2022年5月19日木曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、稲毛三郎重成道

前回、マイナー鎌倉街道シリーズ第一弾、"頼朝奥州合戦道" と題して、鷺沼駅から登戸の渡しまで、ほぼ真北に行く鎌倉街道をexploreしました。

東京西部と多摩丘陵の鎌倉街道は行き尽くしたと思ってましたが、確かに、部分部分は走ったことがあるルートでしたが、トータルとしては、初めてのルートで楽しめました。

ハイライトは、土橋の地名由来となった、東名川崎インター下の土橋跡でしたね。

東名川崎インター下に奇跡的に残る頼朝奥州合戦往路に使った道(私的推測)

さて今回は、稲毛三郎重成道です。


下図陰影起伏図の上部で、左上から右下に青い線が薄っすらと見えると思います。それが多摩川です。

一方、画面右下の半島は三浦半島です。三浦半島の付け根、西側には鎌倉があるわけです。

その間、画面いっぱいに縦にゴツゴツとしたエリアがありますが、これが多摩丘陵です。

多摩丘陵の陰影起伏図

こうしてbig pictureで捉えると、多摩川より北に対して、つまり奥州藤原家に対しては、鎌倉は、多摩丘陵によって守られている、と、言え、多摩丘陵の北端である多摩川縁はその前線基地であることが分かります。

その前線基地には、稲毛三郎重成の城が並びます。

左から、小沢城、菅寺尾城、枡形城、長尾砦(威光寺 = 現妙楽寺), 作延城

今回はこの城を結ぶ城道をexploreします。

◇■□◆

鎌倉街道中道本道で、まずは赤城神社に向かいます。

赤城神社

元は稲毛三郎重成が、頼朝の命で1184年に作延城を築城、その際、城の巽の方角に第六天を祀ったのが始まりで、後、1193年に頼朝が那須野原に巻狩の際、頼朝あるいは同行した稲毛三郎重成が赤城神の霊夢を見、帰国後、第六天に合わせ祀ったといいます。

巽の方角というと吉の方角で天守や城主館を位置させると言います。確かに、迅速測図を見ると台地の巽の方角に位置しますから、ここに天守あるいは城主館があり、その直ぐ近くに第六天を配置したということでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムより、ちょうど、十字に赤城神社を配置、台地の巽の方角の端になります。

この辺りは久地神社、溝口神社と赤城神信仰が盛んですね。始まりはこの赤城神社でしょうか。

さて、作延城に登城しましょう。城の構造は分かってないようですが、上作延団地入口からのアプローチが雰囲気有りということらしいのでここからアプローチです。

谷戸を利用した入口ですから、切り通し状になってます。昼尚暗く良い雰囲気です。

そしてこちらは作延城の碑。赤城神社の近くにあります。

作延城碑

緑ヶ丘霊園と東高根森林公園、そして長尾神社までが作延城の全体像だったのではないかと想像します。

歴史的農業環境閲覧システムより、右下が赤城神社です。ここから山が西に展開し、途中、東名が溝のようになっています。その直ぐ東が東高根森林公園、西が長尾神社の台地、更にその西が平瀬川の支流で、ここまでが城の範囲だったんじゃないかと思います。

今回はこの山の尾根道をトレースするルート設定です。前回学習しましたね、鎌倉〜室町の武士の時代は、尾根、尾根、尾根です。迅速測図では、太い線より一本線に注目です。

東名を越える手前に松寿弁財天があります。

松寿弁財天

ここは稲毛三郎重成が馬の綱を下げたという綱下げ松があったとの伝承があります。

それにしてもここは急峻で、天然の切岸のようです。

歴史的農業環境閲覧システムより、十字の直ぐ上の等高線の密なこと。十字が乗ってる一本実線を右に行き崖に行き当たった所に松寿弁財天があります。

ほぼ90度

先を行きましょう、妙楽寺です。

妙楽寺

あじさい寺の愛称も持っているので、少し早かったですが早咲きのものを撮影

妙楽寺は、851年、慈覚大師円仁による開創の威光寺が後に妙楽寺になったと言われ、1180年には、頼朝が弟の阿野全成に与え、源氏の祈祷所となったという伝承があります。

寄りませんでしたがここまでの途中にあった等覚院は第5代天台座主円珍、こちら妙楽寺は第3代天台座主円仁縁と、この辺りは天台宗の進出が盛んだったのでしょうか。古代東海道だった現中原街道沿い、野川から高田にかけても円仁縁の寺が集中しています。

先を行きましょう、長尾神社です。

長尾神社

先程の妙楽寺とここ長尾神社の両方で、長尾砦を形成していたのではないかと言われています。地形を見ると、納得出来ますね。

歴史的農業環境閲覧システムより、赤点を打ちました。右上が妙楽寺、左下が長尾神社です。妙楽寺は多摩川に向った切岸の縁に建っています。その奥(南)の広い平地(権現祠とある。), 如何にも主郭という部分が長尾神社です。

妙楽寺裏の崖を登頂部から見下ろす、迅速測図の一本点線徒歩道と思われる道が残ってました。

と、ここまでが、長尾砦を含む作延城です。

さてこの先ですが、

歴史的農業環境閲覧システムより

右の赤点が長尾神社です。その左の赤点まで一本実線荷車道で行き、その更に左の赤点部の一本実線荷車道に繋ぎたいんですが、尾根はあるものの道は無いですね。その下、青点のように、一旦、川まで降りる道(一本点線徒歩道)はありますが、わざわざ一旦川に降りる必然性は無い(現実問題として公園になっていて行けないし)ので、ここには道は無かったと理解します。ということで、緑点のルートを想定し先に進みます。撮影しませんでしたがかなりの崖を降ります。ここら辺りは全部そうですね。

長尾神社から崖を降りる地点の眺望、大山と富士山

今尚残る土道

すると道はやがて向ヶ丘遊園駅菅生線にぶつかり、山を下りて広福寺に向かいます。

暗闇坂を上り、、、

広福寺に到着です。

広福寺は稲毛三郎重成の居館跡とされ、稲毛三郎重成の墓があります。

稲毛三郎重成と妻の墓

寺としても、承和年間(834~848年), 慈覚大師円仁による開創ですから、ここも、等覚院、妙楽寺と同様に、天台宗進出の痕跡でもありますね。

広福寺から枡形城に向かう道は大手門だったようでこの道で枡形城に向かいます。

枡形城への大手道

作延城は1184年、長尾砦は1180年に築城ですが、ここ枡形城は、少し後の建久年間(1190〜1199年)に築城と言われています。

枡形城碑

枡形城から、奥州藤原家方面の眺望

来た道を戻って小沢城に向かいますが、その道はこの尾根道なのだと思います。

歴史的農業環境閲覧システムより、赤点が枡形城、黃点のように枡形城と小沢城の山との間には五反田川があり、これを避けようとすると大回りとなりますから、ここで一旦枡形城大手門から谷へと降り、その後、五反田川を渡河し、目の前の舌状台地の先端から緑点の尾根に上がって行ったんだと思います。

ここは東生田緑地で、当時のままと思われる土道が残っています。クロモリを押し・担ぎで進みます。

尾根に残る土道、稲毛三郎重成が通った時のままか

その2

その3, 多摩川方面の眺望

その4

生田東高、生田配水池を過ぎ、寺尾台団地方面に向かいます。

寺尾台団地に向かう道すがらの霊峰大山と富士山、ずっと南東から北西への尾根道だったので、丹沢山塊と富士山の眺望が良かった。

ここに、菅寺尾城があります。

菅寺尾城の郭と思われる平地

ここは詳しいことは分かっていませんが、一応、後北条氏家臣の諏訪氏の城、と言われていますが、同時に、小沢城と枡形城の間に位置し、両城の伝えの城とも言われていて、もしかしたら、稲毛三郎重成の時代から機能していたのかもしれません、ということで訪問したのです。

またここには、寺尾台八角堂跡(菅寺尾廃寺)があり奈良時代には橘樹郡の郡寺であった影向寺と同じような公的性質を持った大寺院があったと言われています。等覚院、妙楽寺、広福寺開創の更に100年程前に既にこの地に仏教勢力が進出していた、ということになります。空海が真言宗を、最澄が天台宗を起こす前の話です。そんな古い時代に都から遠く離れたここ東国に、仏教が進出していたんですね。

寺尾台八角堂跡

その後、この道は日本女子大学西生田キャンパスの西縁を北上、

地図を見ていた時は舗装路かと勝手に思ってたんですが、、、

とうとう最後まで土道。先の写真を見ると分かりますが杉並木ですね。迅速測図では一本点線徒歩道でしたが、それなりの格を持つ道だったと思われます。

よみうりランドに到着したら、再び、東に伸びる尾根を行きます。もう古道は跡形も無いですが。

この尾根の先、多摩川縁には、薬師堂があります。

薬師堂

この薬師堂は、稲毛三郎重成が建久6年(1195)に建立しました。この建久6年(1195)に妻が亡くなっています。稲毛三郎重成は出家し、ここ菅に極楽寺という寺を建て妻を手厚く葬りました。今尚残るこの薬師堂はその一部といわれています。

その後、極楽寺は1333年の元弘の乱で焼失、衰退し、天文2年(1533)には極楽寺と法泉寺が合併となっています。

さてこの先は、よみうりランドの外周を行って、ゴルフ場からは多摩郡・橘樹郡の郡境道を東に行くと小沢城です。

小沢城碑

郭と思われる平地

多摩郡と橘樹郡の郡境に残る尾根道、義経が、稲毛三郎重成が、尊氏が、直義が通った。向うは鎌倉方面。

作延城は1184年、長尾砦は1180年、枡形城は建久年間(1190〜1199年)に築城です。小沢城は詳らかならずですが、稲毛三郎重成は、当初、小沢城にいたのを、小沢城は息子の小沢小太郎に譲り、自分は枡形城に籠もった、と、あり、枡形城は既述のように建久年間ですから、小沢城はその前、1180年代後半の築城ということになりそうです。

◇■□◆

如何でしたでしょうか

頼朝は、奥州藤原家からの攻撃の鎌倉防衛の最前線、多摩川縁に、1180年、まずは、異母弟阿野全成を長尾砦(威光寺現妙楽寺)に送り込み、1184年、義理の弟でもあった稲毛三郎重成に作延城を作らせたのです。

これら、長尾砦(威光寺現妙楽寺), 作延城は、奥州から鎌倉へと伸びる鎌倉街道中道の、本道ルートに相対していました。

その後、更なる鎌倉防御として、上州へのルートとなる鎌倉街道上道の押さえを、稲毛三郎重成に、1180年代後半、小沢城、築城させました。

稲毛三郎重成自身は、その後、隠居し、小沢城は嫡男小沢小太郎に譲り、1190年代、自身は枡形城を築城し、枡形城・広福寺に移ります。枡形城は、鎌倉街道中道登戸ルートに相対しています。

しかし悲しいかな、1195年には妻が亡くなり、小沢城と枡形城の間の尾根に、極楽寺を開創します。

そして1205年の畠山重忠の乱で、無惨、北条時政の謀に踊らされ、最後は三浦義村に斬られるのです。

今回ご紹介した全ての城は、過去、訪問済みですが、迅速測図の太い線、両実線県道、片実線片点線村道クラスで繋いだだけでした。

今回、尾根道に拘りルート設定してみると、意外に良さそうなルートとなりました。これは再発見でした。

さて、稲毛三郎重成道と言えば、綴党(綴喜党、都筑党)のその1, 石川牧で行ったルートも稲毛三郎重成道です。

2022年5月4日水曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、頼朝奥州合戦道

先日の綴党(綴喜党、都筑党)その1で石川牧をexploreした時、往路は、鎌倉街道中道支道荏田〜登戸ルートを使いました。

その2では、鎌倉街道中道上道連絡路原町田〜鶴ヶ峰を行きました。

多摩川から西の、武相国境までの鎌倉街道はメジャーなものからマイナーなものまで知り尽くしている、既に走った、と、思っていましたが、これらのルートは知りませんでした。

まだまだ知らないルートがあるんじゃないか、と、一度走ったところも含めて、洗い直そうと思いました。

と、いうことで新シリーズ、マイナー鎌倉街道のスタートです。

まずは先日の鎌倉街道中道支道荏田〜登戸ルートの東側を並行して走る、鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートです。

□◆■◇

往路は鎌倉街道中道本道でもある大山街道で鷺沼まで。

嬉しいことがありました。

この大山街道、多摩川を渡った後、多摩丘陵に上がりますが、以降、アップダウンが激しいんです。

まずは溝口駅付近の多摩丘陵に登るねもじり坂(20m), 次に庚申坂を下り切った後の宮崎台駅付近の登り返し八幡坂頂上まで(28m), 最後に八幡坂を下り切った後の宮前平駅付近の鷺沼駅までの登り返し(45m)。

登り切れるかな、いや、登れないな、と、思ってたんですが、今日はクロモリだし、、、登れたんです。ダンシングのコツを掴んだようです。

鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートは、ここ、鷺沼駅から分かれています。

画面真中十字に、南東と南西から一本点線徒歩道が来て合流し、北西に向かっているのが分かると思いますが、南東からの道は一際太い道、これが大山街道ですが、そこから分岐しています。この一本点線徒歩道が件の鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートです。

思うのは鎌倉街道というのはつくづく尾根道だということです。

明治13〜19年に作られた迅速測図、その時代は世の中は安全で、アップダウンの少ない楽な道を選んで良いのです。結果、川沿いの道がよく使われるようになり、地図上で太い線で表されるようになりました。

一方、武士の世であった鎌倉〜室町時代は、安全最優先ですから、見晴らしの効く尾根道なんです。

迅速測図の時代には、スッカリ廃れて一本点線徒歩道になってますが、この道が、鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートなんです。

今後、マイナー鎌倉街道を見つけていくに際し、重要な認識ですね。

このルート上には、頼朝に関する伝承が幾つか残っています。
  • 茶筌松、1189年の奥州合戦の往路、頼朝がここで茶会を開き、ここにあった松の葉を茶筌代わりに使った。
  • 鞍掛松、同じく奥州合戦の往路、頼朝が鞍を掛けた松
茶筌松と鞍掛松の間にあるこの尾根で最も標高の高い梵天山の南(鎌倉方面)の眺望、鎌倉から来たら、八幡坂を登り切って多少のアップダウンの後に最高標高ですから、ここで馬を降り、鞍を掛け、鎌倉を望みながら茶会を開いたんじゃあないでしょうか?!

さて、この後、道は矢上川に向かって急降下していきますが、下り切った所には東名川崎インターがあって抜けられません。

大きく迂回し、やはり1189年の奥州合戦の往路で、頼朝が橋を架けさせたという伝承が残るどんどん橋です。この辺りの地名、土橋の由来となった伝承となります。

道が残っているの分かりますよね?!, このスクショは現場で撮りました。ちょうど正に立っている場所がどんどん橋を架けた場所と思われます。

振り返って撮った写真、車停めがある藪の道が頼朝が通った鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートの古道、奇跡的に残ってました。藪道の右に暗渠がありますが、これは後年、付替えされたものと思います。迅速測図には無いですから。

左(西)を向いた写真、歩道に見えるのは矢上川の暗渠、四角い網の暗渠カバーが続いてます。

正面(北)を向いた写真、僅かに上ってるのが分かると思いますが、その台地の縁を横に走るのが迅速測図にもある片点線片実線の村道古道

その後、ラブボを左に見やりながら標高差35mの登りをクリアし、平瀬川に下り切る手前の初山地区の島坂の風景です。

馬頭観音と鎌倉街道

馬頭観音の西の農家の屋敷、屋根の上に屋根、これは屋根裏にお蚕さんの部屋がある証拠。東側の畑、島坂を降りた平瀬川沿いの田んぼと、養蚕もやってらしたんですね。青いカバーの下は茅葺きでしょう。古いお屋敷なんだと思います。

切り通しの片側だけ残る

この先のとんもり谷戸でランチの予定ですがその前に、白幡八幡大神です。

1061年、源頼義、前九年の役凱旋の折、創建。後、1192年、頼朝再興。

由緒からして、やはり、ここが鎌倉街道の証拠です。

とんもり谷戸に到着し、ここでランチ。

八幡神社跡、新緑が眩しかったです。

ようやく晴れてきました。鎌倉街道を復路にしたこと、正解でした。

ランチの後は、とんもり谷戸の東側の道が鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルートですが、途中、崖上に上がる階段が。


これは迅速測図に載る一本点線徒歩道の古道です。

十字から上に伸びる一本点線徒歩道

この道を尾根まで登り切った所にある馬頭観音。

馬頭観音、左の道が尾根道で鎌倉街道中道支道鷺沼〜登戸ルート。右はおし沼に降りる道。

ここで、1275年、佐渡に流罪となった日蓮を鎌倉から訪ねる際、日朗が一夜の宿を求めたという伝承があり、これが、本遠寺に繋がったと言われています。

本遠寺

これも、この道が鎌倉街道である証拠と言えるでしょう。

尾根道を先に進むとおし沼広場がありますが、その南を行くアスファルトの道ではなく、広場内の土道が古道です。

よくぞ、残してくれました

おし沼広場から坂を下り生田緑地メインエントランスの前を過ぎて、登戸の渡しを渡ってexplore完了です。

◆□■◇

如何でしたでしょうか。

初山の島坂から登戸へのルートは何度も走ったことがありましたが、島坂までは初で、楽しめました。

各地の伝承も調べつつ、尾根道を探して、マイナー鎌倉街道を探していきたいと思います。