2022年1月5日水曜日

小野路道、その4, 小野牧

久し振りの小野路道シリーズです。

古甲州道シリーズ番外編 西党、横山党、大石氏で、西党由井氏が別当を務めたと言われる由比牧をご紹介しました。

由比牧は、大沢川の作った谷 = 谷戸を活用していたと思われます。

谷戸の奥はどん詰まり、左右は山ですから三方は柵が無くとも既に囲まれている状態を作れるからです。あとは大沢川の谷戸の出口に堀と土塁を設け柵とするだけとなりますが、その名残が野堀川と言われています。

大沢川の谷戸を真中に配置しました。御覧の通り、谷戸奥(左側)はどん詰まり、両サイドは山なので、大沢川出口(右)のみ柵で塞げば良い地形です。そこに土塁と堀が柵として設けられ、それが野堀川(青線)ということです。それにしても、野堀川はお誂え向きの場所にありますね。

武蔵国の牧と言えば、由比牧以外では、小野牧、秩父牧、石川牧、立野牧、小川牧ですが、秩父牧は遠い、石川牧と立野牧は比定地がはっきりしません。小川牧はもう2回(1, 2)行ってしまったのと、比定地としてハッキリしている割に地名や寺社の伝承等に痕跡が無いんですよね。

一方、小野牧は近場だし、前回取り上げた横山党が別当だった牧。以前、小野路道シリーズで走ってますが、2022の走り初めとしてはちょうど良いですか、ね。

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京王線北野駅まで輪行、逆方向に少し行って北野天満宮を訪れます。

実は行き忘れて過去picです。2017/12

東京都神社名鑑によれば、横山党の一族が京都北野天満宮をこの地に勧請したと言います。

駅に戻り南口を出て湯殿川を渡りローソンの裏に回っている小道を行きますがこの道が今は何てことない道ですが嘗ては重要な道でした。

歴史的農業環境閲覧システムより、画面上の鳥居マークが北野天満宮です。黄色ピンが絹の道との分岐で、打越弁財天(池がある所)を経由し、(見切れてますが)絹の道へと繋がってます。濃紫線が現在の野猿街道(薄紫線)の1つ前の野猿街道、青線が最も古い野猿街道です。このように、この小道は八王子から大栗川に抜ける尾根越えの重要な道だったんですね。

今日は最も古い野猿街道を行きます。湯殿川支流に沿って遡上し、どん突き手前で尾根に上がりまして、絹ヶ丘、北野台の間を抜け、中山白山神社に到着です。

中山白山神社

1826年に社殿裏の経塚から出土した1154年銘の経典10巻の奥書に、"武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊" と、書かれており、平安時代に比叡山西搭の僧、武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であるという伝承が証明されました。

横山党が闊歩していた時期です。

また、この奥書には、"小野氏人等" という記載もあり、小野氏 = 横山党の庇護を受けていたことも分かります。ほら、やっぱり、そうでした。

中山白山神社からは、横山党も通ったであろう一本点線の徒歩道を南東に下って、その後は、ちょっと寄り道して大栗川支流が作った谷戸と尾根の古道を楽しみます。

中山白山神社は画面左の鳥居マーク、マークから真下に行くのは参道、南東に行くのが一本点線の平安古道。歴史的農業環境閲覧システムより

もしかしたら平安まで遡れる一本徒歩道古道

まずは濃青線、中山白山神社下、永昌院のある谷戸です。

谷戸の風景

次に薄青線、ひな鳥山、多摩シルバーハウスがある谷戸です。

谷戸の風景、谷戸どん突きを上り詰めた所から振り返っての眺望

次は黒線、大学セミナーハウスから尾根に乗ります。この道も古い野猿街道だったといいう話を聞いたことがあります。確かに、特に戦の時は尾根の方が安全ですね。

丹沢山系、富士山の眺望

トレイル

尾根から降り立ったら、先日訪れた永林寺西の一本点線徒歩道で北に抜け、、、

永林寺、2021/12/11撮影

由木城址、由木氏は西党と横山党があり、どちらも、あるいはどちらかがここに由木城を築城しています。その後、写真銅像(右)の大石氏も由木城に居住しています。2021/12/11撮影

峠越え

、、、こちらも先日通ったんですが堀ノ内の谷戸道(オレンジ線)に入っていきます。

日陰は昼近くになっても霜が融けません。

野猿街道に復帰したら旧道側を選んで小野神社に向かいますが、途中、清鏡寺に寄ります。

清鏡寺

ここの大塚御手観音は、1213年に法印となった慶派の仏師湛慶によって彫られた仏様との伝承があります。

大塚御手観音堂

横山党がこの地を闊歩していた頃に存在していたお寺ということになります。

今日一はこれでした。寺紋は基本、再興した北条氏照に因んで後北条の三つ鱗なんですが(2つ上の写真をタップし写真選択した後、ピンチアウトして屋根上の寺紋をご確認下さい。), 窓の寺紋は丸に卍。横山党の家紋です。開創の時期からしても元々は横山党の庇護下にあったんだと思います。

先を行きます、もう何度も訪問してますが改めて、多摩市小野神社です。

多摩市小野神社

社伝によれば、BC531創建、主祭神は天下春命、武蔵国一之宮。一之宮であることは南北朝期に書かれた神道集にも書かれています。

しかし謎が多い神社です。

まず主祭神が天下春命であること。天下春命は知々夫国造の祖神です。

何故、秩父???, と、思いますよね。この地で秩父の神様天下春命が祀られる合理的理由は、600年代後半に无邪志国造と知々夫国造が合併し武蔵国が成立したという一点しか無いでしょう。逆に言えば、天下春命が主祭神となったのは、600年代後半の武蔵国成立以降、更に言えば、今の位置に国府が置かれた700年前半以降ということになりそうです。

もう1つ。小野神社が多摩市と府中市の両方にあるという点です。

しかし、社伝にも書いてありますが、鎌倉時代に書かれた吾妻鏡に、"多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺" と書かれていて、連光寺と一宮は、"・" で繋げられる一体の土地、つまり一宮は連光寺に隣接していると考えることが出来、一宮とは神道集にあるように小野神社のことですから、少なくとも鎌倉時代、南北朝期の小野神社とは、即ち、多摩市小野神社であると考えられます。

加えて、多摩市小野神社の西数百メートルの位置にある落川遺跡です。

落川遺跡

東京都によれば、

"800軒以上の竪穴建物跡、300軒以上の掘立柱建物跡、2400基以上の土坑、溝、井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等の遺構が検出されています。豊富な墨書土器、輸入磁器、農耕具や馬具などの武具などや、焼印(文字「土」)や和銅7年(714)銘のある石製紡錘車が出土しています。遺跡は古墳時代前期から中世前期まで途切れることなく生活が営まれた痕跡があります。このことは、多摩丘陵開発や多摩川対岸の武蔵国府・国分寺との関係、東方約300mに鎮座する小野神社を中心とする小野郷や小野牧との関係が推定されます。"

ということですから、BC531はアレとしても、古墳時代前期ですから3世紀後半から4世紀にかけて、この地にとある集団が住み始め、後に多摩市小野神社を中心とした小野郷が成立していったと推測できるのです。

元々は異なる神だったと思いますが、700年頃、武蔵国が成立すると、知々夫国造の祖神天下春命が主祭神となったのかもしれません。

そして、鎌倉時代、南北朝期には、武蔵国一之宮の位置付けでした。

さて、小野牧です。

小野牧は陽成上皇、あるいは清和天皇の院の牧として開かれました。ですので早ければ清和天皇在位858年頃のことです。931年に御牧となってその時の別当は小野諸興でした。

場所はやはり東京都の落川遺跡の説明にあったように、小野神社、落川遺跡の近くだったと思われます。

冒頭の由比牧のことを思い出していただくと、大栗川の谷戸を自然の柵とし、谷戸出口のみ、人工の土塁・堀などの柵を設ける、それが小野牧だったのではないでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムより、大栗川の谷戸出口にちょうど野猿街道が走ってます。分かり易いように赤線を添えました。その上にあるポイントが落川遺跡、その右の寺マークは廃仏毀釈で多摩市小野神社の文殊菩薩が移設された真明寺、更にその右の鳥居マーク2つが小野神社です。

何かこう、ちょうど小野牧の出口柵を監視するような位置に小野神社と落川遺跡があるように思いませんか???

さて、御牧としての小野牧初代別当である小野諸興、939年には、武蔵権介(仮の介)になっています。この頃の武蔵守ですが、918年小野(高向)利春、924年小野隆(孝)泰、932年は西党の祖日奉宗頼が任じられています。

この、諸興、利春、隆(孝)泰といった小野氏、繋がりは分かりませんが、小野隆(孝)泰は、子、義隆(孝)が939年に武蔵権守となり〜ですから小野諸興と権ペアだったんですね。この権ペアで平将門を追討しています。それだけ、この地で武力含め勢力を張ってたということです。〜、その後、八王子横山に土着し横山を名乗り横山党の祖となっています。

この地で相当な勢力を誇っていたこれら小野氏は、落川遺跡、小野神社周辺に住んでいたんではないでしょうか。やがて小野義隆(孝)は八王子横山に飛び出し横山氏を名乗ったのです。小野路道は小野氏の初期の根拠地と義隆(孝)の横山とを結ぶ道だったのです。小野郷、小野神社、八王子横山が、横山党と小野路道で繋がりました。

これは、西党日奉宗頼が936年に武蔵守の任期を終え、日野に土着したのとそっくりそのまま似ています。逆に小野氏(横山氏、横山党)の方が少し早いようです。

面白いですね。武蔵国府から最初の支流が大栗川でその流域は横山党が、その次、浅川と更にその次の秋川は西党が支配したわけです。

大栗川と浅川の分水嶺、今、帝京、東京薬科、中央、明星と大学があるこの尾根は、横山党と西党の分水嶺でもあったわけです。

さて、この小野神社、吾妻鏡に、"一宮別当松蓮寺" という記載もあり、その松蓮寺は現在の百草園にあったと言いますから、百草園のある所にあったかもしれません。

多摩市小野神社から百草園(松蓮寺)へ向かう松蓮寺道の馬頭観音にも松蓮寺道と彫られていました。

日野市によれば、この松蓮寺は、1335〜1581年間にこの地に、最初に開かれたようです。その前は、真慈悲寺という大寺が存在していました。1079年に長厳という僧が真慈悲寺で写経したという記録があり、

松蓮寺道が尾根に上がった所にある六地蔵、ここから百草園までは4, 500m。ここから寺域が始まっていたということです。

1062年には前九年の役の際、源頼義・義家が同じ敷地内にあった百草八幡宮に立ち寄ったという伝承があります。横山党が八王子横山、管理していた小野牧があるこの小野郷を闊歩していた時期ですね。

百草八幡神社

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如何でしたでしょうか。

今の京王線聖蹟桜ヶ丘駅から百草園駅にかけてのエリアは、嘗て、1700年前から人々が住み始め大集落を築き、それが途切れることなく、1000年前には小野氏がこの地に居住し、小野牧を経営し、武蔵国の国司も務め、権勢を振るっていました。その後、小野氏は義孝(隆)の時代、この小野郷を飛び出し八王子横山に拠点を移しました。その2拠点を結ぶのが現代の野猿街道です。野猿街道は、平安まで遡れる古道で、今でも、その痕跡が見られます。

清鏡寺の直ぐ手前にある、馬場碑、江戸時代ここには農耕馬で競技する馬場があったそう。由木城の馬場の名残もあると思いますが更に遡った小野牧の土地の記憶がそうさせているのではないでしょうか。。。


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