2022年4月10日日曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る、その4, 大井氏、難波田氏

村山党シリーズ、その1は、村山氏、宮寺氏、山口氏の痕跡を訪ね、その2では金子氏、その3では、山口氏系荒波多氏、久米氏の痕跡をexploreしました。

そして今回は、大井氏、金子氏系難波田氏の痕跡を訪ねます。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー大井五郎大夫家綱

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前回その3で、東山道武蔵路・鎌倉街道上道と鎌倉街道羽根倉道との交差点を東進し、久米氏館跡と目される北秋津城を訪れましたが、そのままその道を東に進みます。

道幅といい曲がり具合といい道沿いの大きな旧家といい如何にもという古道風景の中、西武池袋線を過ぎ、下安松の集落に入るとここに長源寺があります。

満開の桜越しの長源寺

開基は大石定久で、大石氏は村山党と直接の関係はありませんが、これまで、旧多摩郡の西党、横山党とexploreしてきましたが、この地を巡ると、大石氏を避けて通ることが出来ない、そのような存在でした。

大石氏系図によれば、大石信重は、1345~50年に関東管領山内上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷に300貫文を賜り、1356年には、入間郡・多摩郡両郡内に13郷を賜って、武蔵国目代を任じられています。

1333年、新田義貞によって北条の鎌倉幕府は滅びました。その後、室町幕府が開かれたんですが、関東を治める為、鎌倉に鎌倉府を設け、統治しました。

そのTopは鎌倉公方で、室町幕府にも征夷大将軍はいますが、関東にもう一人の将軍がいた、と言うような存在です。その鎌倉公方を補佐する役割が関東管領です。

つまり、鎌倉幕府が滅んだ後の関東の新たな統治機構の枠組みにおいて、入間・多摩両郡に13郷を賜り、武蔵国の目代(国司: 現地に行けない守(かみ), 介(すけ), 掾(じょう), 目(さかん)ら、今で言う知事クラスの役人の現地に居住する代理人)だったわけです。

時は大きく下り、1545年、46年の河越夜戦では、大石定久は、やはりまだ、関東管領山内上杉憲政に従い戦っています。目代としては1400年代前半までだったようですが、その後も、関東管領山内上杉家の重鎮として活躍していたということです。

そして河越夜戦で後北条氏の関東支配が決定的となった後は、後北条氏に付いています。

ということで大石氏は、1350年頃から後北条の時代まで、旧多摩郡のエリアを支配、管理していたのです。

一方、それより前から、西党、横山党、村山党は、旧多摩郡エリア内のそれぞれの地域で土着し、生活していました。そして、頼朝が関東を支配したら頼朝に付き、北条の時代には北条に、というようにして生き延び、大石氏に対しても同じようにしてきたんだと思います。

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JR武蔵野線を潜って下安松通りに合流しそのまま東進を続けると、柳瀬川の丁字路にぶつかり、そのまま道なりに行くのが羽根倉道、一つ目の交差点を左に入るのが本郷道で、大井氏の支配地に行くのは本郷道と推測します。

道の名、本郷に到着するとここには柳瀬川の河岸段丘の景色が広がります。

河岸段丘を背にした東福寺、749年、行基が開創

その先の河岸段丘

やがて滝の城に至ります。

このまま河岸段丘下を行きたい所ですが、東川を渡る橋がありません。

地理院地図、右上から左下に流れる川が柳瀬川、左上から右上に合流しているのが東川。合流部に橋が無いのが分かる。

迅速測図の時代にもありません。

歴史的農業環境閲覧システムより迅速測図、右上の柳瀬川・東川合流部にやはり橋無し

大井五郎太夫家綱の時代はどうだったか。

しかし、迅速測図をよく見ると、滝の城址公園の崖下に一本点線徒歩道があるではないですか!!!

しかも、地理院地図の公園内園路(両点線)とほぼ重なってます。

迅速測図で一本点線徒歩道の現在の姿

柳瀬川河岸段丘上の滝の城が望めます

迅速測図の方は、運悪く、地図の切替部もあって詳細は不明ですが、大井五郎太夫家綱の時代はもしかしたら、東川を渡河する方法があったのかもしれません。

東川は渡れませんから、関越道の側道で河岸段丘に上がり、坂之下の集落に入ったら、風土記によれば鎌倉坂と呼ばれる坂を下って再び河岸段丘下の道を進みます。

道はやがて英インターにぶつかり、そこから河岸段丘に上がって竹間沢こぶしの里を行きます。ここには鎌倉街道伝承が残ります。

入口です

この辺りは古井戸山と呼ばれ地蔵がありました。この砂利道が古道である証です

アスファルトの道に合流する手前を右に行くのが鎌倉街道

この山道からアスファルトの道に合流して直ぐの所に、木下稲荷があります。

良い雰囲気だったので思わず自転車を止めました

ここ竹間沢は、京都の伏見稲荷を勧請した六つの稲荷神社があって、それぞれ、10~20軒程の家で講を組織し、管理しているそうです。撮影はしませんでしたが、この道すがらにも幾つもありました。

初午の時には大きな幟旗を立て、夜には宴会を開くとのことですから、養蚕が関係しているのだと思います。河岸段丘の上ですから、水田は出来ませんし、この辺りは渡来人の入植地で、渡来人が齎した先進技術であった養蚕が盛んでしたから。

さて、この鎌倉街道は川越街道に平行する鎌倉通りに続きます。

鎌倉通りは、村山党大井氏の支配地、大井郷に行き着きます。

大井戸に向かう古坂と呼ばれる坂

まずは、大井戸跡を訪ねます。

大井戸

1696年の大井郷田畑水帳によれば、川越街道、鎌倉街道と砂川堀に囲まれたこのエリアは、"大井戸" と呼ばれており、この井戸が地名由来と言われています。

井戸は武蔵野台地特有の所謂まいまいず井戸です。富士山や箱根の山、浅間山の火山灰が数十メートル積もった関東ローム層の為、水源が深く、一般的な垂直に掘る方法では水源に辿り着かず、まいまいず = かたつむりのように掘り進めなければなりません。

井戸の底からは須恵器が見つかり、平安期に掘られたことが分かりました。

大井五郎太夫家綱の時代です。

大井五郎太夫家綱の館がここにあったのでは、と、目されています。

大井氏館は、このまいまいず井戸を含め、目の前の埼玉トヨペットふじみ野支店と、川越街道を挟んだ徳性寺がそのエリアだと言われています。

徳性寺

それにしても何故、大井五郎太夫家綱は、狭山丘陵を離れて、この地に住んだのでしょうか???

謎ですね。

さて、大井五郎太夫家綱の支配地、大井郷から次は村山党金子氏系難波田氏の痕跡を探りに南畑に向かいます。

鎌倉通りを南に戻り、砂川堀を越えて1つ目の交差点を左折します。この道も両実線の県道クラスの古道です。

新河岸川に到着しました。振り返れば休耕田に突如として現れたららぽーとです。

新河岸川を渡って南畑に入ればそこは金子氏系難波田氏の支配地です。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー金子六郎家範ー高範ー難波田小太郎某(難波田氏初代)

まずは八幡神社を訪れます。

八幡神社

難波田氏が篤く崇敬したと伝わります。1400年に鎌倉公方足利満兼が勧請ですから、その後の難波田氏ということになります。

難波田城公園に向かいますが、その手前に天神社です。

天神社、民家の庭の中にあるように見えて入りづらい

難波田城の鬼門除けとして創建されたと伝わります。

難波田城です。

全景

本城門

金子高範は鎌倉幕府北条氏に従い、承久の乱に参戦し、その恩賞として難波田の地を与えられ、その子、難波田小太郎某がここに住み、支配しました。

1351年の羽根倉合戦で難波田氏と高麗氏がこの近くの羽根倉橋付近で戦ってますから、承久の乱の1221年から1351年、八幡神社創建の1400年、そして、河越夜戦後、この地は後北条方の上田氏に与えられましたから1546年まで、難波田氏はこの難波田城に拠ってたということになります。

先を行きましょう、下南畑氷川神社です。

下南畑氷川神社

難波田城の元の場所だと言われていますが、、、

歴史的農業環境閲覧システムより、難波田城、下南畑氷川神社、蔵福寺の位置関係

むしろ、その間の蔵福寺も含めた広いエリアが難波田城だったのではないでしょうか。

蔵福寺越しの難波田城

先を行きましょう、宗岡天神社です。

宗岡天神社

この神社には、この地で代々名主を務めていた木下氏の先祖、村山党山口氏の山口大膳が、山口からこの地に進出した時に、山口の氏神を分祀したという伝承があります。

入間郡誌によれば、山口大膳は、山口大膳高信で、父山口主膳正高稿の時代に既に後北条氏の配下でした。

それまでは関東管領山内上杉家に属していて、山口三河守高実(1383年没)の時代には所沢から足立郡までを領地としていたといいますから、1546年の河越夜戦で、後北条氏に下ったことで、領地を安堵されたのではないでしょうか。それが、上記の伝承になったものと思います。

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如何でしたでしょうか。

柳瀬川の河岸段丘を左に見ながらのツーリングは楽しかったですし、ちょうど桜の季節でもあったので。

竹間沢は鎌倉街道だけじゃなく、古い集落の雰囲気も残ってて良かったです。

武蔵野台地の東端である大井郷から降りて、新河岸川と荒川の間の氾濫地であった難波田は、広大な田園で、景色が違いました。

さて、これで村山党は一段落としたいと思います。

次はどうするか。また悩まないと。

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