武相国境シリーズが完結したので、三浦半島の古代東海道シリーズを再開します。
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三浦半島の古代東海道は、幾つかルートが考えられます。
前回は、朝比奈切通しを通る六浦ルートを行きました。
六浦ルートは、朝比奈切通し開削以降は間違い無く、鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったんですが、それまでについてはハッキリしていません。
十二所までは、杉本寺など、奈良平安期の寺社があり、可能性は高いと思わせますが、十二所以降は、奈良平安期の寺社が全く確認出来ません。
確かに、鎌倉郡衙から切通しまではずっと川で、峠を越えたら入江という地形は可能性を高めます。実走した感想としても、峠までは高低差はそこまで激しくありませんでした。これで、船越とか曳船とかの地名があれば完璧、、、と、言いたいところですが、切通しは相当な高さがあったことも事実ですね。切通し前に、あそこを"船越"するのはかなり難しいように思います。総合的に、"まぁ、無いことは無い。"、という程度でしょうか。
そんな中、ネットで色々調べてたら、私が信頼するサイトで、このような記述を見つけました。
"・・・斬られたのは上総介平広常で広常の屋敷はここから少し先の朝比奈切通への分岐を直進した七曲谷戸と呼ばれる平地にあったと伝えます。その屋敷跡から山越えの道を七曲坂といい、七曲坂は朝比奈切通が開削される以前の六浦への旧道とも考えられている道なのです。"
と、朝比奈切通し開削以前のルートがあるようなんです。
古地図を見てみましょう。まず、谷戸が確認できます。"水"の文字もあることから水田があったんですね。その谷戸に徒歩小径(1本点線)が描かれてます。この道は東京湾と相模湾の分水嶺尾根に接続しています。また、その道からの分岐も2本ありますね。更に尾根のルートもあるようです。
明治13年頃の古地図、七曲谷戸 |
現代の道と合わせてみましょう。
電子国土での七曲谷戸 |
谷戸の道は本線と2本の分岐全て残ってますが、尾根道は消失しているようです。
しかし、鎌倉から六浦を結ぶ道として考えると、六浦ルートは、
明治13年古地図、六浦ルート |
十二所でグイっと北に行き、弧を描くように十二所の真東の位置まで下りて来てます。
朝比奈切り通しには行かず、七曲の古道を行くとすると、グイッと北に行った後ですから、一旦北に行ったのをまた南に戻るような感じがして不自然ですね。
だったら相模国の鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根の方が自然なような気がします。調べると、中世から続く生活道で、現在はやまなみルートと呼ばれ、ハイキング道として存続しているようです。
古代東海道シリーズ、三浦半島の古代東海道、今回はこのやまなみルートを行きたいと思います。
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古地図、七曲坂 |
だったら相模国の鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根の方が自然なような気がします。調べると、中世から続く生活道で、現在はやまなみルートと呼ばれ、ハイキング道として存続しているようです。
古地図、やまなみルート |
古代東海道シリーズ、三浦半島の古代東海道、今回はこのやまなみルートを行きたいと思います。
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小田急で藤沢まで、東海道線に乗り換え大船へ、横須賀線に乗り換え鎌倉まで輪行です。
前回六浦ルートでは訪れなかった奈良平安期の寺社を巡ります。
まずは参道の石畳が美しい寿福寺です。開山は1200年と鎌倉期ですが、ここは頼朝の父、義朝の居館があった地。平安期には既に開かれていた地ということになり、寿福寺前の道である六浦ルートも、少なくとも平安期には既にあったということになります。
岩窟不動尊 |
鶴岡八幡宮を通り過ぎ次は荏柄天神社です。荏柄天神社は、1104年社殿創建の言い伝えがあります。
荏柄天神社 |
次は鎌足稲荷に行かなきゃならないんですが、忘れてしまいました。この道、狭くて車からのプレッシャがきついですよね。ついつい先を急いでしまいます。
と、言うことで十二所に到着です。明石橋のミニストップで握り飯補充し、やまなみルート取り付きを目指します。
明治13年頃の古地図、十二所の取り付き部分。尾根を通る村道(1本点線1本実線)の取り付きを探したが・・・ |
しかし、村道の取り付きは見つからず、相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境から取り付きます。ここは清寿苑脇です。
さぁ、ここからはパラダイスでした。乗車率30%程でしたが、久々の山サイは楽しかったです。写真をどうぞ。
今日は山メインなのでSIRRUSです。私のSIRRUSは2005年モデルなのでMTBベース。タイヤをシクロクロス用に履き替えれば29erに早変わりするんです。 |
切り通し |
で、ここが先ほどの村道とやまなみルートの接続部分。現代の地図には何も描かれてないんですが、
現代地図 |
何やら古地図通りに掘割道が付いてます。
掘割道 |
軽い藪漕ぎで、、、 |
きれいな掘割道が続いてました。流石、村道!!!
どうですか。明治13年には皆ここを通ってたんですよ。いやぁ、感慨深い。この先少し進んでみましたが、続いてました。ミニストップまで行けるかもしれません。
きれいな掘割の村道!!! |
さて、このやまなみルートは相模国鎌倉郡と三浦郡の郡境尾根を行くんですが、この尾根が米軍池子住宅との境界でもあるんです。なので、こんな感じで道は付いています。
鉄線 |
壁バージョン |
それでも落ち葉フカフカのシングルトラックは快適でした。
掘割状 |
笹トンネル |
米軍に接収される前の海軍弾薬庫の扉だそうです。 |
足元を見ると紅葉の落ち葉が。見上げるとそこにまだ紅葉が。 |
切り通し |
程無く果樹園に着き、見晴らし台に寄ったところ、これが絶景でした。
富士山とSIRRUS |
富士山と三浦半島のやまなみ、これ、絶景でした。スマホなんで広角だから伝わるかな・・・ |
ここでランチ。贅沢なランチでした。 |
ランチ大休止の後、先に進み、相模湾と東京湾の分水嶺尾根に到着、北上し、七曲谷戸からの道を探しますがこの状況。見つかりませんでした。
この正面にあるはずなんですが・・・ |
諦めてやまなみルートに戻り、横横を渡って住宅地に入ります。Time Travelから帰還です。帰りは金沢八景から京急蒲田まで輪行で帰りました。
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いやぁ、久し振りの山サイ、最高でした。
道はほぼシングルトラックで、ただでさえ細尾根のところに、米軍池子住宅の鉄線やら壁やらがあるので狭いんですね。で、片面が崖ですから危ないんです。なので乗車率は30%程度だと思いますが、でも、楽しかったです。
見晴らし台の絶景、村道が見つけられたのも良かったです。
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で、肝心のテーマ、"この道が古代東海道だったのか"についてですが、まず、細尾根でとても幅10m (古代官道の平均的な道幅)の道は通せませんから、それは無いんだと思いました。
次に、このやまなみルートは、朝比奈切通開削以前の鎌倉と六浦湊を結ぶ道ということなんですが、この変遷を整理すると、以下のようになります。
- 朝比奈切り通し開削以前: やまなみルート、相模国鎌倉郡と三浦郡郡境尾根を通るルート
- 朝比奈切り通し開削以降、瀬戸橋架橋以前: 六浦ルート、朝比奈切り通し、白山道を通るルート
- 瀬戸橋開削以降: 六浦ルート、朝比奈切り通し、瀬戸橋を通るルート
この瀬戸橋が架かったから、瀬戸橋の向こうに行くことができるようになった、だから瀬戸橋の向こうがGoal = 六浦湊ということになり、瀬戸橋の右のマーカがそれです。
瀬戸内海 |
で、紫ラインなんですが、これは当時の海岸線なんです。紫ラインの内側が入江だったんですね、この時代。その名も"瀬戸内海"です。画面左にあるマーカが朝比奈切り通しですが、ここから六浦湊に行く為には、瀬戸内海があるので大回りしなければならず、それが白山道(朝比奈切り通しの少し先で北に折れ瀬戸内海を大回りしているブルーライン)だったということになります。これが変遷の項番2の状況。
で、瀬戸橋が架かったので、ショートカットできるようになったわけです(朝比奈切り通しからそのまま東に行くブルーライン)。項番3です。
この変遷を考えた時に、更にその前であるやまなみルートの時代は当然大回りしなければならないわけです。そうなると、合理的なのは尾根を越えて白山道に接続することだと思われます。
が、これはなんだか不自然なような気がします。クイっと北に行かなければならないので。六浦湊ではなく、ただ単に六浦に行く為、つまり生活道だったら、北にクイっと行く必要が無いのであり得ると思いますが。なので、やはり、やまなみルートは中世の、よしんばそれ以前だとしても、官道ではなく生活道だったのだと思います。
更に、上図の薄緑ラインは武相国境なんです。そうなんです、六浦湊は武蔵国なんですね。東海道ですから、東海道に属す相模国からやはり東海道に属す上総国に行かなければならない。東山道に属す武蔵国は経由してはならないのです。やはり、六浦ルート、やまなみルートは、古代東海道ではないということになりそうです。
ま、武相国境がその当時もココなら、という前提ですが。
それにしてもここが入江だと、相当な良港ですね。また、六浦湊に真っ直ぐ続く道の先、少し高地で大水となっても安心な場所にあるのが称名寺です。ただのお寺ではなさそうですね。
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