2019年3月22日金曜日

井の頭の池 弁天の社、名所江戸百景

秋 88景 井の頭の池 弁天の社

これは、井の頭の池から弁天の社を望むと読むんですが、でもこれは井の頭池から弁天さんを望んでいるというより、弁天さん南の崖上から井の頭池と弁天さんを望んでいますね。

1858年
2019年

やはり立地が池なので、江戸の頃からあまり変わってないでしょうから、木さえ無ければほぼ同じ画が撮れたと思います。まぁ、良しとしましょう。

何故ここが名所なのかというと、ズバリですね。弁天さんです。

天慶年中ですから938年から946年の間に、源経基が最澄伝教大師作の天女像を祀ったことに始まります。源頼朝が平家追討の祈願成就に感謝して建久8年(1197年)に堂宇を建立、新田義貞、家康、家光も訪れています。

それにしてもスーパースター勢揃いですね。源経基は、経基→満仲→頼信→頼義→義家→義朝→頼朝ですし、最澄は天台宗の祖で比叡山を開いた人で、新田義貞は北条鎌倉幕府を倒したし、家康・家光は言わずもがなですね。

江戸からの距離もちょうど良い感じで、行楽も兼ね、多くの人が参拝に訪れたようです。

江戸から来るなら甲州街道で、高井戸から分かれ井の頭道を行きました。今でも沿道には地蔵や庚申塔などが多く残り、当時を偲ばせます。


明治初期

それでは、甲州街道から順番に、石塔群をご紹介します。

まずは道標、甲州街道のここから分岐、以降、井の頭道
庚申塔
庚申塔、"右井之頭道"と彫られているのが分かる。
庚申塔 兼 題目塔という、なんともvery Japaneseな石塔です。庚申塔は一応道教、題目塔は仏教日蓮宗です。異なる宗教が一つの石塔に融合してるなんて、なんて、diversityなんでしょう。
地蔵
あんまり知られてないようで、とってもひっそりとしてるんですが、ここが表参道です。鳥居です、鳥居。で、弁天さんは、元々は、ヒンズー教の女神で、日本で仏教に取り入れられ、仏教の守護神の一つとなりました。更に、市杵嶋姫命とも習合しました。だから鳥居なんですが、ヒンズー教、仏教、神道と、いやはや何とも、very Japaneseです。宗教についてはdiversityを徹底してますね。
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如何でしたでしょうか。

そこかしこに石塔が残り、井の頭道をサイクリングでもすれば、江戸庶民気分を味わえます。お勧めです。

2019年3月18日月曜日

続き、蒲田、羽田、大森、名所江戸百景

前回の続きです。

はい。前回、続きがあるつもりではなかったのですが、調べてみたら続きにした方が良さそうなので、急遽、変更です。前回のタイトルも変更しました。

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春、26景、八景坂鎧掛松

これは、"八景坂から鎧掛松を望む"と、読んで下さい。

1858年
2019年

正面にドーンと見えているのが鎧掛松です。手前の坂が八景坂です。

八景坂ですが、画面右から左にかけて上ってますね。八景坂は南から北に向かって上ってますから、ということは、広重は、西側の高台から眺めていることになります。八景坂の向きからして、目線は北東ですね。

なので、広重の位置から八景坂越しに見える海は東京湾です。松の後ろに半島のように突き出ているのが品川洲崎ということになります。

更にその奥、遠くに聳えているのは、方向的には筑波山だと思うんですがどうでしょうか。房総の山々だとの解説が多いですが、北東なので房総ではなく下総になり、下総だと、ここまでの山はないと思われます。2つの峰もあり筑波山だと思うんですが、広重はいつも向かって左を若干高く描くんです。この絵は微妙ですね。

赤ポイントが推定広重立ち位置。赤線が八景坂、南が坂の上り始めで山王二丁目の丁字路、北が上り切ったところで山王口の丁字路。見てお分かりの通り、崖下から崖上に上がっていく道筋となっている。赤ポイントから伸びている直線は、青が品川洲崎へ、緑が筑波山に伸ばしたもの。いやぁ、線引きしてみてびっくりしましたよ。広重の絵でも、品川洲崎がやや左、直ぐ右に筑波山になってますが、その通りだったわけです。広重の目線ですが、品川洲崎、筑波山が画面左ですから、大森ララ辺りだったと思います。

崖の右手、だから東側は田畑ですね。海との境ら辺に松並木と往来の人が見えますが、これは、江戸期の東海道ということになります。

画面右の海岸沿いの大通りが江戸期東海道、間は水田。そうそう、赤ポイントの少し上に、"八景坂"の文字が見えます。

それにしても素晴らしい眺望です。八景坂をようやく上り切って右手に見える眺めがこれなら癒やされたでしょう。絵にもあるように、ここで一服と、休みたくもなるのでしょうね。茶屋があり、繁盛しているようです。

今の眺望を見るとホントかよと思ってしまいますが、正面の木の向こうの古い家屋の更に向こうの白い壁のビル、それが無かったら、八景坂を上り切って台地となった部分が見えて、何となく、当時の雰囲気が感じられたかもしれません。

でも一点疑問があるんですよね。この松、神明神社にあったという伝説なんですが、神明神社は八景坂の最中にあるんです。八景坂を上り切った台地にあるのはこの辺りの地名である山王の由来となった日枝神社と円能寺なんです。立ち位置は間違い無く神明神社だと思いますが、松は、日枝神社の境内や近辺にあったのだと思います。

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さて、何故、ここが名所かというと、この眺望と、もう一つは松です。松自体も美しいんですが、その謂れです。鎧掛松ということで、よくある話ですね、鎧を掛けたり笠を掛けたり馬を繋いだり腰かけたり。ここも、源八幡太郎義家が、後三年の役の際、ここを通り、神明神社に勝利祈願あるいは御礼した時に、この松に鎧を掛けたという伝説があり、その伝説が名所の謂れとなっています。

確かに、この道は、平安期の東海道で、この道筋のこの先、兜町の兜神社や浅草橋の銀杏岡八幡神社等々で義家伝説があります。

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それと、何故、ここが蒲田、羽田と繋がりがあるかですが、江戸期の東海道は、既述のようにもっと東なんですが、こちらを通った人も多かったようなんです。西からの場合、ちょうど、蒲田の梅園から北西に折れ、呑川沿いに進み、平安期の東海道に入って、八景坂を上り、南品川から江戸期の東海道に復帰するという迂回がなされていたそうなんです。

ここが入り口、右手の緑が梅園。古道然としたイイ感じのカーブですね。
こちらは平安期東海道、こっちもイイ感じのカーブ、さすがは東海道。約1000年前、ここを源義家の軍勢が通ったんです。

理由ですが、ちょうど、この間に、鈴ヶ森刑場があったからなんです。鈴ヶ森刑場は、見せしめの為、わざわざ往来頻繁な東海道沿いに設置したということですから、磔もあったし、直ぐ隣の海岸では水磔もされていたということですから、特に女性や子供は通りたくないですね。ということで、江戸期の東海道から平安期の東海道へ迂回したそうです。

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如何でしたでしょうか。

実は蒲田の梅園はねたのわたし 弁天の社もこの八景坂鎧掛松も、この趣味を始めた時に行ってるんです。でもこうしてもう一度行ってみると、なかなか面白い地域です、ここは。地形と日蓮宗寺院の関係なんかも面白そうです。相関がありそうで。

2019年3月10日日曜日

蒲田、羽田、大森、名所江戸百景

名所江戸百景シリーズです。

前回は目黒を取り上げました(前回の続きはこちら)。

今回は、"蒲田の梅園"と"はねたのわたし 弁天の社"です。

まず、"蒲田の梅園"の方です。

春 27景 蒲田の梅園、1858年
2019年。写真だとなんとなく雰囲気残ってるんですが、梅園も公園として残ってるし。でも、行くと分かりますが、残念です。広重に描かれたのも勿論ですが、徳川将軍も、木戸孝允も伊藤博文も明治天皇も来られた名所なのに。

何故、ここが名所なのかと言うと、その名の通り梅園が有名だったんですね。平安時代の文献に、"武蔵国荏原郡蒲田郷"の記載があり、"梅木村"とも言われていたそうです。

何故、"梅木村"かと言うと、これもその名の通りで梅の木が沢山あったから。

江戸の時代になり、この地に東海道が通るようになって、東海道を利用する旅人達が、この梅を目にし、梅園には食事や酒を出す茶屋も出来たりして、観光地として確立していきます。

中でも、広重が描いた山本久三郎の梅園は3,000坪もの敷地を有しており大繁盛しました。

蒲田の梅園は、平安の頃からの歴史があったんですね。

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前回の目黒同様、この地も江戸ではありません(目黒は正確に言うと、本来なら江戸ではない所を、目黒不動があるが故に、強引に江戸の範囲に組み入れたんですが)。

江戸ではないから江戸図には描かれてませんので、明治13年頃の迅速測図で見てみましょう。

明治13年頃の蒲田の梅園

"梅"とありますね。

蒲田の梅園は、明治に入っても繁盛し続け、この迅速測図が描かれた明治10年代はまだまだ絶頂期だったようです。だから、地図にも、"梅"と書かれてるんですね。

しかし、周りを見ると田圃ばっかり。東海道筋とは言え、この辺りは、何も無かったんですね。蒲田の梅園の西側には"八幡社"や、"山野神社"の文字が確認できますが、こんなイメージでしょうか。。。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sasayama1.JPG

むしろ栄えていたらしいのは、東海道の東側です。視点を東側に移してみましょう。

蒲田の梅園の東側が栄えている。

よく見ると、東海道が内川を越す辺りから別れる村道(片側実線、片側点線)が南北に通っており、その通り沿いが栄えていたようです。

この道は羽田道と言い、羽田の弁財天、川向の川崎大師への参詣道であり、羽田で獲れた魚貝を江戸に運ぶ道でもありました。この道は、大森東中の所で2つに別れ(一方は村道、他方は荷車小径(一本実線)), 共に羽田に行き着きます。

東海道が内川を渡って直ぐ、ここを左に行くのが羽田道です。良い感じの古道感が出ていますね。
厳正寺、北条重時の六男である法円が文永9年(1272年)に海岸寺として創建
侮るなかれ、義経と縁のある社です。文治五年(1189年)に義経が郎党を率いて関東に至り、多摩川を渡った際、強風のため舟が押流され大森沖を漂流した。舟から望見される神社の森に海上の平穏を祈念したところ、風がおさまった。義経は舟を大森に着け里人に社の名を尋ねたところ厳島社であったので、その加護を感謝し社殿を修理して舟を付けた浜辺に注連竹に付着した海藻が海苔であったという。

それにしても、羽田の繁盛振りはスゴイですね。真っ黒になってます。

その羽田で広重が描いたのが、"はねたのわたし 弁天の社"です。

"はねたのわたし 弁天の社"は、"羽田の渡しから弁天の社を望む"と読みます。

夏 72景 はねたのわたし 弁天の社、1858年
場所は違うんですが、と、言うか、場所はむしろこっちが正しいかもしれないんですが、場所は、一応、羽田の渡しの渡し船の上からの景色で、羽田の渡しは今の高速大師橋の袂なんですが、そこからの景色だと弁天様(要島)がかなり遠くになり、広重の絵のようにはならないのです。広重の絵はデフォルメしたか、あるいは、羽田の渡しではなく、むしろ、私の写真の辺りからの風景だったかということになります。この写真の手前は海老取川だし、弁天様は、鳥居の右にバスがトンネルから出てきてますが、そのトンネルの向こうくらいの位置です。なので、ここもまた違うのかもしれないんですが、ここからの構図だと、ちょうど、穴守稲荷の鳥居が弁天様の鳥居のようになって上手い絵になりました。

広重の目線は下図のように東向きで、従って、遠く向こうに見えるのは、朝焼けの中の房総の山並みだということになります。朝一の渡しだったんでしょうか。

迅速測図、弁天様ははねたのわたしの東に位置している。弁天様がある、海老取川と東端の洲の間にある洲を要島と呼んだ。

何故ここが名所なのかというと、はねたのわたしの賑わい、美しい浜の様子(要島の由来は扇の要。上記迅速測図を南北逆(江戸からここに来た人の目線)に見て欲しい。すると、要島が扇の要の位置に来ることが分かる。この曲線が美しい浜は扇浜とも呼ばれた。), 蒸し蛤などもそうですが、やはり、弁天様だったと思います。

この弁天様は、厳島(安芸の宮島), 琵琶湖の竹生島、江ノ島と並ぶ日本四大弁財天の一つと言われていたそうで、弁天像は弘法大師の手によるものだと伝わります。

移設された弁天様

日本橋から17km, 3時間半の羽田。弁天様をお参りし、蒸し蛤を食べ、船で多摩川を渡り(旅の恥は掻き捨てと言いますが、川を渡るだけでも充分その気分になるようです。現に、盛り場というのは川沿いにあるものです、両国、向島もそうですね。), お大師様をお参りして、と、この全てがセットで名所だったのでしょう。

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如何でしたでしょうか。

だから私は今回この2景をセットにしたんですが、江戸庶民は、この2景をセットにして、小旅行を楽しんだのではないかと思うのです。

東海道を行き、品川で遊んで終わるパターン。品川の誘惑には負けず、でも、やっぱり大森の誘惑に負けちゃったパターン。品川と大森の誘惑に負けず、無事、蒲田の梅園に辿り着き、でもこれだけじゃ足りないから羽田にも寄って、でもやっぱり帰り道、大森や品川に負けちゃうんですよね。

もう一つ。
江戸庶民の旅行先としてセットだっただけでなく、土地の記憶としてもセットだったようです。

この辺り一帯を六郷と言い、小田原北条の時代、行方氏に支配されていました。行方氏は羽田浦の水軍を統括していたようで、羽田神社は行方氏が創建しました。居館は梅園のすぐ近くです。羽田道は、行方氏居館と羽田浦を結ぶ道だったのかもしれません。

鎌倉時代に行方与次郎が牛頭天王を祀ったことに始まると言われています。が、行方与次郎は後北条の時代の人のようです。
円頓寺、行方氏館跡