアが鎌倉権五郎景正の領地になったのだと思います。これは正に横山党の痕跡ですね。
先を行きましょう、高乗寺、初沢城です。
寺伝によれば、1394年に長井大膳大夫高乗が開基とのことですが、この長井高乗が系図に見つかりません。
しかし、大膳大夫となると広秀になりますし、片倉城の伝承に、応安年間ですから1368〜75年に長井広秀により築城というものもあるのでこの話との整合性は確保されているようです。
次に初沢城です。
初沢城は初代は横山党椚田氏による築城とも言われています。
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通常であればこの後は町田街道 = 鎌倉街道山の道の恋路峠を越えて相模国・町田街道に行くのですが、今回は少し戻って、、、
湯殿川が寺田方面へ別れた支流を遡り、そのまま湯殿川と境川の間の尾根(武相国境 = 東京湾と相模湾の分水嶺)を越えて、土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由し相模国・町田街道に出るルートを行きます。
パーフェクトな尾根道 |
何故か
私は、このルートは、甲州街道の一(いち)ルートだったのではないかと、思ってるんです。
土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由して町田街道に出たら、大戸ー草戸峠ー梅ノ木平ー案内ー大平からは南に案内川の支流沿いに入っていき、武蔵越から赤馬に下っていく道筋です。赤馬からは千木良、小原へと続き甲州街道に接続します。
大戸観音堂 |
(草戸峠までは、もう2つ、ルートがありそうです。1つは、龍見寺をそのまま南西へ。館町清掃工場から権現谷を経て武相国境尾根を草戸峠まで。もう1つは初沢城から初沢を遡り梅の木平へ出るルートです。)
先の山王社は、物見の場所だったのではないでしょうか。あの眺望ですから。1079年の鎌倉党との領地争い、1113年の横山党征伐の時に活用されたでしょう。
また、このルートは、裏甲州道、あるいは高尾山参詣道と言われていた模様です。
もう一つのルートは勿論小仏峠越えですが、上野原(古郡)には、横山党古郡氏がいましたから、これらルートは、横山党が行き来する道だったと思われます。
小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー古郡忠重
和田合戦の最後、横山党党首時兼は古郡に逃げ落ちますが、最後は古郡で自害します。このルートを行った可能性もあります。
正にこの横山党にとって重要な甲州街道を監視、守る役割が小松城だと思います。
龍籠山金毘羅神社から神奈川県道48号に出る尾根トレイル、龍籠山金毘羅神社への参道ですね。この写真は向きが逆ですが。 |
小松城は長井大善大夫広秀の築城と言われてますが、上記理由から、横山党の築城の可能性もあると思います。殿ヶ谷形式であることもそれを後押しします。
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如何でしたでしょうか。
横山党が、多摩市小野神社周辺の小野郷から大栗川を遡って八王子駅周辺に進出後、湯殿川を遡って勢力を拡大していった痕跡を辿ってみました。
痕跡が残ってましたね。
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