2021年2月6日土曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その5, 三鷹の大沢と府中の人見

前回、府中崖線(古品川道、いききの道、あるいは筏道)と甲州道中に挟まれたエリアの養蚕痕跡をexploreしました。

府中崖線の上、ハケ上ですから、水に不便で、水田は出来ず、畑が多かった土地ですが、生糸の輸出急増に伴って、桑畑に変えられていき、今昔マップ(1896~1909)を見ると一面桑畑でしたね。

と、言うことで、次のexplore先を見つけるべく、府中崖線のハケ上、国分寺崖線のハケ上を、今昔マップ(1896~1909)でチェックしてみたのです。

府中崖線、国分寺崖線

すると気付きました。

ハケ上ならどこでも良いというわけではないんですね。

ハケ上の、且つ、人が住んでいる所、そういう所に桑畑があるんです。

ハケ上であっても、人家が無ければ桑畑も無い。

まずこの図は前回同様、府中崖線と国分寺崖線の間、つまり、立川段丘のあるエリアです。前回よりも北、甲州道中より北のエリアとなります。赤丸で囲った所が人家がある集落で、そこにYとLの桑畑地図記号が確認できます。が、人家が無いエリアは針葉樹(三角にチョン)と広葉樹(丸にちょん)の地図記号、つまり樹林帯ですね。ハケ上ならばどこもかしこも桑畑というわけではなく、人家の近くにしか桑畑は分布してませんでした。蚕が唯一口にするのは桑の葉です。それも良質でなければならなかったそうですから、直ぐに駆け付けられる所じゃないといけなかったということが、これからも分かりますね。

前回のエリアは府中崖線と甲州道中の間ですが、人家のある甲州道中から府中崖線までそう遠くなく、だから全面桑畑だったんですね。

前回の品川道周辺の桑畑の密集具合

この気付きに基づいて今昔マップ(1896〜1909)を、前々回の深大寺の西隣から見てみると、まずは大沢の集落に、その西は少し間を空けて人見の集落に桑畑があることが分かります。その間は人家が無く桑畑もありません。人っ子一人住まない樹林帯です。

大沢、人見。大沢の右(東)にも集落ごとに桑畑があるが今は国立天文台になっている。

人見まで来ると直ぐ南が甲州道中ですから、甲州道中を東へなぞってみると、人家がある甲州道中沿いの北側(南側は前回済)はほぼ桑畑ですが、それより北は広葉樹、針葉樹の樹林帯、あるいは草地(白地)です。

と、言うことで今回は、深大寺エリアの西側、三鷹の大沢と府中の人見に養蚕痕跡を探るexploreです。

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まずは大沢の集落です、大沢の里古民家に向かいます。

大沢の里古民家、嘗ての箕輪家の住宅、1902年築造

"三鷹の民俗" によれば、この辺りでは明治の終わりから戦前まで、養蚕が盛んで、農家ならどこでもやっていたそうです。

この古民家でも養蚕をやっていました。上記写真で、屋根の上にまた1つ屋根がありますがこれは換気用で養蚕農家の特徴です。

この屋根裏部屋がお蚕様の部屋でした。

次に向かうのは対岸の大沢の里水車経営農家です。

大沢の里水車経営の農家

ここでも養蚕をやっていました。

お蚕様の屋根裏部屋

養蚕道具

ここ大沢では、養蚕農家は養蚕の無事を祈り、榛名、御岳、蚕影山の講を組織し、代参していたそうです。

榛名神社は雹・雷除けです。蚕の餌となる桑の順調な育成を祈ったのです。

御嶽神社は盗難除け、丹精込めて苦労して育てた蚕や繭、糸などが盗まれないようにということです。

蚕影山神社はそのものズバリですね。

代参の日待ちは、立ち日待ちと帰り日待ちの2回あったそうで、立ち日待ちは当番の家で宴会し、立つ日を待ったそうです。蚕影山神社への立ち日待ちの場合は、更に、小豆粥と餅で繭玉を作ったそうです。

帰り日待ちでは、榛名神社の御札を畑に立て、御嶽神社は蔵や玄関に立て、蚕影山神社は床の間に掛け軸を掛け拝んだそうです。

ハケ上の畑、もしかしたらお札があるかもしれないと思い探索しましたが、ありませんでした。迅速測図でも畑ですから、江戸時代から続く畑だと思います。

しかし、お稲荷さんは、嘗ての養蚕が盛んだった頃の痕跡が残ってました。

ハケ途中のお稲荷さん、犬か狐か判断に迷いましたが、尻尾が大きかったので狐と判断しました。お稲荷さんです。ここ大沢では、初午の際、五色の幟で飾り付け、油揚げとメザシを備えて祝ったそうです。養蚕痕跡ですね。

箕輪家でも

道端のお稲荷さんも

本日は初午の数日後。なので、よく残ってましたね。

先を行きましょう、人見の集落です。

ここには人見稲荷神社があります。

人見稲荷神社

ここはその名の通りお稲荷さんで、1597年に周辺の稲荷神社を合祀したそうですが、養蚕という本題から外れますが、非常に興味深い歴史があります。

風土記には大したこと書いてないんですが、北多摩神社誌によれば、

『武蔵国造兄武比命の祀られた社であり、六所宮客来三所之神と称される。寛喜三年武蔵左衛門尉資頼神殿奉行として三所之宮を造営され・・・』

と、あります。

冒頭の、"武蔵国造兄武比命の祀られた" というのがどうやら解釈の分かれる所のようで、"武蔵国造兄武比命祀られた(受け身)" と解釈するなら、先代旧事本紀によれば、131~190年の成務天皇の時代に初代无邪志国造となった兄武比命が、誰かによって祀られた、恐らく131~190年より後の時代ですよね、と、言うことになります。

これが、"武蔵国造兄武比命祀られた(尊敬語)" と解釈するなら、131~190年に、兄武比命自身が何かを祀ったということになります。

では何を祀ったのかと言うと、それが、その後の文言である、"
六所宮客来三所之神" です。

じゃあこの、"六所宮客来三所之神" とは何なのか。

六所宮、つまり、大國魂神社の客来 = 客として来た神 = 三所之神を祀ったということなんですが、じゃあ、"三所之神" とは何なのか。

これは、武蔵国一宮である小野神社の神、倉稲魂神、天下春命、瀬織津姫の三柱のことだというのです。

瀬織津姫を祀る祓戸神社

その後、寛喜三年(1231)に、武蔵左衛門尉資頼、この人は神殿奉行だったんですが、改めて御宮を造営したと。

そうなるとここは4つ目の小野神社ですね。

他にも色々な解釈があるようで、
  1. 兄武比命によって小野神社が創建され、それとは別に、武蔵左衛門尉資頼によって1231年にこの地に勧請された。
  2. 三所之宮は、武蔵国三宮である大宮氷川神社である。
  3. 2については、人見街道を東に行くと大宮八幡神社に至るが、更に行くと~今は道筋がハッキリしませんが~大宮氷川神社に至る。大宮氷川神社は、国府祭の際、大國魂神社に向かう時、ここ人見稲荷神社を御旅所とした。
  4. 三所之宮とは熊野の本宮、新宮、那智のこと
と、何が正解が分かりませんが、武蔵国成立、あるいは武蔵国府がこの地に設定された頃に、何となくルーツがあるような、最も新しかったとしても1231年ですから、非常に歴史深い神社、エリアということになりますね。

さて、養蚕の本題に戻り、稲荷神社ですから、調べると今は初午祭をやってないようですが、嘗ては初午に繭玉団子でも作ったんではないでしょうか。

そのまま浅間山を登り浅間神社を参りましょう。

浅間神社

この山も上記今昔マップ(1896~1909)でお分かりの通り、今は雑木林ですが、一面に桑の木が植えられていたんですね。

いやぁ、本当にスゴイ。

浅間山は立川段丘の独立峰ですから、眺望がよく西への眺望では富士山もよく見えます。

浅間山は3つピークがあって、浅間神社があるピークでは実は富士山は見えません。西のピークからはこのように良く見えます。

だから、浅間神社ということなんだも思いますが、浅間神社の祭神は木花咲耶姫で、火防の神、だけでなく、養蚕の神でもありました。

養蚕盛んなりし頃は、養蚕の無事をお祈りしたのではないでしょうか。

さて、人見村の最後は、養蚕農家の家屋をそのまま活用したカフェに寄りランチとしましょう。

人見稲荷神社参道入口の目の前、おもだか。本日はコロナの影響か臨時休業でランチ頂けず。

その後、甲州道中沿いの稲荷神社を巡りましたが、初午祭をやってる、やってた痕跡も無く、榛名講や御岳講、三峰講の痕跡も無く、今回のexploreはこれにて終了としたいと思います。

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如何でしたでしょうか。

大沢集落の初午の風習が本日のハイライトでした。初午の2/3から3日しか経ってなかったのでよく残ってました。

でも甲州道中沿いの神社には痕跡無し。今昔マップ(1896~1909)を見るとあれだけ盛んだった養蚕ですが、痕跡を探すのは難しいですね。

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