下記GoogleMapsをご確認ください。
狭山湖・多摩湖を取り囲むように、鳥居マークがあると思います。
1000年以上の歴史を持つ神社のみ、マーキングしています。
これ程までに集中しているのは、世の中に全く無いとは言いませんが、少なくとも私自身には他には経験が無いですね。
何故、この地にこれ程までに古社が集中しているのか。これが宿題だったのです。
左上から時計回りに祭神も含め整理すると、
でも出雲が東国、武蔵国?
これについては、昭島市史が渾身の記事を書いてくれています。
"式内社より見た武蔵国の開拓者" というタイトルで推論を繰り広げているわけですが、要約させていただくと、
- 北関東に出雲系神社は濃密であり、逆に南関東では大和系神社が濃密
- 毛野と関係の深かった武蔵に、出雲系神社の多いことは、両毛地方に出雲系神社の多い傾向が、北関東から南下伝播して、武蔵国に波及した。
- 上野・下野の文化は、東山道を通って、北陸-信濃を経て入って来たもので、その文化を担う人びとは出雲系氏族の分派であった。
- 両毛地方に進出した出雲系の集団が南下してきて、武蔵野に北方から南下して土着し、武蔵野の開拓者として、この台地の上に拡散した。
- 武蔵国の古い時代の開拓者として移動・定着した出雲系氏族集団
- 大国主神(大己貴命)を祭る集団で出雲の主神としてこの神を奉祀する出雲族
- 少名彦那命を祭る集団、少名彦那命は、海を渡って出雲に渡来した客神であり、これは海神系の神である。したがって出雲に渡来した漁撈民が斎き祭った神であり、固有の出雲族とは異った種族の集団とみられる。それはおそらく南方系種族であり、阿曇族系で、出雲族と共に東方へ移動し定着した。
- 素戔鳴尊を祭る集団、素戔鳴尊は新羅から出雲へ渡来した異族の神である。したがってこの神を奉斎する集団は、古い新羅系の帰化氏族集団であった。この神を奉斎しながら、出雲族と共に同じルートを通って移動し、東国にまで拡がった新羅系帰化人集団。
- これらの人びとは東山道を通って北関東から南下して武蔵国に入ったか、あるいは信濃より分れて甲州路を通って西北から武蔵国へ入って来た。
はい、出雲族が、東山道を南下して、あるいは甲州道から東進して武蔵国に進出してきたんですね。
確かにここ狭山湖・多摩湖の丘陵地続きに、八国山がありまして、そこに、東山道武蔵路が南北に通っています。
また、これを裏付ける話もありました。氷川神社についてです。
奥氷川神社明細帳に、
"武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ケ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称ス"
とあって、更に、奥多摩町史では、
"牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。"
正面の独特な形をしたのが愛宕山 |
とあって、つまり、出雲族は太平洋を東進し、多摩川を遡り、下流に拠点を持った後、更に上流へと遡って奥多摩に辿り着き、奥氷川神社を創建し、次いで、武蔵国成立、国府を府中にという時期ですから710年代に中氷川神社へと移し、更にその後、大宮に移したということで、その際、出雲族も伴って移動したものと推測されます。
奥氷川神社 |
宇名根氷川神社、2020/8撮影。既述の、"出雲族は太平洋を東進し、多摩川を遡り、下流に拠点を持った後" の該当氷川神社は、ここしかないと思います。参考。 |
甲斐国から大菩薩峠を越え多摩川沿いに奥氷川神社に辿り着いたのではなく、太平洋から多摩川を遡りという点が若干引っ掛かりますが、甲州道以外の可能性と捉えれば、概ね、裏付けていると言えるでしょう。
さて、出雲族は奥氷川神社からどのような道筋を辿って中氷川神社、大宮氷川神社へと移動していったのでしょうか。
青梅までは多摩川沿いを来たんだと思います。
青梅から東を望めばそこは武蔵野台地、広大な荒野が広がっています。そのど真ん中に狭山丘陵があるのです。ランドマークですね。まずはそこを目指したのではないでしょうか。
狭山丘陵から先は、鎌倉街道羽根倉道を使ったのだと思います。※GoogleMaps参照
ということで今回は、狭山湖周辺の出雲系古社を巡りたいと思います。
◆□■◇
まずは山口の中氷川神社です。ここは、村山党シリーズで訪問済みです。
山口中氷川神社、2022/1/29撮影 |
中氷川神社の謂れは冒頭既述の通りで、氷川神社と言えば出雲系神社の代表格ですから説明は省きます。
既述のように奥氷川神社神明帳には三ヶ島の中氷川神社がmentionされていますが、社記に、領主山口家継が社殿造営とありまして、山口家継は平安末期の村山党武士ですから、少なくとも平安末期には存在していた神社です。
先を行きましょう、北野天神社です。
ここはスゴイ。
延喜式神名帳に載る物部天神社であり、同じく式内社の国渭地祇神社も合祀しており、一説にはやはり式内社の出雲祝神社も合祀しているといいます。
国渭地祇神社は祭神が八千矛尊でこれは大国主大神ですから出雲です。
物部ですが、恐らくですが、物部直広成を祀ってるのではないかと推測します。
物部直広成は入間の人物で、764年の藤原仲麻呂の乱で活躍しています。
この物部直は、武蔵国造の笠原使主の系統で、出雲族です。出雲族なのに名前が物部なので非常にややこしい。
このややこしさが出てしまっているのだと思わざるを得ませんが、祭神は、ホンモノの(と言っては物部直広成に失礼ですが、分かり易くする為に敢えて)物部氏の饒速日命なんですね。
続いて三ヶ島の中氷川神社ですが、北野天神社の直ぐ西の道を北上します。今はそのまま西へ行く道がありますが迅速測図の時代にはありません。と、いうことはそれ以前にも無かったでしょう。そして、東川を渡る直前で西へ行き、突き当ったら右、そして直ぐ左、が古道です。
そしてこの古道は、畑の中の一本道なんですが、正に、"原" で、奥多摩、秩父の山々が見渡せます。そうです、ここは数々の合戦が繰り広げられた小手指ヶ原です。
小手指ヶ原の真ん中を行く古道、奥多摩・秩父の山々が見えます。 |
そして三ヶ島中氷川神社に到着です。
三ヶ島中氷川神社、崇神天皇の御代、素戔嗚命とその妻稲田姫命を祀り、その後、日本武尊が大己貴命と少彦名命を祀ったとのこと。これらに加え、奥多摩、大宮の氷川神社同様、アラハバキ神社に足名椎命・手名椎命も祀ってます。奥多摩氷川神社から移動したのなら当然ですね。 |
既述のように、奥氷川神社によればこちらが本命のようですが、何れにしろ、ここ狭山湖周辺に中氷川神社があることは確かということですね。
先を行きましょう、出雲祝神社です。
出雲祝神社 |
毛呂の出雲伊波比神社、北野天神社、川越氷川神社などと共に式内社出雲伊波比神社の論社です。
創建年詳らかならず、ですが、大宝2年、ですから702年の棟札を所蔵している古社中の古社です。
祭神は、風土記では素戔嗚命ですが、現在は、天穂日命、天夷鳥命、兄多毛比命の三柱となっています。何れにせよ、出雲の神々ですね。
面白いのは菅公も祀っていて、その由来は、三男道武が全国行脚の際、ここを訪れたということから、というのですが、ん?!どこかで聞いたことがあるな、、、と、谷保天満宮の縁起を見てみるとやはりそうでした。菅原道真の太宰府への左遷と同時に三男の道武は東国へと流されていたが、父の訃報を知り自ら父の像を彫りそれを収める堂宇を創建したのが始まりです。
尚、この三男道武は記録に無い人物なんです。どーも、無理やりとってつけた感が拭えませんね。谷保天満宮も私はご神体は拝殿背後の湧水で、多摩川旧流路を考えたら布田天神、穴澤天神と同じ出雲系なのではないかと思ってます。
出雲系は、菅原道真を持ってくる傾向があるのでしょうか・・・。
北野天神社も既述のように出雲の神社なんですが、その名の通り菅公を祀ってます。その謂れは、菅原道真の5代後の武蔵国司菅原修成が京都北野天神を祀ったということで、確かに、大日本史によれば菅原修成は995〜996年、武蔵国司でしたから、三男道武の話に比べると確からしいのですが、どうも、北野天神社と出雲祝神社とで、伝承が混ざってしまってないですかね、、、。
と、いうことで、出雲族 + 菅原道真で、検索してみると、そう言えばそうでした。菅原道真は出雲でした。
出雲族の祖神、天穂日命の後裔とされる野見宿禰を祖とする土師氏がありますが、平安期に、菅原氏など幾つかに改名してます。菅原道真はこの土師氏系菅原氏なんです。
だからなんですね。
天津神を天神と言い、後の菅原道真大ブームに乗って、天津神を祀る神社が菅原道真を祀る神社に変わっていった、変わらないまでも主祭神に入れ替わった、というようなケースがありますが、それだけじゃいんですね。
出雲族を探す際の一つのキーワードですね、菅原道真は。
狭山丘陵をグルっと南に回り込んで、
出雲祝神社、西久保観音堂付近から茶畑越しに奥多摩・秩父を望む |
最後は阿豆佐味天神社です。
ここは村山党シリーズで訪れていました。
縁起は冒頭の表の通りですが、少彦名命ですね。
ご紹介した昭島市史によれば、少彦名命を祀る出雲族は、大国主大神や素戔嗚命を祀る出雲族とは異なるとのこと。他の出雲系神社が全て狭山丘陵の北側なのに、この阿豆佐味天神社だけは南側ですが、何か、関係があるんでしょうか。
■◇◆□
如何でしたでしょうか。
中氷川神社の論社が2つ、出雲伊波比神社の論社が2つあるので集中して見える、ということもありますが、逆に言えばどうやらここに中氷川神社と出雲祝神社がありそうだということです。
地質図の所で述べましたが、武蔵野台地は一面のススキの荒野です。そんな中、唯一の緑が狭山丘陵だった、だからここに人が集まった、出雲から北陸、諏訪、甲州道から奥多摩に入り、奥多摩氷川神社から多摩川沿いに下ってきた出雲族も、ということなんだろうと思います。
最後に、出雲系ではありませんが、狭山丘陵南山麓にある古社に寄って帰りましょう。
まずは十二所神社です。
十二所神社 |
境内から南西の眺望、大岳山が見えます。 |
風土記では十二所権現ですから熊野系ですね。
次は豊鹿島神社です。
豊鹿島神社 |
境内から南西を望む、富士山が見えました。 |
出雲に国を譲らせたタケミカヅチが東国の出雲の里にもあるのです。興味深いですね。
三ヶ島中氷川神社と出雲祝神社の間にある糀谷八幡神社の手水舎、この神社の境内社、愛宕神社は冒頭の表の通り684年役行者によって開かれたとの伝承があります。 |