2022年7月18日月曜日

分水嶺シリーズ、多摩川と鶴見川の分水嶺と、橘樹郡と都筑郡の郡境の関係

武蔵国と相模国の国境が、東京湾と相模湾の分水嶺であることは皆さんご存じだと思います。

私も以前exploreしました。

この例からも分かる通り、行政界は、川、海、分水嶺(尾根)です。

このセオリーに従えば、武蔵国の橘樹郡と都筑郡の郡境も、分水嶺(尾根)のはずです。

橘樹郡と都筑郡の位置関係ですが、共に多摩川の西側で、橘樹郡が多摩川の直ぐ西で、都筑郡はその西隣となります。

一方、この辺りの川の位置関係ですが、東から、多摩川、鶴見川、帷子川となっています。

ですので、多摩川水系が橘樹郡、鶴見川水系が都筑郡、帷子川水系が久良岐郡、つまり、多摩川と鶴見川の分水嶺が橘樹郡と都筑郡の郡境、と、なれば、実にスッキリするんです。

ということで迅速測図で確認してみましょう。

歴史的農業環境閲覧システムより、迅速測図(1880~1886), ちょうど真ん中に、縦に、"橘樹郡" を配置しました。その左に斜め気味に縦に走るのが郡境です。その西には鶴見川支流早淵川、その支流が確認できます。

標準地図(2022)で、現代の位置関係をご確認下さい。が、川は真直ぐにあるいは暗渠となっていて分かりづらいです。

橘樹郡と都筑郡の郡境の直ぐ西には鶴見川支流早淵川の支流があって、

"よしよし、読み通りだぞと、ということは郡境の東にある川は多摩川水系なんだろう。"

と、確認してみると・・・・・

歴史的農業環境閲覧システムより

その川は矢上川で、鶴見川の支流でした。。。。。

ということで今一度橘樹郡と都筑郡の郡境を矢上川下流部まで確認してみると、

迅速測図における橘樹郡と都筑郡の郡境は、黄色ピンで追いかけられるラインで、左上から右に行き真中で90度曲がって下に向かうラインですが、赤ピンで示した高田郷が、郡成立時は橘樹郡だったことが分かってるので、郡成立時の郡境は、高田郷の下を通り、且つ、矢上川支流松の川を橘樹郡に取り込む赤線と推測出来ます。

と、いうことで、矢上川は、鶴見川水系で唯一、橘樹郡に組み込まれている川であることが判明しました。

他にも幾つかが組み込まれているのなら分からないでもないですが、矢上川だけが、橘樹郡に組み込まれているのです。


橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系、と、"スッキリ" するならば、黒線で良い訳ですが、矢上川を取り込む赤線が郡境なのです。

これは何故なのか???

実は私的にここ数年の課題だったんです。

以前は矢上川は今は鶴見川水系だけど、郡成立時は多摩川水系だったんだろう、と、勝手に解釈してました。

というのも、矢上川の流路が大変不自然だったからです。

上の矢上川とある水色ピンから90度下に向かって曲がり、鶴見川に合流してます。これは大変不自然。そのまま真直ぐ行けば多摩川に合流するし、ここは多摩川の氾濫原だから90度曲がる程の高低差も無いと思ったからです。

しかし調べてみたら、確かに、矢上川は元々は古多摩川の支流だったものの、縄文時代に今の流路になったとのことで、郡成立時はとっくに今の流路だったということ。

課題が復活した訳です。

それが本日漸く分かった(と言っても私論ですが)んです。

ヒントは、"古多摩川" でした。

前の前の迅速測図を見て下さい。

一際太い藍色ラインは、多摩川氾濫原の西端です。洪水時は、多摩川は、ここまで来るわけです。

実際、右下のGoogleMapsの洪水マークは、1694年の洪水時の浸水エリア(南加瀬)になります。

"一際太い藍色ライン、ここまで多摩川だ。" と言っても過言ではない訳ですね。

矢上川は、氾濫原に出た後、崖に沿って流れている訳ですが、氾濫原に出た時点で、多摩川支流と認識されていたのではないか、だから、橘樹郡に組み込んで良いのではないか、そう、解釈されていたのではないか、それが現時点の私の解です。

矢上川以外の鶴見川支流で多摩川氾濫原に注ぐ川はありません。

結局、郡成立時の郡境は、夢見ヶ崎(黄色ピン)だということです。これより西に流れる川は都筑郡、東は橘樹郡になっています。でもこうして河口部を見てみると、ここら辺りは氾濫原ですから、多摩川と鶴見川はいつ交じり合ってもおかしくない、鶴見川は多摩川の支流と言っても過言ではないようにも思ってきました。

と、いうことで今回のexploreは、過去走ってますが、ここ数年の課題が解決した新たな目線で、橘樹郡と都筑郡の郡境です。

■◇◆□

まずは矢上川源流の、菅生緑地に向かいます。

菅生緑地東端から西端を望む。左のこんもりとした山が郡境尾根の崖とそこの木々です。この真正面の平地に矢上川が流れていたものと思われます。

公園内を押しで西端に向かいます。

分水嶺尾根が良く分かる所、あの崖から染み出る湧水も矢上川の水源の1つだと思われます。

そしてここがドン突きです。

坂になってます。幅も狭くなって。写真では分かりづらいですが、ここまで来ると標高も10m程度上がります。

それでは菅生緑地から尾根に乗り、日吉に向かいましょう。

尾根だから眺めが良いのですが、夏なので草ボーボー、なかなか視界が開けませんが漸く。

丹沢方面

東名を越えてR246の峠茶屋前に到着、ここから大山道との合流まで、特に、バイク屋さんからの上りが大変きつく、前回から漸く登れるようになりましたが今回もクリア出来ました。

そして、

いつもの大山道との合流部

その後、すみれが丘の辺りで視界が開けます。前方の山は寺尾の台地でしょうか。

家々が無ければ更に素晴らしい眺望なんでしょうが・・・・・

住宅街の中を暫く行くと、有馬小の向こうに長善寺の屋根が見えます。

高低差が良く分かります。

程無く有馬古墳です。

発掘調査されてないので古墳かあるいは街道の一里塚かとも言われています。

その後、横浜国際プール付近の尾根を行きます、この道は初めて。

ここまでほぼ完璧に迅速測図時代の古道をトレース出来ていますが、この辺りは開発で一部古道が消えています。しかし、庚申塔がありました。

開発に伴い一時付近の長泉寺に預けられていたようですが、元の場所に戻されたとのことです。

その先、第三京浜・中原街道を渡る所に鎌田堂があります。

源義朝の一番の郎党、鎌田正清の館が、背後の山にあったことから鎌田堂と呼ばれます。

高田の尾根に上ります。

ここもなかなかキツカッタ

高田郷に入って、馬頭観音、庚申塔、双体道祖神です。古道の証。

西原という所にあります。

その直ぐ東に、南北朝時代の武将で、足利氏一門、足利尊氏→直義→直冬→基氏→義詮に仕えた桃井直常塚跡があります。

桃井直常塚跡

ここを南に行くと、慈覚大師円仁開山の塩谷寺があります。

塩谷寺

このお寺には物凄い下りで行くんですがそれもそのはず、この地形です。

真中やや上の卍が塩谷寺。谷戸のどん詰まりに位置しています。標高は南の早淵川と同じですね。

激坂を押しで上がってる途中から撮影、囲まれ具合が良く分かります。

1ブロック東にはまたしても慈覚大師円仁開山の興禅寺があります。

興禅寺

この塔は桃井直常寄進

この南には高田天満宮があって、

高田天満宮、桃井直常創建

この眺望です。

ランドマークが見えます。

少し先には迅速測図時代の郡境と、この今行ってる郡成立時の郡境との辻があり、そこに庚申塔がありました。

庚申塔

迅速測図時代の郡境(縦)と郡成立時の郡境(横)の辻

駒林神社の手前には地蔵、庚申塔があります。

今回は右へ。ここもなかなかの激坂でした。途中には寄りませんでしたが駒林神社があり、ここも天神様でした。高田天満宮も天神様でしたね。この辺は天神信仰が盛んだったのでしょうか。

尾根を下って、智証大師円珍開山の金蔵寺があります。

金蔵寺

塩谷寺、興禅寺の第三代天台座主慈覚大師円仁に対し、ここ金蔵寺は第五代天台座主智証大師円珍開山です。が、何れも天台宗。この郡境尾根は平安初期から開かれてたんですね。

先を行きましょう、日吉の丘公園の隣にある、第三代天台座主慈覚大師円仁開山の大聖院です。

ここはいつ来てもキレイにしてあります。

大聖院前の古道で郡境尾根に復帰して、日吉駅に到着。この台地はまだ続きますが慶応大の敷地で入れません。ここで終わりとします。

■◇◆□

以下、帰路の風景です。

崖下から、慶応大がある台地

手前の川は勿論矢上川です。にしても立派な崖ですね。

参考までに、2020/10に訪れた、慶応大の更に先の夢見ヶ崎の先端に立っての眺望です。

この視線の左が多摩川水系(橘樹郡)、右が鶴見川水系(都筑郡)

そしてここが矢上川屈曲部分

実際に現場に行くと、谷が深いですね。これだけの深さがあると真っ直ぐは行けませんね。この谷はどうして出来たのか?!, 断層?

そしてここが矢上川が多摩川氾濫原に注ぐ地点

写ってはいないですが、両サイドは山です。右が蟹谷、左が子母口

以上です。

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