2022年8月6日土曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、【番外編】大師道

このシリーズの前回、横大道を行きました。

横大道は、鎌倉街道下道、中道、上道を結ぶ連絡路であり、羽田や品川、その周辺から武蔵御嶽神社へ参拝する御嶽道、でもあったという話をしました。

羽田や品川の御嶽講の人達は、羽田道で穴守稲荷神社、弁天様をお参りし、羽田の渡しで多摩川を渡河して川崎大師を参り、そこからは大師道を使い小杉村まで来ていたそうです。

そこで今回は、マイナー鎌倉街道シリーズ番外編として、前回紹介の横大道 = 御嶽道の続編として、近代御嶽講のルート通りに、大師道をexploreしたいと思います。

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多摩川サイクリングロードで一気に穴守稲荷の旧一の鳥居まで。

しかし、二子玉から先の多摩川左岸は走りづらいですな。

何度も訪れてますが改めて、広重も描いた、"はねたのわたし弁天の社" の今の風景です。

はねたのわたし弁天の社、2022/8/6

広重が描く程の名所とあれば、寄らないわけには行きませんね、御嶽講といえども。

歌川広重、名所江戸百景より、はねたのわたし弁天の社、1858。それにしても広重構図ですね。船頭の膝の辺りにあるのが弁天様、今の羽田空港のトンネル出口付近で、ここに、弁天様と穴守稲荷がありました。

今は、鈴木新田に波の侵食によって開いた穴を守る(塞いだ穴が再び大きくならないようにする。)稲荷と弁天様は、この風景の中にはありません。

敗戦によって今の場所に移転させられました。

今の穴守稲荷神社

今の弁天様、外観は見る影も無い

しかし、弁天様は今でも美しく、スマホの方は是非クリックしてピンチアウトしてzoom upしてご覧ください。

さぁ、羽田道で羽田の渡しに向かいます。

羽田道の鷗稲荷

羽田の渡し

程無く、川崎大師です。

仲見世

川崎大師

寺伝によれば、1128年開創、平間兼乗開基の古寺です。

漁師兼乗はある日、網の中に弘法大師の像を引き上げ、洗い清め、花を捧げ、小堂を建てお祀りしていた所、高尾山尊賢上人これを見て、開山となって平間寺を開創、という縁起です。

浅草寺と全く同じですね。

1813年には、11台将軍家斉も厄除けで訪れたとあっては、御嶽講もお参りししないわけには行きません。

と、御嶽講はここにも寄り道して、大師道を小杉に向かうのでした。

その道筋で、面白そうな話が残る私なりの名所に寄り道しながら、小杉に向かいましょう。

まずは薬王山医王寺です。

薬王山医王寺

風土記によれば、

"開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。"

と、彼の伝教大師最澄の従者が開山、801年、あるいは805年と言われる古寺です。

先を行きましょう、下平間村の天満天神社です。

寂れに寂れた

ここの縁起が興味深い。

"当社の由来については、創立年代は不詳であるが「新編武蔵風土記稿」に、「当社は村の北方にあり、神体は木の坐像にて長さ一尺二寸余、社辺に松樹数株あり。小倉村無量院の別当なり」と記されている。また、下平間の旧家に伝わる古文書(弘化三年[1846]記)によると、「武州多摩郡谷保村天神社伝記に、延喜三年[903]二月二十三日父君菅原道真公筑紫にて薨去(五十九歳)なされたと聞き三男道武公悲嘆のあまり、父君の尊像を自ら模刻し孝道の誠を尽くされた。その後、道武公その尊像を供奉し、谷保村に来たり一社を草創しこれを安置した。

こののち道武公当地縣主、上平貞盛の女を娶り一子を得、その子を菅原道英と号す。それより六世の孫津戸三郎為守、菅原道真公の尊像を供奉し、当地(下平間)に来住し一社を建立する」と記されており、当初は一氏族の、氏神としての性格が強かったようでありますが、年月が経つにつて、下平間の鎮守として祀られるようになり村民の信仰を集め現在に至っている。また、江戸時代の再建と思われる社殿は第二次世界大戦の末期、昭和二十年四月十五日の川崎大空襲によりことごとく焼失し、かっての面影はない。しかし昭和四十年九月氏子の寄進により、現在の社殿が再建された。(境内石碑より)"

どっかで聞いたことあるぞ、ということで、谷保天満宮の縁起を改めて確認してみると、

"昌泰四年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。延喜三年父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りである。天暦元年京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。建治三年後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められる。

その後、道武公の裔孫津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てるが、養和元年十一月三日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、 社務六院を置き祀典を司どった。明治十八年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。"

と、いうことで、とてもよく似ています。

ここ天満天神社は、谷保天満宮旧地からここ下平間に還した、とし、谷保天満宮は、旧地から今の谷保天満宮の位置に還したとしています。

先を行きましょう、同じく下平間村の稱名寺です。

称名寺

開創時期不詳も、当初、真言宗寺院として創建され、1300年前後、浄土真宗へ改めたとのことです。

ここで面白い話が。

浄土真宗へ改宗時、不要になった弘法大師像を多摩川に捨てたそうで、それが、下流で平間兼乗が網にかけた弘法大師像だということです、風土記によれば。

更に、赤穂浪士所縁の寺としても有名で、大石内蔵助が吉良上野助邸へ討入りを果たす前に、この付近に滞在していたものとされています。

これまた意外な名所でした。

ここで、ちょっと道筋からは外れますが、多摩川方面に行ってみます。古市場村です。

理由はこれです。

三日月湖、天満天神社と称名寺に赤点

はい、迅速測図の時代(1880〜1886)には、ここに、三日月湖があったんですね。

元の流路はこっち、ということです。今は公園になってます。

多摩川旧流路、三日月湖

この大師道、よく見ると、道の両サイドが茶色でゲジゲジに描かれているんですが、これは、土手道を表しています。

つまり、この道は土手道、堤道、防波堤なんですね。

なのでその内側にはこのような三日月湖が残っている、そういうことになります。

先を行きましょう、今井神社です。

今井神社

ここは、頼朝の時代に、小宮筑後守道康(重康とも)の霊を祀ったという伝承があり、この辺りには小宮筑後守道康(重康とも)の居館があったとされています。

いやいや、頼朝の時代とは、こんな、いつ洪水が起きてもおかしくないエリアに、意外な古社ですね。

しかし、この、小宮筑後守道康(重康とも)、西党小宮氏かな、なんて想定しながら探しましたが出てきません。

記事によっては、畠山重忠のことだ、というのもありました。

この少し先から府中街道を離れ旧道に入り、中原街道に出合う所に油屋の庚申塔があります。

油屋の庚申塔

十字を油屋の庚申塔の立つ位置に配置、迅速測図の時代(1880〜1886)には府中街道はここを通っていた。

つまり、道標を兼ねていた、ということになります。1843年に建立、"南大師道" と彫られています。

クリックして選択しピンチアウトしてzoom upしてみて下さい。

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如何でしたでしょうか。

酷暑続きで3週間振りのサイクリングでしたので、どフラットのコースにしてみました。

暑さもそれ程でなく、曇で写真は映えませんが、まぁ、良しとしましょう。