2013年2月6日水曜日

Acient Road in Setagaya ward, Shinagawa-michi / 世田谷区の古道、品川道

鳥越川は、城山小学校付近に架かる品川橋
世田谷に、何故、『品川』か。

『品川』、『歴史』というと、家康が整備した東海道は江戸より最初の宿、品川宿を思い浮かべる人が多いだろう。が、品川の歴史はそれよりもっと古い。

品川湊は、律令下の武蔵国の外港だった。品川と武蔵国国府は、品川道で結ばれていた。

この道は、大国魂神社のくらやみ祭りでも使われている。くらやみ祭りとは、1062年、源頼義・義家親子が奥州征伐に向かう途中、品川の海から海水を汲んできて、戦勝祈願したのが始まりで、今でも、毎年4/30に開かれ、続いている。

江戸時代には、毎年4月25日に神官、神馬の一行が、早朝、府中を発ち、荏原神社を訪れ、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日の内に府中に戻ったいう。

その道筋は、大国魂神社神主の日記、六所宮神主日記によると、府中を発ち、金子、馬引沢、目黒で休息しながら品川宿に着いたとある。「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区の上馬、下馬付近、目黒は目黒不動だから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水路沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社、安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、くらやみ祭りの道筋ではないかと考えられている。
※世田谷区役所ホームページより

世田谷区役所の記事を元に、早速、明治13年の古地図で推理してみる。

結果はこれだ。


より大きな地図で 品川道 を表示

明治13年の地図と重ねてみる。

品川道明治13年古地図

滝坂道の松原宿クランクを北に行かず江戸期の南側の方の道へ。途中で南に折れ、城山小学校の西端と南端に沿い鳥越川を渡る。この橋こそ品川橋だ。だから、「品川橋」だったのだ。鎌倉道世田谷元宿ルートで旧大山道へ。そのまま鎌倉道世田谷元宿ルートであり六郷田無道を進み、環七手前で六郷田無道へ分け環七に入り、野沢の追分で品川用水跡に入る。目黒通りに出たらそのまま目黒通りを東へ。山手通りを南に折れ、目黒不動尊付近の旧道に入り、中原街道に出たら再び山手通りに復帰し、居木橋を渡り目黒川沿いに荏原神社に至る。

滝坂道、鎌倉道、六郷田無道と、国府である府中と国津である品川湊を結ぶ古道を繋いでいたのだ。

1590年、秀吉の小田原征伐で、世田谷城も前田利家により落城、城主吉良氏朝は、抵抗せず、秘密裏に、この道を使い品川に出て、舟で上総に逃げている。歴史の道だ。

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