2022年6月4日土曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、義経道

このシリーズの前回は、悲劇の人、稲毛三郎重成道を行きました。

作延城、長尾砦、枡形城、菅寺尾城、小沢城を結ぶ、迅速測図では一本点線徒歩道の尾根道を行きました。

尾根道なので眺望が良く、しかし、アップダウンは激しくて、リエージュ~バストーニュ~リエージュかと思わせる、最後は全く足が残ってませんで、ちょっとした上りも直ぐ諦めて押しでした。

さて今回は、源九郎判官義経道です。

ここ川崎市多摩区、麻生区には、義経伝承が多く残ります。
  1. 1180年の頼朝挙兵を聞いた義経一行が鎌倉に馳せ参じた際の伝承
    1. 二枚橋
    2. 弁慶の鍋転がし
    3. 九郎明神社
  2. 1186年の義経一行が頼朝の追討から逃れる奥州への逃避行の際の伝承
    1. 高石神社
    2. 寿福寺
    3. 指月橋
    4. 子之神社
このように、1180年の奥州から鎌倉の頼朝の下に馳せ参じる際の伝承と、(つくづく真逆ですが)1186年の頼朝の追討からの奥州逃避行の伝承とに分かれていますので、想像力豊かに、ストーリー仕立てで、1180年ルートと1186年ルートに分けてルーティングしてみました。

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津久井道でまずは二枚橋を目指します。

二枚橋

治承4年(1180年), 頼朝旗揚げの声を聞いて、奥州の義経一行がかけつける際、ここを通りかかり、橋が粗末だったので、弁慶たちが馬も通れる橋に作り直したと。

その橋は丸太を並べた上に土を盛ってあり、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えるので二枚橋と名付けられた、という伝承です。

二枚橋で五反田川を渡った義経一行は、そのまま真直ぐに五反田川南の尾根に向かって上っていきます。

尾根に辿り着いたら五反田川の支流の源頭を掠めながら右折(西進), 王禅寺見晴公園の辺りには、弁慶の鍋ころがしの伝承が残ります。

大山方面はこの眺望

弁慶が乗馬のまま急な坂を越える際、馬が足を滑らせ、危うく落馬しかけたが、その時、鞍に繋いであった鍋の紐が切れ、崖下に落ちたと。しかし、鍋が落下したことでバランスが保たれたのか、落馬からは逃れられたという伝承です。

弁慶が鍋を転がした急な崖

確かに王禅寺見晴公園の南側は、半端じゃない急斜面です。

鍋を転がし落馬を逃れた弁慶始め義経一行は、弘法大師が植えたとされる樹齢数百年を超える黒松の名木があった、現在の弘法松公園、この公園内の尾根道が古道ですが、そこを通り、、、

ひっそりと残る古道

弘法松公園

大山方面はこの眺望

山口を通り、、、今はここに山口白山公園があり、この南縁の道は津久井道であり鎌倉街道でもありました。

鎌倉街道・津久井道沿いに移転された山口白山神社

下り切り麻生川の畔に出ます。麻生川を遡って古沢に伸びる麻生川の支流沿いを行くと、ここは、前九年の役で義経の祖先、源頼義・義家親子に仕えた横山党古沢氏の支配地です。ここで一夜を過ごし、一宿一飯の礼として脇差と鉄扇を収めたという伝承があります。

九郎明神社

手厚い歓待を受けたはずです。源頼義・義家の子、義経ですから。

いやぁ、前途洋々ですね。この後、どうなるか知ってるだけに、寂しくなりますが、、、。

一夜明け、義経一行は、道庄坂を越え、片平川を渡河し、鎌倉街道早道に乗って、鎌倉、そして黄瀬川に向かいました―――――

道庄坂

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1180年に頼朝挙兵を聞いて奥州から馳せ参じてから、木曽義仲討伐に向かう1183年までの3年間は、義経は、この辺をウロウロしていていたのではないか、と、言われています。

義経と言えば弁慶ですが、弁慶は熊野水軍の頭領、湛増の子です。

壇ノ浦の戦いで義経が勝った要因の一つが、この熊野水軍が味方したことでした。

また、衣川の戦いまで義経に付き従った忠臣中の忠臣として、鈴木三郎重家、亀井六郎重清の兄弟がいますが、この兄弟は、熊野三党の藤白鈴木氏です。そして、この兄弟はここ麻生郷の出身です。

これらからも分かる通り、義経と熊野の関係は深く、熊野勢が色濃いこの辺をウロウロしていたものと思われます。

―――――鎌倉から、鎌倉街道早道で、義経一行は、麻生郷にウロウロしに来ます。

岡上の小字天神谷戸には山伏が住んでいて、通称山伏谷戸と呼ばれていました。鎌倉時代に熊野から来た武士が修験活動をしていたと言われています。

山伏谷戸の風景

鎌倉街道早道が目の前を通る東光院には、川崎市のまちの樹50選に指定されているイトヒバがありますが、このイトヒバは、義経追討令が出た後、義経勢がこの地に隠れ住んだ時の、義経勢の隠し目印だったという伝承があります。

本堂

山門

イトヒバの巨木

本村橋で鶴見川を渡河し、鶴川街道に出ると、そこには熊野神蔵家の香山園があります。

ご覧のように工事中

鎌倉街道上道の野津田と鎌倉街道中道の川和とを結ぶ鎌倉街道連絡路で上麻生まで行き、常安寺から舌状台地の尾根に向かって上っていきます。

上り切った後、東に行くと、亀井六郎重清の館跡と目される月読神社があります。

月読神社

尾根道に戻って、

この尾根道は義経、亀井六郎重清が通っていた頃のままか

柿生郷土史料館、柿生中学校の辺りは、今は切通されていますが、ここに、鈴木稲荷があります。はい、鈴木三郎重家の鈴木家のお稲荷さんです。屋敷神でしょうか。

残念ながら移設したとのこと、よって参道階段のみ

熊野ですから熊野神社も営んでいました。旧地は、柿生駅前の東和サープラスですが、今は月読神社に合祀されています。

鈴木家の熊野神社

鈴木三郎重家、亀井六郎重清を始めとした熊野勢との交流の為、鎌倉街道早道を使い鎌倉からこの地を訪ね、ウロウロして、平家討伐の策を練っていたんだと想像します。

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1184年に木曽義仲を討ち、1185年にはとうとう平家を滅ぼしますが、同年、義経は、兄頼朝の要請で後白河法皇から追討令を出されてしまい、朝敵となって逃亡生活となります。

京都を出て、九州に向かいますが暴風で難破し摂津に押し戻され、吉野に潜伏しますがここでも静御前が捕まったりして落ち着かず、その後、京都周辺に潜伏しますが、最終的には伊勢、美濃を経て奥州に落ちていきます。

わざわざ頼朝のいる鎌倉の近くを通っていくとも思えませんが、冒頭のように、義経奥州逃避行の伝承も、この地には多く残ります。

―――――義経一行は、イトヒバを目印に、忠臣中の忠臣の熊野勢の力を借りて、ここ麻生郷に潜伏します。

いよいよ奥州への逃避行という時、高石神社に寄ります。にしても津久井道から高石神社までの上りはキツイ。

もちろん乗車は無理で押しですがそれでもほうほうの体でようやく高石神社

ここで厄払いの神事を行いました。


しかしここ高石神社の縁起は無茶苦茶です。。。

"昔、義経が兄の頼朝の命により奥州征伐へ行く折、様々な困難に遭遇することを憂い、高石地内鳥沢に源氏の氏神を祀る八幡神社があると聞いてやってきて厄払の神事を行った。厄を焼き払ったことで、奥州衣川に於いて阿部貞任・宗任を討ち果たし無事鎌倉に帰着 したというもので、以降厄払いの神事が霊験あらたかであることが武蔵・相模のほか 関八州に広く伝わったという。"

義経は兄頼朝の命で奥州に行ったのではありませんね。頼朝の追討から逃れる為、奥州に行ったのです。

また、阿部氏を成敗したのは義経の先祖である頼義・義家親子です。

ということで色々な伝承が混ざり合ってますが、義経の奥州逃避行の伝承と解釈出来ないこともないので一応、訪問しておきました。

さて、厄払いした義経一行は、鎌倉時代創建と言われる細山神明社を通り過ぎ、寿福寺に向かいます。

途中にはこんな古道も残ってました。

寿福寺、北条の三つ鱗がそこかしこに。何故?

ここは義経縁としてもスゴイですが、寺としてもスゴイ歴史を持ってます。

まず、江戸名所図会によれば、推古天皇6年ですから598年にあの聖徳太子による開基といわれています。

所謂仏教伝来が532年、あるいは552年などと言われていますから、その数十年後です。法隆寺の607年よりも早い。日本最古の寺と言われる飛鳥寺でようやく6世紀末だから同時期ということになります。

ここまで来ると逆に疑わしいですが、でも、古寺である可能性は低くないと思います。

というのは、前回ご紹介した菅寺尾廃寺の存在です。この寺が8世紀中葉で、寿福寺の二尾根東という近さなんです。

この地に、大変古くから、仏教が入り込んでいたのは間違い無いでしょう。

話を義経に戻しますと、まず、そもそも、天喜4年(1056年), 源頼義・義家親子が奥州征伐の往路、ここ寿福寺で勝利を祈願し、康平7年(1063年), 凱旋のおり、戦勝の御礼に大般若経を納めたという伝承があります。その際に、元あった天神社に八幡神を祀ったといい、その八幡神社は宅地開発で、寿福寺の裏山に移転しています。

時は流れて文治2年(1186年), 奥州に逃れる義経一行が、先祖頼義・義家親子が収めた大般若経を4巻、写しました。その他、鐙、袈裟が残され、弁慶の隠れ穴、弁慶渡らずの橋、弁慶の足跡石も残っているとのことでしたが見つけられませんでした。

寿福寺を後にした義経一行は、三沢川に架かる指月橋を通りかかります。

指月橋

橋が朽ちていたので、義経は下馬し、この時、ふと、夜空を見上げると満月が輝いていて、思わず指を指しました。

義経、何を思ったでしょうね。長年思い慕っていた兄頼朝の為、平家を滅ぼしたのに、その兄に殺されようとしているわけですから。

義経一行は指月橋を渡った後、崖沿いに南へと行き、菅北浦の子之神社に寄りました。

菅北浦の子之神社

ここは保元の乱で、上皇方源為朝(義朝の兄弟)が、天皇方源義朝に向けて放った鏃が、義朝から子義経に受け継がれ、義経がここに奉納した、という伝承があります。

父義朝から受け継がれた鏃をここに置いていくなんて、源氏に別れを告げた、という感じがしないでもないですね。

この後、義経一行は、矢野口の渡しで多摩川を渡河し、奥州へと向かっていったのでした―――――

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如何でしたでしょうか

この辺りの義経伝承が、奥州から鎌倉の兄頼朝の下へ馳せ参じる時の意気揚々とした伝承と、その真逆に、兄頼朝の義経追討からの逃避行の伝承とに、偶然にも、きれいに分かれていたので、そこに着目して、ストーリー仕立てでルーティング、そして記事作りをしてみました。

それにしても悲しいですな。そりゃ、判官贔屓という言葉も生まれますわ。

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