2013年5月27日月曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Spring No. 8 "Suruga-chō"

Painted by Hiroshige Utagawa in 1856 - 1858
Present view
皆さんも見たことがあるでしょう、この絵は。

井桁に三、そう、三越で有名な三井です。現在の写真を見てください。左側のビルの看板に、"MITSUKOSHI"が確認できますよね。そうです、今も同じ場所に三越は建っています。右側の建物も、三井銀行です。これも同じ場所。

写真中央の通り左側の区画、今の三越は、当時、駿河町と言われてました(『てふ』は、『ちょう』と言います。)。何故、『駿河』か。広重が答えてくれています。ここからは、富士山が実に見事に真正面に見えていたんですね。

1858年古地図
そうそう、駿河町の左上に、『金座』の文字が見えますが、これは今の日本銀行です。


より大きな地図で する賀てふ を表示

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Spring No. 4 "Tsukudajima and Eitai Bridge"

Painted by Hiroshige Utagawa in 1856 - 1858
Present view
それにしても広重ブルーのグラデュエーションが美しい絵だ。ぽっかりと浮かんだ月、星も良い。

この藍色は、広重を始め浮世絵の影響を大きく受けたヨーロッパでは日本を象徴する色として認識されている。北野武監督の映画が特にフランスで人気だが、北野作品はうっすらとブルーがかった映像となっており、北野ブルーと称賛されている。広重ブルーから来ている。

この絵は、当時、日本橋川との合流点にあった永代橋の袂から、橋桁越しに佃島を見た構図で、広重おなじみの手前に大きく物 = 今回の場合は橋桁を置き、もう一つの主役である佃島を捉えている。が、古地図で見る限り、ここからは佃島は直接見れず、本当は石川島だ。

1858年古地図

より大きな地図で 永代橋佃しま を表示

さて、現代だが、ここは、現代でも非常にきれいな夜景スポットだ。撮影当時は、震災の影響で永代橋のライトアップは控えめだったが、リバーシティのマンション群と合わせ、素晴らしい夜景となっている。

※iPhone 3GSでの撮影。200万画素だとこれ以上は無理。日を改めて、GXRで再度撮影したいと思う。

2013年5月25日土曜日

Hiroshige Utagawa, Ushigome Kagurazaka Slope of Edo Famous Slopes / 歌川広重、牛込神楽坂(東都名所坂つくし)

Ushigome Kagurazaka Slope painted by Hiroshige Utagawa (From Wiki)
Present view of Ushigome Kagurazaka Slope
Do you know that Tokyo named "Edo" 150 years ago used be famous for "Slopes"?

For me, my background area is east side of Tokyo like Ginza so that it was unexpected. East side of Tokyo is lowland because of big rivers.

This is Kagurazaka Slope. Kagurazaka is the town where makes us feel old atmosphere and popular with even young people. 150 years ago, also here was famous and popular.

江戸は坂で有名だったなんて、皆さん知ってましたか?

私は千葉で育ったことが起因していると自分では思ってますが、どうも、江戸城より西側には気が向かなく、住んでいた地域も遊ぶところも銀座など江戸城の東側が多く、そこは幾つもある大河が運んだ砂でできた地形ですから、平らで、全くそんな風には思っていませんでした。

さて、この絵は広重が描いた、東都名所坂つくしの一つ、牛込神楽坂です。
写真を見ても、当時の雰囲気が残ってます。

地形図を見てみましょう。

神楽坂 地形図
江戸時代に江戸城の外堀になりましたが元は石神井川の支流が削った谷、神楽坂はそこを目掛けて一気に下り、又、山を上ります。

写真をよく見てください。道の真ん中を三人横に並んで歩いている方たちがいますが、その向こうには、外堀の向こう側の坂が見えます。確かに、ダイナミックな光景で、名所であったのも頷けます。

神楽坂 1858年古地図
1858年の古地図です。名字が記された区画が多いことから、この辺りは武家の町であったことが分かります。坂の南側には、一部、肴町など、町名が記されてますから、一部は町屋だったこともわかります。

広重の絵を見ても、向かって左側、坂の北側は、立派な武家屋敷。右側は商店が描かれています。

最後に現代の地図です。安養寺はまだ残っているようです。


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