戸倉は日奉宗頼を祖とする武蔵七党の一つ、西党の小宮氏のエリアでした。
その手前の五日市は同じく西党の平山氏のエリアで、古甲州道のスタート地点府中は日奉宗頼の武蔵守としての任地、その次の日野は土着地なので、古甲州道は、少なくとも府中から戸倉までは、西党が行き来した古道だった、と、結論付けました。
また、日野と五日市の間にある滝山は、奥多摩山塊修験道の一の鳥居的位置付けの地で、御岳山への参道でもあり、それは、ここ戸倉の御岳道・大野道で完結していました。
さて今回は、檜原です。
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武蔵五日市駅まで輪行、檜原街道を西へ。旧道側を選んで走行。戸倉で本郷通りを行くのが旧道。喜正ブランドで有名な野崎酒造を過ぎると都道33号檜原街道に復帰。前回は星竹橋で秋川左岸に渡りましたが今回はそのまま。追分で前回行った御岳道と別れ、旧矢柄橋がある旧道は完全通行止めで諦め、丸公木材から再び旧道に入ります。ここはGoogleMapsでは途切れていましたがしっかりと道が残ってました。
聖徳太子塔を始めこのような石塔も当時のまま残る |
そして、西青木平橋周辺の旧道も見事に残ってました。
空気感まで当時のままか |
以降は現道と旧道は一致します。程無く、橘橋に到着です。
それでは時坂峠向かいましょう。こちらが古甲州道です。
机上ではイケるかなと思ってましたが、イヤイヤ、乗車できたのは最初の民家まで。ここから激坂が始まり、時坂峠へのトレイルまでは押しでした。時坂峠周辺は古道に拘りトレイルを押し・担ぎです。時坂峠を越えてからは意地で乗りましたけど。
しかし、絶景でしたね。以下、写真集です。
つづら折れで上っていきます。 |
絶景 |
絶景2 |
紅葉も見事でした |
時坂峠へは古道に拘りトレイルを行きます。古道の証、地蔵が佇みます。 |
絶景3 |
押し・担ぎで漸く時坂峠に到着です。 |
時坂峠を越えたら峠の茶屋へは直ぐでした。 |
絶景4 |
峠の茶屋からは小岩に出ようと思っていたんですが、写真のように通行止め。ピストンで戻ります。
小岩方面は土砂崩れで通行止めでした。 |
見事な切り通し |
絶景5 |
絶景6 |
紅葉2 |
豆腐屋さんからは北秋川に沿って。北秋川が西に折れる辺りには、御霊檜原神社があり、ここは、平山氏の祖、日奉宗頼を祀った、あるいは平山氏重・氏久親子を祀ったと言われています。
ここに、岩舟地蔵尊があります。
平山氏は当初上杉方でしたが、河越夜戦の後、平山氏重の父政重は北条方に寝返っています。北条は政重亡き後、長男の長寿を可愛がり、北条の通字、"氏" を授けて氏重と名乗らせました。
一方、平山光義は上杉方のままで三田方でした。妹鶴壽姫が嫁いだ2年後、藤橋城は北条方に敗れ落城。鶴壽姫は落城寸前に檜原へ帰され、同時にこの地蔵尊も檜原へ送り返されたという顛末です。
武蔵五日市駅から来て橘橋を右に折れると直ぐ春日神社がありますが、この神社は檜原城の鬼門に守護神として創建されたものです(今の場所は移設後の場所となります。)。
そもそも、"檜原" は、"ひの" にある原(平らな所)ですから、ここは、"ひの(日野)" なのです。
これで古甲州道、スタートの府中からここ檜原まで、日奉宗頼を祖とする西党で繋がりました。
さて、檜原城は主君八王子城が落ちた時に同時に落ち、城主平山氏重と嫡男氏久は自害したと伝わりますが、落ち延びたという伝承もあるようです。
氏重は出家し御霊檜原神社近くにあった寺に隠居し、氏久は茗荷平ですから檜原村最奥ですね、に隠れ住んでいたそうです。
如何でしたでしょうか。
檜原は平山氏のエリアでしたね。
五日市は平山で戸倉は小宮、で、檜原は再び平山ということで、微妙に時代がずれてるんでしょうか。そう言われれば五日市は平山は平山でも季重の色が濃かったし、檜原は氏重で、400年以上の差があります。戸倉の小宮氏創建の神社は1300年代ですから、ちょうど、季重と氏重の間でしょうか。
古甲州道はこの後、小河内から大菩薩峠へと行き、甲斐国に入っていきます。
チャリではチョット難しい。考えます。ひとまず一旦お休みですね。