2019年9月3日火曜日

名所江戸百景、品川

広重は名所江戸百景で品川を4景描いてます。
  • 品川御殿やま、春、28景
  • 月の岬、秋、82景
  • 品川すさき、秋、83景
  • 南品川鮫洲海岸、冬、109景
品川御殿やまは、ご存知の通り、暴れん坊将軍こと、八代将軍吉宗が、桜を植えて江戸庶民に開放してから桜の名所となりました。この絵の通りですね。

1858年
2019年、当時の場所だとただビルが写るだけなので、少し御殿山を登ったところで撮影

ん、、、でも、確かに桜は描かれてますが、どこか寂し気。御殿山に向かう道はグレーで、御殿山は削られ削られし、土も露になっているから、でしょうか。

実際、御殿山は削られました。その土はどこへ行ったかというと、お台場です。

品川御殿やまと台場、明治13年頃

因みに・・・今も台場は残ってるんです。現在の地図です。

2019年、きれいに残ってますね。黄色いピンを打ちましたが分かりづらいですかね?、ちょうど、北品川駅の右、"東品川"と、書いてあるエリアです。

その、台場付近を描いたのが、月の岬と品川すさきです。

月の岬、1858年
月の岬、2019年

品川すさき、1858年
品川すさき、2019年、分かりますか?, 画面中央の瓦屋根が洲崎弁天、利田神社です。なので手前の広めの歩道は目黒川ですね。

月の岬は、品川宿で一番繁盛していた妓楼、土蔵相模の一室からの江戸湾の風景と満月です。

に、しても、構図が天才的ですね。スゴイな。

その土蔵相模ですが、品川すさきの画面左下にも描かれています。

この2景は確かに連番なんですが、連作でもあるように思います。

俯瞰の構図が品川すさきで、土蔵相模にグーッとズームアップしていくと、月の岬の光景が写り出す、そんな感じです。

それからもう1つ。月の岬と品川すさきには台場が描かれてません。月の岬は構図的な面もあるかもしれませんが、品川すさきの洲崎弁天の向こうには、台場があってもおかしくありません。

にも関わらず、描かれていないのは、単に時期的な問題と思われます。ですので、描かれた順番としては、月の岬・品川すさき→品川御殿やま、なのだと思います。

1858年古地図、台場は描かれてない。ちょうど、この時に、広重が描いたのだと思う。

この3景はほぼ同じ場所で描かれてますが、月の岬と品川すさきは品川宿の賑わいで、品川御殿やまは、広重は何を描きたかったのかということを考えると、月の岬と品川すさきの品川宿の賑わいを対比で用いて、海外列強の侵略の脅威といった幕末情勢、長く続いた江戸という平和な時代の終わり、もっと言えば諸行無常、なのかもしれません。

この10年後、江戸が終わります。

南品川鮫洲海岸は、少し離れます。大森の辺り。



1858年
2019年、場所は少し違いますが、本当の場所だとただただビルを写すだけなので江戸当時の面影が残る唯一の場所、勝島運河です。

何故ここが名所かと言うと、画面の多くを占める海苔ですね。

生類憐れみの令が出た時、江戸と浅草中心部では漁が禁止となってしまいました。江戸の漁師は横浜や木更津に移住したらしいんですが、浅草漁師は、浅草で自然採取していた海苔の適地だと見て、多摩川河口の大森に移住したのです。

その後、浅草漁師は、大森で、海苔の養殖に成功します。大森は養殖海苔発祥の地なのです。だから名所だったんですね。

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そもそも品川は、武蔵国の国湊として大いに栄えた地域です。平安期以前の寺社を見ても、
  • 寄木神社、ヤマトタケル(〜西暦113年)伝説
  • 荏原神社、709年創建
  • 品川寺、806~810年開山
  • 常行寺、850年開山
  • 来福寺、990年開山
と、ヤマトタケルはちょっと、伝説色が濃いとして、最古参は荏原神社で、概ね、律令期の武蔵国成立、府中に国府が置かれて以降(710年以降)に歴史が始まっています。

荏原神社
品川寺

しかし、一点腑に落ちないことがあるんです。

地形図

マーカに説明を書いてないので分かりづらくて恐縮ですが、画面上やや右の黒が荏原神社、その西赤が貴船神社、荏原神社の下青が品川寺、その下グレーが寄木神社(旧地), その下緑が常行寺(旧地), その下青が来福寺です。
※それ以外の2つはここでは無視して良いです。

全体としては、目黒川と、その西にある2つの川の扇状地ですね。

各寺社の位置を個別に見ていくと、荏原神社以外は、微高地も含め、それなりに高いところ、大水の影響を受けにくい所にあります。

一番古い、よって陸地が最も後退していた時期に出来た荏原神社が、最も低い所に鎮座してます。

本当にここにあったのかな?!

と、調べてみたら、旧地は貴船神社ということでした。貴船神社と荏原神社はほぼ同じ由緒で、やはり元は同じ神社と思われます。

709年に、奈良の丹生川上神社から高龗神を勧請し、創建したということですが、丹生川上神社の祭神は罔象女神の神と書いてあります。違う神なのかなというとそうではなく、共に、水神です。

貴船神社の位置を見ると、扇状地が始まる岬の上にありますから、水神様としては好適地ですね。

平安期には、延喜式東海道が、正に貴船神社があった内陸の尾根部を通ってました。目黒川が運ぶ土砂によって陸地化が進むに連れ、生活域も徐々に海側にせり出していき、江戸期には品川を東海道が通り、品川宿ができ、広重が描くに至ったわけです。

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