2021年9月23日木曜日

古甲州道、戸倉

このシリーズの前回は、五日市でした。

五日市は、日奉宗頼を祖とする武蔵七党の一つ、西党の一派、平山氏一色でしたね。

源義朝・頼朝時代の1191年の大悲願寺開創に始まり、北条時代の1559年の玉林寺再興まで、平山氏は、五日市を支配していたことが分かりました。

五日市と日野・府中を結ぶ古甲州道は、平山氏が行き来する道だった、と、こう話を締めたのが前回です。

さて今回はその続き、戸倉です。

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武蔵五日市駅まで輪行、檜原街道を、勿論旧道側を西に行き、黒茶屋がある小中野のY字路からは本郷通りを行き沢戸橋を渡ります。沢戸橋は架替られていますが旧道側は私有地のようで回避しました。

本郷通りをそのまま、が、檜原街道 = 古甲州道ですが、新久保河原橋の旧道側を渡って盆堀川を遡上します。

川を遡るわけですから当たり前ですが、緩やかではありますが道は上り続けています。息も荒くなってきた頃に小宮神社に到着です。

鳥居の直ぐ向こうの杉の巨木が印象的でした。まるで鳥居のようですね。調べると、鳥居の起源はこのような二本の大木に縄を張ったものだったという話もあるそうです。そうなると、ここ小宮神社も、小宮神社になる前から信仰の場であったのかもしれません。

創建の時期、詳らかならずも、平山氏の一族、高橋氏が創建とのことです。

前回の五日市に引き続き平山氏です。ここ戸倉も、五日市同様、平山氏の支配地ということでしょうか。

でももしかしたら混乱してるかもしれませんね。

平山氏も高橋氏も西党一族です。平山氏の一族の高橋氏という表現は当たらずとも遠からずといった感じだし、小宮神社の小宮も気になりますね。西党に小宮氏もありますから。

この小宮神社は城山の南麓にありますが、城山にはその名の通り戸倉城があります。

戸倉城は武州南一揆の小宮上野介憲明が1457〜60年頃に築城したとされます。

この小宮憲明ですが、山内上杉家の庶流という話もありますが、これは山内上杉家に属していたと解釈するのが正しいと思います。小宮氏がその構成の一つだった武州南一揆は上杉禅秀の乱で当初は山内上杉家に属していましたから。

小宮氏は西党で後武州南一揆となった小宮氏でしょう。となると小宮神社も、戸倉城に関連して、小宮憲明創建ということになりそうです。

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先を行きましょう、林道盆堀線を戻り、戸倉三島神社です。

道すがらの、"喜正" ブランドでお馴染みの野崎酒造、画面右から来てここを左

958年創建の古社です。

ここも参道の両脇が杉の大木の並木になってます。鳥居のように見えます。

台風一過の真夏とは思えないガスが無いクリアな青空の鳥居正面の眺望、戸倉の町並み、その先の五日市が一望できます。それにしてもここまでの登り(画面右下の白いコンクリート道、ここを真っ直ぐ下っていくと野崎酒造、恐らく参道)が異常なまでにキツかった!!

戸倉城主小宮憲明が城鎮護の為、崇敬したと伝えられています。

またしても小宮氏ですね。

先を行きましょう、神明神社です。

ここも参道が杉並木、鳥居のよう。

1236年、小宮直家勧請、後、小宮憲明再建とのこと。

またしても小宮氏です。

ご紹介した小宮神社、三島神社、神明神社は、戸倉城の周り、、、というか同じ城山の中腹にある神社で、戸倉城との関係が深いと思われます。

しかしながら、三島神社では縄文時代の石棒が見つかり、三社共、杉の大木が神社の神域の門 = 原始の鳥居のようになっていて、1400年代に小宮上野介憲明が戸倉城を築城する前から、信仰の場であったように感じました。

先を行きましょう、白山神社です。

古甲州道から下って秋川の蛇行部分にある私有地?!, のような所にあって、遠慮がちに恐る恐る訪問しました。家は数件ありますが全て木住野さんというお宅でした。本当に全て私有地だったのかも。

1349年創建、1459年、戸倉城主小宮上野介憲明が再建ということです。

戸倉城があった城山周辺の、小宮神社、三島神社、神明神社、白山神社は、何れも、戸倉城主、日奉宗頼を祖とする西党一派、後に武州南一揆となった小宮氏所縁の神社でした。

五日市は平山氏一色でしたが、その西隣の戸倉は、同じ一族の小宮氏のエリアだったようです。

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先を行きましょう。星竹橋で秋川左岸に渡って古甲州道から離れまして乙津の集落に入ります。

こちらも古道です。秋川左岸沿いにアップダウンを繰り返し、まずは八幡神社です。

え?, ここを行くの?, という所から入っていきます。地図を見ても全く分からなかったので、あきる野市役所に聞きました。ありがとうございました。

1394〜1428年の応永年間に小宮上野介憲明が創建との伝承があるようです。

戸倉城築城の1457〜60年とは少しズレますが、この期間は上杉禅秀の乱とも重なり、この乱では小宮氏が属する武州南一揆は大活躍してますからそれとは時代が合います。

先を行きましょう、直ぐ西にある春日明神社です。

神主さんのお庭を通って到着します。こっちも分からなかったので市役所の問い合わせたんです。奥様がいらして神社参拝と伝えると素晴らしい笑顔でご対応くださりました。ありがとうございました。この笑顔だけで、今日行った甲斐がありました。私もあぁありたい、尊敬します。

八幡神社と同じく1394〜1428年の応永年間に小宮上野介憲明が創建との伝承があるようです。

戸倉のみならず、乙津も小宮氏の支配地だったようですね。

むしろ、嘗て養沢の辺りは、小宮村だったようです。

戸倉城の南に小宮神社、東に三島神社と神明神社、北に白山神社、西には少し離れて乙津に八幡様と春日様を配置してますから、軍事的意味合いも強かったのかもしれません。

ここから先、檜原までは勿論寺社はあるんですが、テーマに沿った伝承は無さそうです。今回はここらで終わりにしたいと思います。

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如何でしたでしょうか。

五日市は平山氏一色、戸倉は小宮氏一色でしたね。

1236年というのもありましたが概ね、上杉禅秀の乱や戸倉城築城の1394〜1460年の間に、日奉宗頼を祖とする西党一族の小宮氏は、この地戸倉に進出し、この進出当時は武州南一揆の一員として活躍したようです。

府中、日野、五日市、そしてここ戸倉と、古甲州道は、西党が行き来する道だったということになりますね。

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所で、このエリアは古甲州道というテーマとは別に面白い伝承があります。

まず、乙津から御岳山に向かう道沿いにある養沢神社です。

養沢神社

ここはアラハバキを祀っています。アラハバキと言えば氷川神社、つまり、出雲ですね。

次に八幡神社と春日明神社との間にある大戸里神社です。

大戸里神社

一説によれば紀元前50年の創建という古社です。1392年に天穂日命を合祀したと言います。

天穂日命と言えば出雲の祖神です。

前回ご紹介した阿伎留神社、

阿伎留神社

ここも祭神は、大物主神、
味耜高彦根神(大国主命 = 大物主命の子), 建夷鳥神(天穂日命の子)と、ガチガチの出雲です。

出雲と言えば、奥多摩の氷川神社もありますから、多摩川、秋川を遡って出雲勢力がこの辺り、進出してきたんでしょう。

それからもう1つ、平安初期編纂の日本霊異記中巻第三話に、多摩郡鴨の里が登場します。

この鴨の里の比定地が乙津の加茂原ということのようです。鴨(加茂)の地にある原(平らな所)という意味ですね。

加茂原全景

阿伎留神社の摂社、若雷神社は加茂別雷神を祀りますが、環座前はここ加茂原に鎮座していました。つまり、この辺りは、出雲族のみならず、賀茂氏の進出もあったのか、と、いうことになります。

多摩川沿いで賀茂氏関連を確認したのはこれで2つ目。もう1つは府中の瀧神社です。賀茂氏は多摩川を遡って進出してきたということでしょうか。

2019/5に訪問した時の瀧神社、府中崖線に位置している

また、日本霊異記中巻第三話多摩郡鴨の里の話には、吉志(きし)火麻呂という人物が登場します。

はい、そうです。今回の白山神社の所で言いましたが、実は前回の五日市でも本当によく目にしたのが木住野(きしの)姓です。ホントに多い。

Wikiによればこの吉志という姓は、渡来氏族に用いられたということで、と、なると、この辺りは、出雲族、賀茂氏、渡来人と、もう錚々たる氏族が移り住んだ、古くから開かれた土地で、古甲州道は古くから開かれた道だったということになります。

だからか、ここにも書きましたが、御岳山への修験の道でもあったようです。

今でこそ、武蔵御嶽神社に向かう道は、JR青梅線御嶽駅からケーブルカーで、の方が賑わってますが、江戸時代までは古甲州道から追分で養沢川沿いの御岳道を行くのが、"正式" だったようです。

小和田の御嶽神社、ここは古甲州道の武蔵御嶽神社への二の鳥居的位置付けなのだと思います。

ここのオリジナルのお犬様は個性的です。

古甲州道から御岳道への追分、古道が残り、"追分" の地名が残ります。この先の秋川に架かる橋は今はもう無いですが。

こちらは御師のお宅

弘化4年建立の道標

ここが取り付きです。

いや、険しいです、九十九折で一気に上り詰めるようです。

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