2022年1月29日土曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る

最初はそうだとは思っておらず、純粋に、道としての古甲州道をexploreするつもりだったんですが、実走してみると、古甲州道は、武蔵七党の一つ、西党の道でした。

この学びを元に、以前、exploreした小野路道を振り返ってみると、小野路道は横山党の道でした。

西党、横山党と来たら、次は村山党です。

村山党の根拠地は、ここの所、通っている狭山丘陵周辺です。

狭山丘陵の周りには、当主村山氏、宮寺氏、山口氏がおり、少し離れた所に、大井氏、金子氏がいます。

今回は、村山氏、宮寺氏、山口氏の痕跡をexploreします。


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いつもの通り、多摩湖自転車歩行者道で多摩湖まで。

多摩湖自転車歩行者道

武蔵大和駅西交差点を左折し、村山氏根拠地を目指します。勿論旧道側を選んで。

10km程で、阿豆佐味天神社に到着です。

阿豆佐味天神社

東京都神社庁によると、892年、上総介高望王の創建、式内社でもある古社です。享保年間(1716~36年)には、当地方の豪族村山土佐守により、社殿の修復が行われたと言います。

しかし風土記には、

"文明十四年(1483年)村山土佐守、同雅楽助及一族等土木の費を供して、社檀を再修せしこと見ゆ"

とあるし、江戸時代ということはないだろうから、風土記の年代の方が正しいのでしょう。尚、村山土佐守とは村山義光です。

はい、ということで、村山党村山氏所縁の神社ということになります。

先を行きます。福正寺です。

福正寺

この辺りは、"殿ヶ谷" という地名です。

鎌倉期の、谷戸を利用した城の形式を、"殿谷戸形式" と言いますが、谷戸のどん突きに居館を置き、背後の尾根に詰め城を置く形式で、左右と背後は尾根に囲まれ防御性に富むというものです。

ですので、鎌倉期の城があったのではないか、村山党村山氏の城があったのではないかと推定されています。

これって土塁じゃないですかね

南側の眺望、今は住宅がびっしりですが、迅速測図でもここは荒野。往時も言わずもがなですから多摩川まで見えたでしょう。

【村山党系図】

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)
 ー大井五郎大夫家綱
 ー宮寺五郎家平
 ー金子六郎家範
 ー山口七郎家継

※村山義光へと続く系図は見つかりませんでした。

阿豆佐味天神社の縁起に出てきた高望王は村山党の祖ですね。だからでしょうか、ここに城を構えたのは。

先を行きましょう、円福寺です・・・・・行き忘れました!!!
以下、事前机上exploreから、です。

寺伝によれば、1573年、村山土佐守義光が梅室慶香禅師を開山とし開創したとのことですが、東京神社庁、風土記のどれとも時代が合いませんね、、、。

が、村山氏は最終的には後北条氏についたとされていますので、義光かどうかは分かりませんが、この地の領主村山氏は続いていて、円福寺開創に深く関わったのでしょう。

西党は秀吉の小田原征伐までさしたる問題も無く続きましたが、横山党は、和田合戦で和田方に付き滅亡しました。

村山党も、1368年の武蔵平一揆では、一揆側につき、敗れた為、没落しました。

しかし、滅亡までは行かず、この後は、関東管領山内上杉氏、その守護代大石氏につき、後北条氏が覇権を握ると後北条氏についたようです。いや、西党と全く同じですね。

さて、福正寺に戻ります。

福正寺は東西二つの谷戸に囲まれた尾根南端にあります。だから殿谷戸形式で言えば詰め城の位置ですが、背後からそのまま六道公園に続く尾根道があります。

宮寺五郎家平のいる狭山丘陵の向こう側に行くには、当時は恐らくこのルートか、あるいはその西隣の川越道を行ったものと思われます。今回は、福正寺裏尾根道を行きます・・・・・と、思ってましたが、実際行ってみるとどうも無理そう。川越道を行きます。

舗装路でしたが良い道でした。

いつもの庚申塔のある六道の辻から狭山湖外周道路グラベルを行きます。

六道の辻の庚申塔

川越道はココから入りますがチャリ禁止、

川越道入口

そのままグラベルを行き、比良の丘から、宮寺五郎家平の居館跡、西勝院を訪れます。

西勝院

ここには土塁が残っていますが、宮寺五郎家平の時代ではなく、加納下野守の時代のものと言われています。

土塁、地上から

土塁、上に乗って

加納下野守は、1333年に、ここに入ったと言われていますから、宮寺氏は、1333年の元弘の乱か、あるいはその前の戦いで討死したかもしれません。系図でも、宮寺五郎家平以降は記述されてませんし。

宮寺五郎家平時代の痕跡として唯一と言えそうなのが、清泰寺の薬師如来坐像です。西勝院が大御堂にあった頃、西勝院に祀られていたものです。平安期のものと言われてますから、宮寺五郎家平も拝んだと思われます。

まさか見れるとは思ってなかったので大変嬉しかったです。宮寺五郎家平と同じ仏様を拝ん出るんですね、私は。

次は山口七郎家継の城跡に向かいます。

ルートは4つありそうです。
  • 1つは糀谷八幡神社の西の尾根道を南下し狭山湖外周道路の尾根道を越え柳瀬川に降り柳瀬川沿いの山口道を行くルート
  • 2つ目は1つ目のルートを柳瀬川まで下りずに、狭山湖外周道路の尾根道を行くルート
  • 3つ目は丘陵に上がらず丘陵裾を東進し、三ケ島中氷川神社、金仙寺脇を通り丘陵に上がって、柳瀬川に降り山口道を行くルート
  • 4つ目は3のルートで柳瀬川まで降りずに尾根を行くルート
3, 4ルートの東にも尾根に上がり山口道に降りる道はあるんですが、山口氏築城の根古屋城を通らないので、恐らくは上記4つだと思われます。

1, 2はチャリ禁止ですから、今回は4を行きます。3はダムの底です。

狭山湖外周道路を終え、山口中氷川神社です。

山口中氷川神社、東向きなんですね。大宮の氷川神社でしょうか。

寺伝によれば、崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く、又、入間・多摩二郡にまたがる九十二ヶ村の総鎮守とし、山口城主にも尊崇され、「氷川様」と親しまれてきました。

とのことです。山口七郎家継の痕跡ですね。

先を行くと、痕跡中の痕跡、山口城跡があります。

碑と土塁

こちらは線路脇の土塁

山口高清の代に武蔵平一揆で河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城、その後永徳3年(1383年), 南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた、とのことです。

最後に、瑞岩寺です。

瑞岩寺

山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられます。

先程の山口高実の墓があります。

山口氏の墓が本堂西側に三基あり、向かって左側の塔には、「帰実禅門永徳三癸亥六月十三日」と彫られており、この寺にある山口高実の位牌と一致していることから、山口高実の墓と言われます。

山口高実の墓

村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー家俊ー(数代略)ー高実ー高清ー高治

◆□■◇

如何でしたでしょうか。

残ってましたね、痕跡が。

西党は上手く切り抜け、横山党は和田合戦で滅亡し、村山党は武蔵平一揆で没落するもなんとか復活し、西党と同じく、関東管領山内上杉謙信、その目代大石氏、覇者後北条氏と主君を変えながら、どうにかこうにか、生き長らえてきたんですね。

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