『八王子から横浜の絹の道をexploreしようと、事前机上exploreはほぼ完了済も、コロナで不要不急の外出に自粛要請が出ている状況で、サイクリング自体は可能と判断するも、八王子となると、ゆっくりexploreを楽しもうとすれば輪行ということになり、自粛範囲に入ってくる。
我が区世田谷でのサイクリングなら、"近所でのジョギング等の軽い運動" に含まれると判断し、世田谷区の養蚕痕跡を巡るexplore, つまり、"絹の道、 世田谷周辺版"を敢行した。』
これは、昨年4/13の投稿の冒頭部分です。
いやぁ、一年経って全く同じことを言わなければならないなんて、想定してませんでした。
絹の道はザックリ言うと八王子から町田を経由して横浜への道ですが、八王子から一山越えて〜因みに、この一山は武相国境尾根でもあるんですが〜町田に出なければならず、そこが山道で、桜の季節が終わってから年末くらいまでは藪と蚊で不快だし、何と言っても落ち葉の絨毯を行くのが楽しいので、事前机上exploreだけ済ませ、準備万端での、"冬待ち" だったんですが、コロナになり、更に一年待って、"finally" とばかり勇んだものの、"again" ということになってしまいました。
と、言うことで今回も輪行無しご近所explore, 深大寺の養蚕痕跡を巡るexploreに出発です。
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深大寺最大のイベントは、毎年3/3, 4に開かれる厄除元三大師大祭です。
深大寺は1646年にその殆どが焼け落ちたという火災に遭いますが、元三大師の像だけは火難を免たということがあり、この霊験が、七転び八起きのだるま信仰と習合し、だるま市が開かれるようになりました。
さて、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、この脱皮のことを、"起きる" といいます。
この、"起きる" と、だるまの七転び八起きが習合し、養蚕農家は、だるまを大切な守り神として祀ってきたのです。
地図をご覧下さい。赤ポリゴン、赤ポイントが、1896年の今昔マップで桑畑が確認できたエリアです。
深大寺周辺もこれまでご紹介してきた世田谷区、杉並区、狛江市に負けず劣らず、養蚕が盛んでした。農家の7, 8割は兼業していたそうです。
だから深大寺のだるま市は、深大寺周辺の養蚕農家にとっても、とても重要なイベントだったんです。
深大寺は野川の支流の底に位置し、支流が削った崖を背にしていますから、湧水が豊富です。
その湧水で水車が回され、様々に活用されましたが、生糸の糸巻きにも使われたそうです。
青渭神社の支流と深大寺の支流の間の台地を南へ行くと国分寺崖線を駆け下り佐須エリアとなりますが、少し東に行き昇華学園の西脇、国分寺崖線の途中に、虎狛神社の境外社、里の稲荷神社があります。
ここでは初午祭を執り行っており、繭玉に見立てた団子を作って養蚕の無事を祈る風習が今尚残っています。
初午団子をたくさん振る舞うと、繭から毛羽をとる、"繭かき" 作業が賑やかになって良いと言われ、たくさん作り、余ったものは近所に配る風習もありました。
と、言うことでここ里の稲荷神社は深大寺エリアの養蚕痕跡なわけですが、そもそも、初午と養蚕の関係は?, という疑問が残ると思います。
これについては、詳しく、本シリーズのその1で説明していますので、ここにコピー&ペーストしたいと思います。ご参照頂ければと思いますが、本記事でも簡単に説明したいと思います。
馬は養蚕と強い関係があります。
- 中国の捜神記(東晋時代、317~420年)では、
父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が、飼い馬に、冗談で、父を連れて帰ってきたらお前の嫁になると言った。すると馬は家を飛び出し父親を連れて帰ってきた。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聞き、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。娘も庭に出て馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。 - 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われる、オシラ様伝説では、
昔、ある百姓が娘と二人で住んでいた。娘は飼い馬を愛して夜毎厩舎に行って寝ていたが、ついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。それを知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様子を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその像を作るのだそう。このオシラ様伝説には続きがあって、1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕であるというものと、もう1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫(蚕)がわいていて、桑の葉で育てた。 - 馬鳴菩薩は、
中国の民間信仰に由来し、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされ、そこから、養蚕守護・機織りの神仏とされました。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂の菩薩が、糸枠、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものを手に持った姿です。
と、言うことで、馬が養蚕守護として祀られるようになっていったのです。
稲荷神社の本社は伏見稲荷ですが、鎮座は和銅4年(711)2月の初午の日です。
だから全国の稲荷神社は2月の初午の日に初午祭を執り行います。
と、言うことで、稲荷神社の大祭である2月の初午祭に、養蚕守護をお祈りすることになっていったのです。
因みに2021年今年は、新暦で2/23となりますね。
と、言うことで、稲荷神社が養蚕痕跡であることが分かりましたので、このエリアの稲荷神社で、且つ、初午祭を執り行っている神社を巡ってみましょう。
柴崎稲荷神社です。
写真の通り、先程の里の稲荷神社同様、国分寺崖線にありますね。
境内がとても広く、それもそのはず、風土記によれば三開寺という羽黒修験の寺があったそうです。
さて、本日のハイライトがここにはありました。
この柴崎稲荷神社の氏子エリアには、まだ、榛名講が残っているようですね。
群馬県の榛名山にある榛名神社は、特に雹よけ、嵐よけの神として信仰を集めてきました。
蚕のエサは桑ですが、桑の順調な生育には、安定した天候が欠かせません。そういったことから、養蚕農家の間で、榛名信仰が広がり、講が作られたのです。
初午祭も合わせ、決定的な養蚕痕跡と言えるでしょう。
次は中嶋神社です。
中嶋神社 |
近隣にあった2つの稲荷神社をここに環座し相殿としています。初午祭あります。
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如何でしたでしょうか。
もう何度も訪れている所ですが、新たなテーマで、新鮮に、explorer出来ました。暫くはこのノリで行くしかありませんね。。。
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