旧道に入ると、緩い下りで、直ぐに伊勢丸稲荷がある。
伊勢丸稲荷 |
何とも、今の神社事情、世知辛い世を象徴しているようでもあり、しぶとく生き残っているようでもあり。社内の石碑によると、戦国末期にとある家の屋敷神として建立したものが、江戸初期の頃には村持ちとなり、その後、合祀や移転もあったものの、現在、元あったここに御鎮座しているとのことであった。
下り切った所は蛇崩川の跡だ。
蛇崩川跡 |
再び緩やかに上り、玉川通りに復帰する。環七を上馬の交差点で過ぎると直ぐ、宗円寺がある。
宗円寺 |
1317年、北条維貞により開基の古寺。吉良氏以前の世田ヶ谷は、この、北条維貞が、領地としていた。環七を北上したらある駒留神社も、北条維貞が勧請した。ちょっと寄ってみよう。
駒留八幡 |
1308年、北条維貞が勧請。この時、自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。又、世田谷区の悲劇のヒロイン、常盤も、敷地内厳島神社に祀られている。
大山道新道に戻る。暫く行くと、新町一丁目の追分だ。旧道は、呑川を避け、右だ。入って直ぐ、善養院がある。1616年開基、1653年開山。
直ぐ先に、久富稲荷がある。創建は江戸期。何と言ってもここは、250m続く参道だ。
久富稲荷 |
大山道に戻り、暫く行くとお地蔵さんがいらした。
地蔵 |
坂を下ると追分がある。右が旧道で、大山道旧道と合流する。ゴールだ。
さて、大山道の旧道と新道をexploreした。旧道は、後北条氏居城、小田原城、江戸城、そして、その中間点たる世田谷城とを結ぶ、後北条氏の道、軍用の道だった。だから、橋の無い川、急勾配を避け、道が成立していた。その象徴は、三軒茶屋の追分と、新町一丁目の追分だ。
その後、江戸期に入り、赤坂御門から足柄峠を抜け、駿河国沼津宿に通ずる矢倉沢往還として利用され、大山詣が盛んになるに連れ、大山詣の為の道に用途が変化して行った。
新道の方はというと、すっかり平和となった江戸中後期の道で、兎に角、最短距離を優先した道筋となっている。
北条維貞が登場してきた。後北条氏の前の時代、吉良氏世田谷領拝領前の時代である。
尚、頼朝の妻、北条正子後の北条氏と後北条氏は異なる家系だから混乱無きよう。
一瞬、先の大山道成立推理に影響すると思ったが、北条維貞は、宗園寺南の鎌倉道中道本道(現駒沢通り)を使ったと思う。
大山道というと、大山詣の道で間違いないのだが、道そのものは、後北条氏の時代から軍用の道としてあり、それは、地図と睨めっこすると浮かんでくる。この推理が楽しくてたまらない。
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