三姉妹の父、
宋耀栄は、海南島の貧しい商家に生まれ、アメリカで茶の販売をしていた叔父の養子(これで姓が韓から宋となった。)となり、1875年、叔父について11歳でアメリカはボストンに渡った。
商人に学問はいらぬ それに反発した耀栄は、家出してボストン港に停泊していた船に乗り込み密航を図った。13歳の時である。
簡単に船員に見つかった耀栄だったが、チャールズ船長に見込まれ、名前もチャールズ・ジョーンズ・スーンと改め、キリスト教伝道師として高度な教育を受け、大学まで卒業した。
1886年、25歳になっていた耀栄は、伝道師として母国中国の上海に戻った。
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この話、似ていませんか?
八重の桜を見ている方ならお気づきだと思います。同志社大学の創設者、新島襄に本当によく似ているエピソードです。
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上海に戻った耀栄は、同じくクリスチャンだった倪桂珍と結婚し、三男三女を設けた。この三姉妹が、宋家の三姉妹といわれる宋靄齢、慶齢、美齢だ。
この三姉妹、何がすごいかというと、、、
・靄齢、孔子の末裔の大財閥の御曹司、孔祥煕と結婚。夫は後に国民政府財務部長となった。
・慶齢、孫文と結婚。夫亡き後も夫の意思を継いで共産党で中国革命に命を懸けた。
・美齢、蒋介石と結婚、毛沢東率い、姉慶齢がいる共産党に、国共内戦で敗れ台湾に逃れた。
正に、中国を作った三姉妹だったのだ。この宋家の三姉妹の足跡が、上海に残っている。
今回は、それを訪ねた。
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景林堂、昆山路135号
宋耀栄、倪桂珍夫妻はこの近辺に住み、三姉妹を生んだ。宋耀栄はここで牧師もしていた。 |
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沐恩堂、西蔵中路316号
ここはかつて耀栄が開校した女学校でもあった。キリスト教に基づく学校の開設、そこも新島襄と同じ。
三姉妹はここで学んだ。 |
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宋公館、陝西北路369号
三姉妹は沐恩堂で学んだ後、アメリカに留学した。留学後、それぞれが結婚し家を出るまで、
三姉妹は仲良くここに住んだ。今は、残念ながら、写真のように高い塀で閉ざされ、中は窺い知れない。 |
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孔祥熙邸、永嘉路383、385号
長女、靄齢は、結婚後、ここに住んだ。 |
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孫文記念館、香山路7号
慶齢は孫文と結婚後、ここに住んだ。因みに、孫文と慶齢は日本で結婚式を挙げている。
東京は九段下の学士会館だ。近くのカフェで休んでいたら閉館時間を過ぎていた。残念ながら門の外からの撮影。 |
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宋慶齢記念館、淮海中路1843号
孫文亡き後、慶齢はここに住んだ。 |
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宋慶齢記念館は、慶齢が1963年まで住んだ家だ。裏庭は非常に美しい。このバルコニーから眺めたのであろうか。 |
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蒋介石・宋美齢私邸、現上海音楽学院中等部、東平路9号
国共内戦により賊軍となった蒋介石と宋美齢。共産党の中華人民共和国副主席を務め、死の直前に
中華人民共和国名誉主席の称号を授けられた宋慶齢とは、やはり扱いが違う。 |
慶齢が88歳で1981年に亡くなった時、蒋介石の死後アメリカに移住していた美齢はその葬儀に出席しなかった。※靄齢はこの時既に亡くなっていた。
中国の激動に飲み込まれた宋三姉妹。上海で、その足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。観光案内には載っていない、違う上海が感じられます。
以上