2017年3月30日木曜日

鑓水峠

多摩川の支流浅川と、武相国境境川の両谷に挟まれた多摩丘陵を南北に走る3つの峠道。その東の峠が鑓水峠だ。

鑓水峠は絹の道として有名で、歴史の道百選にも選ばれているが、風土記には、

「村内に相州へ通ずる一條の往来あり、北の方杉山峠より南の方上相原村を越て、相州橋本村に達す、道幅二間より三間に至る(これは杉山峠)、又鎌倉古道と云一條あり、是は鑓水峠をこえて小山村の方へ通ぜり、中ほどにては今の相州道を合せり(これが鑓水峠の方)」

と、鎌倉街道として記されており、北は片倉で杉山峠と合流し、南は町田街道(鎌倉街道山ノ道)で杉山峠道、七国峠道と繋がるんだから考えてみれば当たり前だが、幕末・明治からの道ではなく鎌倉からの古道のようだ。

明治13年古地図、都合上、やや左に位置させているが、ひと際太い二重実線が杉山峠道(西)と鑓水峠道(東)。

ということで今回は、七国、杉山に続き、鑓水峠をExplorerしたいと思う。
(それにしてもこの3つの峠はホントに奇跡。八王子側はかなり浸食されてるけど町田側はよく残っている。)

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北からアプローチ。杉山峠道との合流点から。住宅街の道ながら、古地図と照合するとほぼ当時の道筋を辿っているうっすらした登坂を八王子バイパスめがけ行く。すると天まで届く地獄の階段出現。チャリだと一層きつい。が、その地獄の階段を登るとこの絶景。

ここは絶景、パノラマを元のサイズで。切り通されてるが明治13年古地図を見ると昔は向こうの山と地続きだった。

ここからは素晴らしい景色の連続。

こうした土道が当時のまま残る
美しいカーブと掘割
石畳が残る



3つ目の写真は分かり易いが、やはり、幕末明治に最も栄えた道なので、石畳になっており、逆に、サス無しのパスハンターだと走りづらい。

やがて土道は終わり大栗川の谷に出ると御殿橋の袂には道標。

Googleの自動フィルタで。この方、橋本、津久井、大山と読める。

ここから又登りで小山峠に行くが、すっかり開発された道で味気無いように思えど、しかし、土地の記憶からか、少し雰囲気があり、そこそこ好きかな。

2017年3月20日月曜日

杉山峠

多摩川の支流浅川と、武相国境境川の両谷に挟まれた多摩丘陵を南北に走る3つの峠道。その真ん中の峠が御殿峠こと、杉山峠だ。

杉山峠は、鎌倉時代は八王子方面からイザ!鎌倉と御家人たちが鎌倉に向かった鎌倉街道山ノ道であり、戦国時代には、武田軍小田原攻めの際、武田信玄・勝頼親子の本隊は、滝山城を攻めた後、ここを通って小田原に向かっている。江戸時代には大山参詣の道であり、明治はシルクロードであった。

更に、これは私の推測だが、716年の武蔵国高麗郡設置の際、平塚周辺の高句麗渡来人達は、相模川を遡り、あるいは陸路で、当麻辺りからここ杉山峠を経て、高麗郡に移住したものと思われる。

ということで今回はこの杉山峠をexplorerしたいと思う。

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非常に残念なことがある。下記地図を見てほしい。一枚目は明治13年、二枚目は明治39年、三枚目は現在の地図だ。

一枚目が恐らく高句麗渡来人も通ったオリジナルの道筋だが、二枚目になるともうルート変更されていて、三枚目もルート変更されている。その変遷の中で、御殿峠は日本閣の敷地の中となってしまった。肝心の峠に行けないのである。

明治13年古地図、真ん中のクランクに三角点、その左下に縦書きで杉山峠の文字
明治39年古地図、真ん中に三角点、そのやや右下に御殿峠の文字。上の明治13年古地図と見比べると良く分かるが、ちょうど、御殿峠の文字辺りから下の道筋は右に移動し、その上は左に移動している。
現代の地図、青ラインがオリジナルの道筋。日本閣敷地内を貫いていて峠は敷地何に入ってしまっている。

仕方が無いので目を皿にして明治13年地図を見る。

もう一度、明治13年地図。黄色い線に注目。

すると、オリジナルの道筋がクイッと右に直角に曲がる所から、そのまま素直に真っ直ぐ北上している徒歩道があるではないか。しかも尾根を行っている。もしかしてホントのオリジナルは・・・

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橋本まで輪行し、北上するルートを選んだ。

住宅街の急坂を早速押す。
『まだ?』と、思う頃、ようやく八王子バイパスを渡り、山道に突入した。今の徒歩道の左に早速掘割道。これがずっと続く。

チャリを掘割に置いてみた。

先に進むに連れ、掘割の深さは増していく。


ここは藪は少なく分かり易い。

すると右に家の塀が登場。でも塀の向こうにも土塁。ここの掘割はデカイ!


進むと右に塀。これは振り返って撮影、だから右左が逆。
若干分かりづらいが塀の向こうに土塁

程無く、御殿峠のハイライト、殿丸に到着。


最も迫力があるところ
上写真右の土塁上に上がってみた。館跡。
この後、明治13年~39年の間に作られた切り通しで突然峠道は終わる。

既述の通り、泣く泣く日本閣はパスして明治39年旧16号を行き、ホテルフローラ脇から件の徒歩道に入る。ここもなかなかどうして、面白い道であった。


八王子みなみ野から高尾方面の眺望
堀切みたいになってるところの木橋
このような幅一間の土道が続く。明治39年古地図では、里道の中の一番狭い道幅の「間道(幅1メートル以上2メートル未満)」と記されている。
これは切り通しの先。ここは民家から少し入ったところで、右側は畑で人の気配はあったのだが、チャリの左の藪から獣の足音がし、こっちが足音を立てても逃げずで、一体何だったのか?!
程無く道は畑の中の道となり

その後、16号に合流し、あとは市街地なので特段写真も撮らず、帰宅した。

御殿峠に行けないのは残念だが、代わりに行った、一つ西の尾根道も素晴らしかった。

2017年3月14日火曜日

七国峠

多摩川の支流、浅川と、秀吉の太閤検地で武相国境と定められた境川。その2つの川が削った谷に挟まれた多摩丘陵の尾根を越える3つの峠の内の一番西の峠、七国峠。

この道は、南浅川流域に武蔵国の勅使牧の1つだった由比牧があったことから、由比牧に向かう道、つまり、律令の時代から既に存在していたと言われる道であり、鎌倉時代には鎌倉街道 山ノ道であり、戦国の時代には、武田軍の小田原攻めの際、北条氏照が、居城、滝山城から三増峠に進軍した道であり、明治時代には、八王子に集積した絹を横浜港に運ぶシルクロードだった道。

今回はこの道を北からアプローチした。

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山田川を渡るともうそこは丘陵で、等高線の密度の通り殆ど壁だから道は壁を前に左右に分かれる。行く道は右で、直ぐにトラバース気味に緩やかに上る道と最短距離で山を越える道の追分となる。その追分に、非常に立派なお堂に祀られた龍神様があった。

立派なお堂の龍神様、こんな立派なの見たことない。

それでもインナーは使わずに峠へ。尾根には京王高尾線が走っている。線路の向こうは今が盛りの梅林。芳しい香りに身を包まれながら、これまた等高線を見れば一目瞭然の急坂をつづら折りを降りると湯殿川。湯殿川から上流を眺めればそこに富士山。

真正面に富士

湯殿川を渡るとそこは畑で、明治13年の古地図を見ても畑。恐らくもっと前から、多分律令の頃からここは畑や牧だったと思われ、そして何と言ってもここは地形的に、南を見れば七国峠がある尾根、北を見れば湯殿川が削った谷とその向こうには京王高尾線が走る尾根、西を見れば高尾山や富士山と、いやはや絶景でした。

電信柱が邪魔だが幅一間の古道がそのままで雰囲気が出ている。奥には富士山。
ここはまだ道らしきものがあるが、この手前は畑の整地の為、盛土していて道の原型を留めず、最初迷った。いや、しかし、ここを氏照軍が通ったのか。今は野花咲く小道。

絶景の小比企の丘陵を越え、すっかり開発されたみなみ野を抜け、給水塔脇からいよいよ七国峠の山に入る。

ここが七国峠(と思われる。ここまで上って、ここから下るので。)。出羽三山の供養塚がある。
七国峠から南を見下ろす。結構な勾配。
別尾根の最高点に祀られるお馴染みの大日如来。出羽三山の供養塚とのsetと思われる。
舗装道路を越えた先のクランク、大迫力
最後の下り

と、いうことで、素晴らしい道路遺構であった。
みなに野が開発されなければ、これが、小比企の丘陵まで続いてたかと思うとどんなに素晴らしかったことか。。。

道はこの後、町田街道に接続し終わる。にしても、満足度の高いexplorerだった。

2017年3月12日日曜日

七国峠、御殿峠、鑓水峠

古地図_明治13年_七国峠、御殿峠、鑓水峠

西から、七国峠、御殿峠、鑓水峠。

北の浅川と南の境川が削った谷の間に横たわる多摩丘陵を越える、3つの峠だ。

これら3本の南北に走る道は、北は八王子で合流し、南は町田街道で接続される。

八王子は多摩地区、及びその周辺の絹の集積地。八王子に集まった絹は、これらの道を通って、横浜に運ばれた。シルクロードである。

このシルクロードたちは、今尚、奇跡的に、往時のままの姿を留めている。

七国峠
御殿峠
鑓水峠

2017年3月10日金曜日

上海の歴史、七宝

五代十国時代に開山となった七宝教寺。

上海100年、七宝1000年の謂れとなる歴史ある寺院だ。



近くには水郷古鎮もある。地下鉄で気軽に行ける大人気スポット。に、してもすごい人。



上海の歴史、龍華寺

呉の孫権が開山したと言われる古寺、龍華寺。

文化大革命で仏教を信じる人なんていなくなったと思ったらとんでもない。大変な賑わい、皆、熱心にお祈りしてました。

ここも、日本軍に空襲されています。




上海の歴史、高橋鎮

吴淞江が長江に合流する辺りに位置する高橋鎮。吴淞江が運ぶ土砂によって、宋代には陸地化し高橋鎮が生まれた。

古くは塩の産地として、明清代は紡績で栄えた。
今でこそ、上海の外れ、田舎だが、上海中心部よりよっぽど歴史深い、栄えた街だった。

その高橋鎮は、今、上海市によって歴史風致地区に指定され、東街、西街、北街、南街の老街が残っている。

まずは東街。殆ど開発されたが一軒だけ、威風堂々たる邸宅が残っている。

仰賢堂

次に南街。ここは取り残された一帯のようだ。

この見事な石庫門は清代か

次は西街。ここがメイン通りで、恐らく直しは入ってると思われるが、昔のままの姿を留めるような直し方をしたんだと思う。






宇田津が連なる

独りトランプで時間を潰す





最後に北街。ここも南街同様取り残された一帯。


観光地化されていることもあって、老街と言えど、上海県城ほどは汚くなかったのが好印象でした。