2013年1月20日日曜日

Acuent Road in Setagaya ward, Kamakura-michi / 世田谷区の古道、鎌倉道

碑文谷公園西に位置する鎌倉道 東ルート
頼朝挙兵の際、義経が平泉から馳せ参じた道であり、
壇ノ浦の後、頼朝が奥州征伐で平泉に向かった道。

鎌倉道というと、鎌倉時代に、御家人たちが、『イザ、鎌倉!』と、それぞれの領地から鎌倉に馳せ参じた道だ。

世田谷には、鎌倉道に所縁のありそうな通りや橋、史跡が幾つかある。今回は、それらを通して、世田谷と鎌倉道の関わりや歴史を紐解いてみたいと思う。

1. 鎌倉通りと北沢川に架かる鎌倉橋(太子堂八幡ルート)

京王井の頭線下北沢駅西口の踏切を南に渡り道なりに進むと、小田急線の踏み切りに出て、それを渡りほぼ真南に道なりに進むとやがて北沢川に出る。その橋は鎌倉橋で、その通りは鎌倉通りだ。世田谷に、何故、『鎌倉』なのか。通りは南北で鎌倉に向かってもいない。

北沢川に架かる鎌倉橋
鎌倉通り
古道の雰囲気が残る道だ。

謎を解いてくれるのは、そのまま南に進んだところにある太子堂八幡だ。

太子堂八幡

境内掲示の由緒によると、

『平安時代後期源義家が、父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中、この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から、少なくとも、これより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で、鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。』

源頼義・義家親子の、陸奥の阿部氏討伐とはつまり前九年の役で、源頼義が陸奥の守として奥州に赴任したのは1051年だ。この道は、1051年には既に成立していたということになる。

2. R20上北沢駅入口付近にある鎌倉街道入口(西ルート)

R20の鎌倉街道入口標識

この道を北上すると神田川があり、そこに架かる橋がやはり鎌倉橋だ。

神田川に架かる鎌倉橋の袂にある石碑

神田川に架かる鎌倉橋を渡り、西永福方面に進み、方南通りに出て暫くすると、大宮八幡がある。

大宮八幡

大宮八幡の由緒によると、

『鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。

また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。』

太子堂八幡ルートは前九年の行きに通ったとのことだったが、この西ルートの場合、前九年の役の行きと帰り、源頼義・義家親子がここを通ったとのことだ。更に、このルートの場合は、後三年の役の帰り、よって1087年頃、義家が再びここを通っていることになる。

逆に進んでみよう。

R20の鎌倉街道入口から、上北沢駅に向かい、松沢病院を抜け、八幡山グラウンドの北辺を西に、環八を渡り、芦花公園の北辺を西に、芦花公園西の交差点を南に。あとは一本道で、祖師谷大蔵の駅を過ぎ、やがて、津久井往還と出合う。

芦花公園西の交差点と祖師谷大蔵の間の南北の一本道、祖師谷大蔵の駅の手前に、祖師谷神明社がある。

祖師谷神明社

ここの伝承は、

『古老の口碑によると、正平年間(1346-69)に新田義興・義宗兄弟等が足利尊氏討伐の挙兵をしこの地に来た際に小祠があるのを見て、祭神の何たるかを聞き、天照皇大神であるのを知り、新田兄弟は、「吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなり」として戦勝を祈願し甲冑一式を献じ兵を励まして出発したと伝承されている。』

この伝承では、1335年の中先代の乱の際、この道が使われたことになる。

3. 千歳船橋の鎌倉道伝承(千歳船橋ルート)

能勢公園世田谷区案内板

※見易くする為、天地逆にしてある。

多少分かりづらいが、画面左下に、『鎌倉道』を確認できると思う。写真地図では橙の道筋が該当する。

また、千歳船橋の船橋の地名の由来だが、世田谷区によると、

『ずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200メートル、長さ1800メートルくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は、古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところは、かつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。』

確かに、この道をまっすぐ北へ進むと、上北沢駅の南で、西ルートとぶつかる。

4. 世田谷八幡(世田谷八幡ルート)

世田谷八幡

世田谷八幡の由緒は、境内掲示によると、

『義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。』

と、西ルート同様、義家後三年の役の帰り、世田谷八幡に寄ったとのことだ。

尚、この道は、北へ行くと笹塚で、太子堂八幡ルートとぶつかる。

5. 駒繋神社、芦毛塚(東ルート)

芦毛塚

祐天寺の駅の西、世田谷の下馬に、写真の芦毛塚がある。頼朝が奥州征伐で平泉に向かう際、このすぐ北を流れる蛇崩川に、乗っていた芦毛の馬が足を取られ、転倒し、死んでしまったことから塚を建てたという伝承が残る。その時、頼朝は、家臣たちに、馬を下りて渡河するよう指示したことから下馬、川を渡り再び馬に乗ったことから上馬という地名が起きたという伝承がある。(が、上馬・下馬は、上馬引沢と下馬引沢から来ている。上下は京に近い方が上、遠い方が下で、馬引沢は、既述の伝承から来ている。)

蛇崩川沿いに西へ行くと駒繋神社がある。

駒繋神社

駒繋神社の由緒は、

『源義家が父頼義公とともに朝廷の命をうけ奥州に向かう途中、この地を通過するさいに、子の神に祈願参拝休憩したと伝えられる。また、文治五年(1189)七月源頼朝が、源頼義・義家という先祖に倣い、藤原泰衝征伐のため立ち寄り祈願したさい、愛馬を繋いだ松を駒繋とよび、のちに駒繋神社と称するようになったとされる。』

3代目駒繋ぎの松

と、太子堂ルート、西ルート同様の源頼義・義家親子の前九年の役に向かう際の伝承と、頼朝奥州征伐の伝承が残っている。

又、このルートは、冒頭の写真のキャプションで記載したように、義経が、兄頼朝挙兵の際、平泉から鎌倉へ馳せ参じた道という伝承も残っている。弟義経が、未だ見ぬ兄、憧れの兄に会いに行った道なのだ。

頼朝が奥州征伐に向かう時は、義経は、藤原泰衡の裏切りにより既に自害していた。泰衡は、義経の首を酒に浸した瓶を頼朝に送り、なんとか征伐をやめてもらうようにしたという。頼朝の許可無く義経を討ったことに激怒し頼朝自ら奥州に向かった訳だが、それだけだったのだろうか。頼朝は弟義経を生かしたかったのではなかろうか。この道を行く頼朝の心を思うと・・・

6. 世田谷元宿ルート

世田谷元宿というのは、吉良氏が世田谷の地を拝領し、世田谷城築城後に開発した鎌倉道の宿場だ。場所は、今の世田谷区役所辺りという。時代は下り、後北条氏の時代、宿場は拡大され、新宿ができる。新宿では楽市が開かれ大いに賑わった。新宿は拡大し、上宿と下宿に分かれた。上宿は今の上町に名残がある。尚、上宿の楽市が今に残るのがボロ市だ。

世田谷元宿のあった辺り、現在の世田谷三丁目交差点付近

この世田谷元宿を通るのが、世田谷元宿ルートだ。ここまでご紹介した1~6のルートは、全て、鎌倉時代かその直前の平安末期(源頼義・義家の東国拠点は鎌倉)で、鎌倉の必然性がある。が、このルートは、吉良氏が開発した世田谷元宿を通っていることから室町期のルートとのことだ。

何故、室町期に鎌倉か。

1356~1365年の間、吉良治家は、鎌倉公方足利基氏から上野国碓氷郡飽間郷の地を与えられ、その後、武蔵国世田谷も拝領、やがて世田谷城を築き、本拠を世田谷に移した。鎌倉公方は鎌倉将軍と言われ、東国において最高の地位にあった。その次が官領で、その次が御一家。吉良氏は、ご一家に列し、足利一門として、無御盃衆とされ、格別の処遇を受けた。

鎌倉と上野国碓氷郡飽間郷のルート上に、世田谷はある。

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源頼義・義家親子の前九年の役の伝承は、幾つかのルートで重なっている。どちらが本当か、はたまたどちらも単なる伝承の域を出ないのか、それは分からない。

その後の頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟の伝承も、その域を出ないかもしれない。

が、この辺り、世田谷の地を、1000年近く前に源頼義・義家親子、頼朝・義経兄弟、新田義興・義宗兄弟が通って、我が先輩方と何らかの交流があったのだと思う。

そう思うと、何だか楽しいではないか。実際、私は、こうして調べたり、実走したりして、歴史に思いを馳せることができて、楽しかった。


より大きな地図で 世田谷区の鎌倉道 中道 を表示

鎌倉道 中道の地図

太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、北では笹塚で繋がっていて、南では大山道で繋がっている。

西ルートと千歳船橋ルートは、津久井往還で繋がっている。

西ルート、千歳船橋ルート、太子堂八幡ルート、世田谷八幡ルート、世田谷元宿ルートは、中野通りの十貫坂上で繋がっている。

地図を見ると、現実には、多摩川の状況で渡し位置を変え、渡し位置によってその日の道筋を変えていたのかもしれない。

又、大山道、津久井往還の成立時期は、平安末期頃なのだと推定できる。大山道は、後北条氏居城小田原城と世田谷城、江戸城を結ぶルートであることから、戦国時代に成立したと思っていた(http://yogismessage.blogspot.jp/2012/12/blog-post_23.html)が、それより早いかもしれない。

一方、東ルートだけは、赤羽で全てのルートと接続するものの、南側はどことも接続していない。頼朝伝承があるのも東ルートだけで、そのことと何か関係があるかもしれない。

以上

2 件のコメント:

  1. 写真の画像が表示されません!

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  2. コメントありがとうございました。また、返信遅くなり申し訳ございません。本件、申し訳ございません。その通りで、Google側の原因により、画像が表示されなくなってしまっております。調べますと、同様の障害が発生しているようですが、Googleから対応策は出てないようです。GooglePhotoには画像は残ってるんですが。これを理由に一時、他のblogに乗り換えてました。

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