初午の三日後ということもあって、大沢の風習である五色の幟で初午を祝っている姿を見ることができました。養蚕痕跡です。
さて、今回は、人見の西側、甲州道中沿いの府中から立川までをexploreしたいと思います。
府中崖線が始まる狛江から府中までの府中崖線と甲州道中の間(品川道沿い)は以前exploreしましたから、今回はその西の、甲州道中を中心としたエリアを行きます!!
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まず訪れるのは前回exploreした人見の南に位置する、"染屋" です。
今昔マップ(1896~1909)の染屋 |
地名からして気になりますよね。養蚕に縁があるような。
調べてみると、やはりそうでした。
府中市によれば、
『現在の白糸台地域は、江戸時代には上染屋(かみぞめや)村、下染屋(しもぞめや)村、車返村と称されており、車返村の古名(こめい)を白糸村といいます。染屋(そめや)・白糸という地名は、その名のとおり製糸や布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っており、それを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋(かみぞめや)、下染屋(しもぞめや)にまわし、糸を染め上げて、八王子の織屋に送り、これを国府に納めたものである、という言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。』
と、言うことでした。
この説明の、"この地域" というのは染屋限定ではなく、もう少し広い地域を指しているように思います。
この辺り、多摩川と甲州道中に挟まれたエリアは、砧、染地、調布、布田、染屋、白糸と、糸や布に関する地名が多く残っています。"この地域" というのは、この辺り一帯を指しているのではないかと思います。
その中で、役割が決まっていたのでしょう。養蚕し、生糸を生産したら、世田谷の砧に送り、多摩川でさらしたんですね。万葉集にも、
"多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき"
という句が残っています。
その後、染地、あるいは染屋で染色をしたんでしょうね。
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今昔マップで1896~1909年の府中周辺を見てみると、国分寺崖線と甲州道中の間の立川段丘と、甲州道中の北側も桑畑(YとLを組み合わせたような地図記号)一色ですね。
今昔マップ(1896~1909)の府中周辺 |
これを迅速測図(1880~1886)で見てみると、ちょうど、地図のつぎはぎの関係で色が変わっている所から左右で、右は畑のみ(前回訪れた人見付近には桑畑は見られませんね。畑のみです。), 左は桑畑(赤下向き矢印)のみ、と言った感じになっているのが分かります(無地は草地、あるいは樹林帯)。
つまり府中は、空前の生糸ブームの前から養蚕がなされていたということが分かりますね。
迅速測図時代の府中 |
そんな中、訪れたのは、分梅の天王宮八雲神社です。
そして次は、本宿の稲荷神社です。
先を行きましょう、谷保天満宮です。
天満宮で養蚕?!, と、思われた皆さん、はい、その通りなんですが、ここでは毎年成人式の頃に、どんど焼きを開催していて、その際、繭玉を模したお餅を焼いて食べるそうです。
どんど焼きが最初というよりは、恐らくですが、お稲荷さんの初午祭の際の養蚕風習が、初午祭は開催しなくなったものの、どんど焼きに引き継がれたということなんだと思います。
先を行きましょう、青柳稲荷神社です。
最後に、矢川弁財天です。
矢川弁財天、 |
ここは養蚕関係の記事を見つけられませんでしたが、ここまで蛇推しということは、養蚕の守り神だったに違いありません。
弁天池を渡る橋の欄干に蛇 |
そして狛蛇 |
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如何でしたでしょうか。
大沢のように初午祭りの痕跡が残っているかと思いましたが、きれいに片付けられていました。残念。
養蚕痕跡というよりは、ただただ神社を巡ったexploreとなりました。
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