2022年1月29日土曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る

最初はそうだとは思っておらず、純粋に、道としての古甲州道をexploreするつもりだったんですが、実走してみると、古甲州道は、武蔵七党の一つ、西党の道でした。

この学びを元に、以前、exploreした小野路道を振り返ってみると、小野路道は横山党の道でした。

西党、横山党と来たら、次は村山党です。

村山党の根拠地は、ここの所、通っている狭山丘陵周辺です。

狭山丘陵の周りには、当主村山氏、宮寺氏、山口氏がおり、少し離れた所に、大井氏、金子氏がいます。

今回は、村山氏、宮寺氏、山口氏の痕跡をexploreします。


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いつもの通り、多摩湖自転車歩行者道で多摩湖まで。

多摩湖自転車歩行者道

武蔵大和駅西交差点を左折し、村山氏根拠地を目指します。勿論旧道側を選んで。

10km程で、阿豆佐味天神社に到着です。

阿豆佐味天神社

東京都神社庁によると、892年、上総介高望王の創建、式内社でもある古社です。享保年間(1716~36年)には、当地方の豪族村山土佐守により、社殿の修復が行われたと言います。

しかし風土記には、

"文明十四年(1483年)村山土佐守、同雅楽助及一族等土木の費を供して、社檀を再修せしこと見ゆ"

とあるし、江戸時代ということはないだろうから、風土記の年代の方が正しいのでしょう。尚、村山土佐守とは村山義光です。

はい、ということで、村山党村山氏所縁の神社ということになります。

先を行きます。福正寺です。

福正寺

この辺りは、"殿ヶ谷" という地名です。

鎌倉期の、谷戸を利用した城の形式を、"殿谷戸形式" と言いますが、谷戸のどん突きに居館を置き、背後の尾根に詰め城を置く形式で、左右と背後は尾根に囲まれ防御性に富むというものです。

ですので、鎌倉期の城があったのではないか、村山党村山氏の城があったのではないかと推定されています。

これって土塁じゃないですかね

南側の眺望、今は住宅がびっしりですが、迅速測図でもここは荒野。往時も言わずもがなですから多摩川まで見えたでしょう。

【村山党系図】

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)
 ー大井五郎大夫家綱
 ー宮寺五郎家平
 ー金子六郎家範
 ー山口七郎家継

※村山義光へと続く系図は見つかりませんでした。

阿豆佐味天神社の縁起に出てきた高望王は村山党の祖ですね。だからでしょうか、ここに城を構えたのは。

先を行きましょう、円福寺です・・・・・行き忘れました!!!
以下、事前机上exploreから、です。

寺伝によれば、1573年、村山土佐守義光が梅室慶香禅師を開山とし開創したとのことですが、東京神社庁、風土記のどれとも時代が合いませんね、、、。

が、村山氏は最終的には後北条氏についたとされていますので、義光かどうかは分かりませんが、この地の領主村山氏は続いていて、円福寺開創に深く関わったのでしょう。

西党は秀吉の小田原征伐までさしたる問題も無く続きましたが、横山党は、和田合戦で和田方に付き滅亡しました。

村山党も、1368年の武蔵平一揆では、一揆側につき、敗れた為、没落しました。

しかし、滅亡までは行かず、この後は、関東管領山内上杉氏、その守護代大石氏につき、後北条氏が覇権を握ると後北条氏についたようです。いや、西党と全く同じですね。

さて、福正寺に戻ります。

福正寺は東西二つの谷戸に囲まれた尾根南端にあります。だから殿谷戸形式で言えば詰め城の位置ですが、背後からそのまま六道公園に続く尾根道があります。

宮寺五郎家平のいる狭山丘陵の向こう側に行くには、当時は恐らくこのルートか、あるいはその西隣の川越道を行ったものと思われます。今回は、福正寺裏尾根道を行きます・・・・・と、思ってましたが、実際行ってみるとどうも無理そう。川越道を行きます。

舗装路でしたが良い道でした。

いつもの庚申塔のある六道の辻から狭山湖外周道路グラベルを行きます。

六道の辻の庚申塔

川越道はココから入りますがチャリ禁止、

川越道入口

そのままグラベルを行き、比良の丘から、宮寺五郎家平の居館跡、西勝院を訪れます。

西勝院

ここには土塁が残っていますが、宮寺五郎家平の時代ではなく、加納下野守の時代のものと言われています。

土塁、地上から

土塁、上に乗って

加納下野守は、1333年に、ここに入ったと言われていますから、宮寺氏は、1333年の元弘の乱か、あるいはその前の戦いで討死したかもしれません。系図でも、宮寺五郎家平以降は記述されてませんし。

宮寺五郎家平時代の痕跡として唯一と言えそうなのが、清泰寺の薬師如来坐像です。西勝院が大御堂にあった頃、西勝院に祀られていたものです。平安期のものと言われてますから、宮寺五郎家平も拝んだと思われます。

まさか見れるとは思ってなかったので大変嬉しかったです。宮寺五郎家平と同じ仏様を拝ん出るんですね、私は。

次は山口七郎家継の城跡に向かいます。

ルートは4つありそうです。
  • 1つは糀谷八幡神社の西の尾根道を南下し狭山湖外周道路の尾根道を越え柳瀬川に降り柳瀬川沿いの山口道を行くルート
  • 2つ目は1つ目のルートを柳瀬川まで下りずに、狭山湖外周道路の尾根道を行くルート
  • 3つ目は丘陵に上がらず丘陵裾を東進し、三ケ島中氷川神社、金仙寺脇を通り丘陵に上がって、柳瀬川に降り山口道を行くルート
  • 4つ目は3のルートで柳瀬川まで降りずに尾根を行くルート
3, 4ルートの東にも尾根に上がり山口道に降りる道はあるんですが、山口氏築城の根古屋城を通らないので、恐らくは上記4つだと思われます。

1, 2はチャリ禁止ですから、今回は4を行きます。3はダムの底です。

狭山湖外周道路を終え、山口中氷川神社です。

山口中氷川神社、東向きなんですね。大宮の氷川神社でしょうか。

寺伝によれば、崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く、又、入間・多摩二郡にまたがる九十二ヶ村の総鎮守とし、山口城主にも尊崇され、「氷川様」と親しまれてきました。

とのことです。山口七郎家継の痕跡ですね。

先を行くと、痕跡中の痕跡、山口城跡があります。

碑と土塁

こちらは線路脇の土塁

山口高清の代に武蔵平一揆で河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城、その後永徳3年(1383年), 南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた、とのことです。

最後に、瑞岩寺です。

瑞岩寺

山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられます。

先程の山口高実の墓があります。

山口氏の墓が本堂西側に三基あり、向かって左側の塔には、「帰実禅門永徳三癸亥六月十三日」と彫られており、この寺にある山口高実の位牌と一致していることから、山口高実の墓と言われます。

山口高実の墓

村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー家俊ー(数代略)ー高実ー高清ー高治

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如何でしたでしょうか。

残ってましたね、痕跡が。

西党は上手く切り抜け、横山党は和田合戦で滅亡し、村山党は武蔵平一揆で没落するもなんとか復活し、西党と同じく、関東管領山内上杉謙信、その目代大石氏、覇者後北条氏と主君を変えながら、どうにかこうにか、生き長らえてきたんですね。

2022年1月17日月曜日

小野路道、その5, 八王子~横山村~町田街道

924年に武蔵守となった小野孝(隆、以降、"孝" で通す。)泰は、任期は4年ですから928年に、武蔵国府付近の小野郷に土着します。

当時の多摩川・浅川両河川の流路はGoogleMapsの通りで、北から、まず、古多摩川の河岸段丘上に武蔵国府、次に古多摩川、で、実は現在の多摩川は古浅川の流路だったんですが、古多摩川と古浅川の間、つまり、"河原" に府中市小野神社があります。ここは、"河原" ですから氾濫地です。一見陸地に見えても一度大雨が降れば川になる所です。ここに府中市小野神社があるわけです。で、主祭神は瀬織津姫、水の神です。さもありなん、ですね。



古浅川の南に大栗川が合流しています。この大栗川の谷戸を活用し小野牧を整備し、小野牧を管理するこの地に小野郷の中心を置き、小野神社を創建したものと思われます。落川は牧の西側の柵の名残かもしれません(GoogleMaps赤太線)。

その後、小野(横山)氏は、この大栗川沿いに進出していきました。

堀ノ内、下柚木、中山の各村の支流を遡り、大栗川と浅川の間の尾根を越えて、今の八王子駅周辺に進出していったのです。連光寺の支流を遡って、大栗川と乞田川の間の尾根を越えて小野路にも進出しています。

そして、924年ですから武蔵守着任の年ですが、八王子駅周辺に八幡八雲神社を創建しています。927年には小野路に小野神社を創建しています。

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古甲州道シリーズの日野の回でご紹介した、936年に武蔵国府の任期を終えた日奉宗頼は、武蔵国府から見て大栗川の次に位置する浅川沿いに進出し、しかし、長沼より先は小野(横山)氏が存在してましたから、それより上流には行かず、浅川の次の秋川沿いに鎌倉街道を使って移動し、秋川最上流の檜原村まで進出しています。先輩に配慮したのでしょうか。

東京都日野市の日の宮、西党の根拠地
。2021/5/29撮影。

ですから日奉宗頼の西党は浅川・秋川より北、小野孝(隆)泰の横山党はそれより南と棲み分けていたように思います。

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八王子駅周辺に進出した小野(横山)氏は、湯殿川、山田川沿いに進出していったようです。

と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党の痕跡を辿るexploreしたいと思いますが、横山党は1213年の和田合戦で滅亡していますから、痕跡を探すのが難しいです。

が、和田合戦後、その領地を引き継いだのが大江・長井氏ですから、大江・長井氏の痕跡を辿れば、それはイコール横山党の痕跡ということになります。

と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党、大江・長井氏の痕跡を辿るexploreをしたいと思います。

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京王高尾線、京王片倉駅まで輪行。まずは片倉城に向かいます。

片倉城、湯殿川から望む

東京都によれば、

"『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(1394-1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。"

と、ありますが、大江・長井氏築城ならここは横山党のエリアということになります。

個人的には、この鎌倉街道を南下すると横山党相原(藍原、粟飯原)氏の支配地に至りますので、元々は横山党の城だったと思います。

相原の清水寺、相原氏館跡

小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー相原時重

先を行きましょう、斟珠寺です。

斟珠寺

八王子市史によれば、本尊は地蔵菩薩で大江広房内室に縁があるということです。

大江広元(鎌倉幕府政所別当)ー時弘(評定衆)ー泰秀(評定衆)ー時秀(評定衆)ー宗秀(評定衆)ー広秀(大善大夫)ー広房(入道道弘)

次に広園寺を訪れます。

広園寺、仏殿。立派なお寺でした。地紋は一に三つ星、大江・長井氏の家紋です。

寺伝によれば、1389年に、大江師親による開創ということです。片倉城と同じですね。風土記からの採用だと思われます。

が、この大江師親、系図に見つかりません。

一方、その子の長井道広という説もあり、道広は広房の別名です。広房の父は広秀なので、師親 = 広秀、あるいは道広 = 広房の開創ということになります。他に師親 = 広秀開創という記事もあるので、この親子のどちらか、あるいは両方による開創でしょう。

長井広房は1380年頃、米沢城を追われていますので、その後、この地に戻ってきたのかもしれません。

先を行きましょう、真覚寺です。

真覚寺

津久井城主長山忠良が開基ということですが、長山ではなく長井の間違いと言われています。

と、いうことで長井氏関連と思いましたが、この長井忠良という人物が系図に見つかりません。

なので津久井城主の方を調べると、津久井三郎親直という人物がヒットしました。wikiでは、大江氏の津久井氏という言い方がされていますし、"親" は先の大江師親との通字ですから、何らかの関係があるかもしれません。

先を行きましょう、龍見寺です。

龍見寺の大日堂

慶長年間ですから1596〜1614年に開創ということですが、境内にある大日堂の大日如来坐像は、寺伝よれば横山経兼が前九年の役で源頼義に従い奥州を攻めた時、戦勝記念に湯殿山から持ち帰ったと伝わるもので、湯殿川の名前の由来となっているということでした。

ようやく、大江・長井氏ではなく本命横山党の伝承に当たりました。

ここは横山党の館跡という話もあります。"館", "殿入" という地名からして頷けます。

先を行きます。御霊神社と浄泉寺です。

御霊神社

何故ここに鎌倉権五郎景正を祀る御霊神社が???

1079年、横山党と鎌倉党は領地争いをしています。また、1113年、横山党は愛甲氏を攻め立て、鎌倉権五郎景正を含む軍と戦ってもいます。このどちらかの時、このエリアが鎌倉権五郎景正の領地になったのだと思います。これは正に横山党の痕跡ですね。

先を行きましょう、高乗寺、初沢城です。

高乗寺

寺伝によれば、1394年に長井大膳大夫高乗が開基とのことですが、この長井高乗が系図に見つかりません。

しかし、大膳大夫となると広秀になりますし、片倉城の伝承に、応安年間ですから1368〜75年に長井広秀により築城というものもあるのでこの話との整合性は確保されているようです。

次に初沢城です。

高乗寺境内から初沢城がある山を撮影

初沢城は初代は横山党椚田氏による築城とも言われています。

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通常であればこの後は町田街道 = 鎌倉街道山の道の恋路峠を越えて相模国・町田街道に行くのですが、今回は少し戻って、、、

横山党も畠山重忠も通った鎌倉街道山の道を戻ります。

湯殿川が寺田方面へ別れた支流を遡り、そのまま湯殿川と境川の間の尾根(武相国境 = 東京湾と相模湾の分水嶺)を越えて、土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由し相模国・町田街道に出るルートを行きます。

武相国境尾根を越えます。武蔵国から相模国へ。

パーフェクトな尾根道

武相国境尾根上にある大戸山王社、ここは眺望が良いです。

何故か

私は、このルートは、甲州街道の一(いち)ルートだったのではないかと、思ってるんです。

土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由して町田街道に出たら、大戸ー草戸峠ー梅ノ木平ー案内ー大平からは南に案内川の支流沿いに入っていき、武蔵越から赤馬に下っていく道筋です。赤馬からは千木良、小原へと続き甲州街道に接続します。

大戸観音堂

(草戸峠までは、もう2つ、ルートがありそうです。1つは、龍見寺をそのまま南西へ。館町清掃工場から権現谷を経て武相国境尾根を草戸峠まで。もう1つは初沢城から初沢を遡り梅の木平へ出るルートです。)

先の山王社は、物見の場所だったのではないでしょうか。あの眺望ですから。1079年の鎌倉党との領地争い、1113年の横山党征伐の時に活用されたでしょう。

また、このルートは、裏甲州道、あるいは高尾山参詣道と言われていた模様です。

もう一つのルートは勿論小仏峠越えですが、上野原(古郡)には、横山党古郡氏がいましたから、これらルートは、横山党が行き来する道だったと思われます。

小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー古郡忠重

和田合戦の最後、横山党党首時兼は古郡に逃げ落ちますが、最後は古郡で自害します。このルートを行った可能性もあります。

正にこの横山党にとって重要な甲州街道を監視、守る役割が小松城だと思います。

龍籠山金毘羅神社から神奈川県道48号に出る尾根トレイル、龍籠山金毘羅神社への参道ですね。この写真は向きが逆ですが。

小松城

小松城は長井大善大夫広秀の築城と言われてますが、上記理由から、横山党の築城の可能性もあると思います。殿ヶ谷形式であることもそれを後押しします。

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如何でしたでしょうか。

横山党が、多摩市小野神社周辺の小野郷から大栗川を遡って八王子駅周辺に進出後、湯殿川を遡って勢力を拡大していった痕跡を辿ってみました。

痕跡が残ってましたね。

2022年1月5日水曜日

小野路道、その4, 小野牧

久し振りの小野路道シリーズです。

古甲州道シリーズ番外編 西党、横山党、大石氏で、西党由井氏が別当を務めたと言われる由比牧をご紹介しました。

由比牧は、大沢川の作った谷 = 谷戸を活用していたと思われます。

谷戸の奥はどん詰まり、左右は山ですから三方は柵が無くとも既に囲まれている状態を作れるからです。あとは大沢川の谷戸の出口に堀と土塁を設け柵とするだけとなりますが、その名残が野堀川と言われています。

大沢川の谷戸を真中に配置しました。御覧の通り、谷戸奥(左側)はどん詰まり、両サイドは山なので、大沢川出口(右)のみ柵で塞げば良い地形です。そこに土塁と堀が柵として設けられ、それが野堀川(青線)ということです。それにしても、野堀川はお誂え向きの場所にありますね。

武蔵国の牧と言えば、由比牧以外では、小野牧、秩父牧、石川牧、立野牧、小川牧ですが、秩父牧は遠い、石川牧と立野牧は比定地がはっきりしません。小川牧はもう2回(1, 2)行ってしまったのと、比定地としてハッキリしている割に地名や寺社の伝承等に痕跡が無いんですよね。

一方、小野牧は近場だし、前回取り上げた横山党が別当だった牧。以前、小野路道シリーズで走ってますが、2022の走り初めとしてはちょうど良いですか、ね。

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京王線北野駅まで輪行、逆方向に少し行って北野天満宮を訪れます。

実は行き忘れて過去picです。2017/12

東京都神社名鑑によれば、横山党の一族が京都北野天満宮をこの地に勧請したと言います。

駅に戻り南口を出て湯殿川を渡りローソンの裏に回っている小道を行きますがこの道が今は何てことない道ですが嘗ては重要な道でした。

歴史的農業環境閲覧システムより、画面上の鳥居マークが北野天満宮です。黄色ピンが絹の道との分岐で、打越弁財天(池がある所)を経由し、(見切れてますが)絹の道へと繋がってます。濃紫線が現在の野猿街道(薄紫線)の1つ前の野猿街道、青線が最も古い野猿街道です。このように、この小道は八王子から大栗川に抜ける尾根越えの重要な道だったんですね。

今日は最も古い野猿街道を行きます。湯殿川支流に沿って遡上し、どん突き手前で尾根に上がりまして、絹ヶ丘、北野台の間を抜け、中山白山神社に到着です。

中山白山神社

1826年に社殿裏の経塚から出土した1154年銘の経典10巻の奥書に、"武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊" と、書かれており、平安時代に比叡山西搭の僧、武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であるという伝承が証明されました。

横山党が闊歩していた時期です。

また、この奥書には、"小野氏人等" という記載もあり、小野氏 = 横山党の庇護を受けていたことも分かります。ほら、やっぱり、そうでした。

中山白山神社からは、横山党も通ったであろう一本点線の徒歩道を南東に下って、その後は、ちょっと寄り道して大栗川支流が作った谷戸と尾根の古道を楽しみます。

中山白山神社は画面左の鳥居マーク、マークから真下に行くのは参道、南東に行くのが一本点線の平安古道。歴史的農業環境閲覧システムより

もしかしたら平安まで遡れる一本徒歩道古道

まずは濃青線、中山白山神社下、永昌院のある谷戸です。

谷戸の風景

次に薄青線、ひな鳥山、多摩シルバーハウスがある谷戸です。

谷戸の風景、谷戸どん突きを上り詰めた所から振り返っての眺望

次は黒線、大学セミナーハウスから尾根に乗ります。この道も古い野猿街道だったといいう話を聞いたことがあります。確かに、特に戦の時は尾根の方が安全ですね。

丹沢山系、富士山の眺望

トレイル

尾根から降り立ったら、先日訪れた永林寺西の一本点線徒歩道で北に抜け、、、

永林寺、2021/12/11撮影

由木城址、由木氏は西党と横山党があり、どちらも、あるいはどちらかがここに由木城を築城しています。その後、写真銅像(右)の大石氏も由木城に居住しています。2021/12/11撮影

峠越え

、、、こちらも先日通ったんですが堀ノ内の谷戸道(オレンジ線)に入っていきます。

日陰は昼近くになっても霜が融けません。

野猿街道に復帰したら旧道側を選んで小野神社に向かいますが、途中、清鏡寺に寄ります。

清鏡寺

ここの大塚御手観音は、1213年に法印となった慶派の仏師湛慶によって彫られた仏様との伝承があります。

大塚御手観音堂

横山党がこの地を闊歩していた頃に存在していたお寺ということになります。

今日一はこれでした。寺紋は基本、再興した北条氏照に因んで後北条の三つ鱗なんですが(2つ上の写真をタップし写真選択した後、ピンチアウトして屋根上の寺紋をご確認下さい。), 窓の寺紋は丸に卍。横山党の家紋です。開創の時期からしても元々は横山党の庇護下にあったんだと思います。

先を行きます、もう何度も訪問してますが改めて、多摩市小野神社です。

多摩市小野神社

社伝によれば、BC531創建、主祭神は天下春命、武蔵国一之宮。一之宮であることは南北朝期に書かれた神道集にも書かれています。

しかし謎が多い神社です。

まず主祭神が天下春命であること。天下春命は知々夫国造の祖神です。

何故、秩父???, と、思いますよね。この地で秩父の神様天下春命が祀られる合理的理由は、600年代後半に无邪志国造と知々夫国造が合併し武蔵国が成立したという一点しか無いでしょう。逆に言えば、天下春命が主祭神となったのは、600年代後半の武蔵国成立以降、更に言えば、今の位置に国府が置かれた700年前半以降ということになりそうです。

もう1つ。小野神社が多摩市と府中市の両方にあるという点です。

しかし、社伝にも書いてありますが、鎌倉時代に書かれた吾妻鏡に、"多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺" と書かれていて、連光寺と一宮は、"・" で繋げられる一体の土地、つまり一宮は連光寺に隣接していると考えることが出来、一宮とは神道集にあるように小野神社のことですから、少なくとも鎌倉時代、南北朝期の小野神社とは、即ち、多摩市小野神社であると考えられます。

加えて、多摩市小野神社の西数百メートルの位置にある落川遺跡です。

落川遺跡

東京都によれば、

"800軒以上の竪穴建物跡、300軒以上の掘立柱建物跡、2400基以上の土坑、溝、井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等の遺構が検出されています。豊富な墨書土器、輸入磁器、農耕具や馬具などの武具などや、焼印(文字「土」)や和銅7年(714)銘のある石製紡錘車が出土しています。遺跡は古墳時代前期から中世前期まで途切れることなく生活が営まれた痕跡があります。このことは、多摩丘陵開発や多摩川対岸の武蔵国府・国分寺との関係、東方約300mに鎮座する小野神社を中心とする小野郷や小野牧との関係が推定されます。"

ということですから、BC531はアレとしても、古墳時代前期ですから3世紀後半から4世紀にかけて、この地にとある集団が住み始め、後に多摩市小野神社を中心とした小野郷が成立していったと推測できるのです。

元々は異なる神だったと思いますが、700年頃、武蔵国が成立すると、知々夫国造の祖神天下春命が主祭神となったのかもしれません。

そして、鎌倉時代、南北朝期には、武蔵国一之宮の位置付けでした。

さて、小野牧です。

小野牧は陽成上皇、あるいは清和天皇の院の牧として開かれました。ですので早ければ清和天皇在位858年頃のことです。931年に御牧となってその時の別当は小野諸興でした。

場所はやはり東京都の落川遺跡の説明にあったように、小野神社、落川遺跡の近くだったと思われます。

冒頭の由比牧のことを思い出していただくと、大栗川の谷戸を自然の柵とし、谷戸出口のみ、人工の土塁・堀などの柵を設ける、それが小野牧だったのではないでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムより、大栗川の谷戸出口にちょうど野猿街道が走ってます。分かり易いように赤線を添えました。その上にあるポイントが落川遺跡、その右の寺マークは廃仏毀釈で多摩市小野神社の文殊菩薩が移設された真明寺、更にその右の鳥居マーク2つが小野神社です。

何かこう、ちょうど小野牧の出口柵を監視するような位置に小野神社と落川遺跡があるように思いませんか???

さて、御牧としての小野牧初代別当である小野諸興、939年には、武蔵権介(仮の介)になっています。この頃の武蔵守ですが、918年小野(高向)利春、924年小野隆(孝)泰、932年は西党の祖日奉宗頼が任じられています。

この、諸興、利春、隆(孝)泰といった小野氏、繋がりは分かりませんが、小野隆(孝)泰は、子、義隆(孝)が939年に武蔵権守となり〜ですから小野諸興と権ペアだったんですね。この権ペアで平将門を追討しています。それだけ、この地で武力含め勢力を張ってたということです。〜、その後、八王子横山に土着し横山を名乗り横山党の祖となっています。

この地で相当な勢力を誇っていたこれら小野氏は、落川遺跡、小野神社周辺に住んでいたんではないでしょうか。やがて小野義隆(孝)は八王子横山に飛び出し横山氏を名乗ったのです。小野路道は小野氏の初期の根拠地と義隆(孝)の横山とを結ぶ道だったのです。小野郷、小野神社、八王子横山が、横山党と小野路道で繋がりました。

これは、西党日奉宗頼が936年に武蔵守の任期を終え、日野に土着したのとそっくりそのまま似ています。逆に小野氏(横山氏、横山党)の方が少し早いようです。

面白いですね。武蔵国府から最初の支流が大栗川でその流域は横山党が、その次、浅川と更にその次の秋川は西党が支配したわけです。

大栗川と浅川の分水嶺、今、帝京、東京薬科、中央、明星と大学があるこの尾根は、横山党と西党の分水嶺でもあったわけです。

さて、この小野神社、吾妻鏡に、"一宮別当松蓮寺" という記載もあり、その松蓮寺は現在の百草園にあったと言いますから、百草園のある所にあったかもしれません。

多摩市小野神社から百草園(松蓮寺)へ向かう松蓮寺道の馬頭観音にも松蓮寺道と彫られていました。

日野市によれば、この松蓮寺は、1335〜1581年間にこの地に、最初に開かれたようです。その前は、真慈悲寺という大寺が存在していました。1079年に長厳という僧が真慈悲寺で写経したという記録があり、

松蓮寺道が尾根に上がった所にある六地蔵、ここから百草園までは4, 500m。ここから寺域が始まっていたということです。

1062年には前九年の役の際、源頼義・義家が同じ敷地内にあった百草八幡宮に立ち寄ったという伝承があります。横山党が八王子横山、管理していた小野牧があるこの小野郷を闊歩していた時期ですね。

百草八幡神社

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如何でしたでしょうか。

今の京王線聖蹟桜ヶ丘駅から百草園駅にかけてのエリアは、嘗て、1700年前から人々が住み始め大集落を築き、それが途切れることなく、1000年前には小野氏がこの地に居住し、小野牧を経営し、武蔵国の国司も務め、権勢を振るっていました。その後、小野氏は義孝(隆)の時代、この小野郷を飛び出し八王子横山に拠点を移しました。その2拠点を結ぶのが現代の野猿街道です。野猿街道は、平安まで遡れる古道で、今でも、その痕跡が見られます。

清鏡寺の直ぐ手前にある、馬場碑、江戸時代ここには農耕馬で競技する馬場があったそう。由木城の馬場の名残もあると思いますが更に遡った小野牧の土地の記憶がそうさせているのではないでしょうか。。。