一番が金乗院で三十三番が妙善院となっていて、狭山丘陵の縁を、逆 "の" の字を描くように配置されています。全長約30km。
天明と言えば歴史の授業で習いました。天明の大飢饉。私は、これが、狭山観音巡礼開創の一因であったと思います。
- 天明の大飢饉
天明2年、3年は天候不順で、異常低温、多雨、洪水が発生、追い打ちをかけるように浅間山の大噴火で、天候不順と降灰で作物は育たず、飢饉となりました。この飢饉は翌4年にも続きます。天明5年は良かったですが、翌6年は再び異常乾燥、洪水(浅間山噴火の降灰により川床が上昇)により大凶作となりました。これもやはり翌7年まで影響しました。天明の大飢饉で全国で約90万人が餓死したと言われています。 - 武州村山騒動
天明4年、とうとう、ここ武州村山で、米などの買い占めをしていた豪農に対する打ち壊しが発生しました。
こういった事態から民を救う為、観音巡礼を開創したものと思われます。観音信仰は現世利益と結びついています。この飢饉をどうにかしてください、民のそういう思いを汲み取るということだったんでしょう。
◇■□◆
多摩湖自転車歩行者道で多摩湖へ。
いつものカット |
多摩湖北岸に回り込み、一番札所金乗院です。ここは二回目です。
金乗院、本堂 |
風土記によれば、
"山口観音と號す、此邊昔は近村をすべて山口と號せし故にかく呼べるなり、天正十九年観音堂領十石の御朱印を給ひしより、今も御朱印の地なり、本尊は千手観音行基菩薩の作にして、弘法大師の開基と云、さればことに古跡にして、諸方よりも詣る人多し・・・"
と、観音巡礼一番札所に相応しい歴史です。
さて、三十三観音全てを巡っては時間も掛かるし、今回は道に焦点を当てて、お寺はポイントのみ巡ります。
三番札所の六斎堂、四番札所の正智庵、五番札所の勝光寺をやり過ごし、二番札所の仏蔵院を訪れます。ここも二回目です。
仏蔵院、本堂 |
風土記によれば、
"辰爾山佛蔵院大坊と號す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺の末、本尊十一面観音を安ず、相傳ふ當寺は殊に古き寺院にて、往昔百済より帰化せし儒生王仁が五代の孫、王辰爾が子、其父の菩提の爲に開闢せし伽藍なりと云、又王辰爾此地にて終焉せしとも云・・・"
王辰爾は6世紀後半の人物ですから、金乗院をも凌ぐ相当な古寺ということになります。
六番札所瑞岩寺、七番札所普門院をやり過ごし、八番札所新光寺です。ここも二回目でした。
新光寺、本堂 |
猫の足あとによれば、
"新光寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の観音像は行基菩薩の作であることから行基菩薩(天平年間)による開基と考えられ、源頼朝が建久4年(1193)那須野へ向かう途中に田地を寄進したといいます・・・"
とのことで、こちらも三十三観音を代表する古寺です。
新光寺まで、東へと向かっていた巡礼道はここで南へと向きを変えます。
所沢駅を通り過ぎ、九・十番札所梅岩寺、十一・十二番札所徳蔵寺をやり過ごして、十三番札所正福寺です。
正福寺、国宝地蔵堂、1407年建立 |
風土記によれば、
と、鎌倉期の開創ですが、何といっても国宝です。
巡礼道は西に進路を変え、十四番札所宝珠寺、十五番札所清水観音堂、十六番札所三光院、十七番霊性庵とやり過ごすと高木村に至ります。
高木村鎮守、高木神社 |
武州村山騒動では、高木村の高木村名主の庄兵衛が打ち壊しに遭いました。この辺りでしょうか???
十八番札所雲性寺、十九番札所はやし堂をやり過ごすと、二十番札所真福寺です。
真福寺、本堂 |
境内掲示によれば、
"龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(七一〇)、行基によって創建され、その後、承久二年(一二二〇)に落雷によって焼失したと伝えられる故刹です・・・"
ということでここも相当な古刹です。
二十一番札所原山観音堂を過ぎると、中藤の日吉神社があります。
中藤日吉神社 |
武州村山騒動では、高木村とここ中藤村が打ち壊しに遭いました。中藤村では、山王前という屋号の文右衛門が被害に遭っています。旧中藤村で山王と言えばここ日吉神社ですから、この辺りと思われます。
二十二番札所吉祥院、二十三番札所慈眼寺、二十四番札所禅昌寺、二十五番札所福正寺とやり過ごし、日光街道と出合ったら北に進路を変えるとここに狭山池があります。
武州村山騒動は、天明4年(1784)2月27日夜中の12時に、ここ狭山池を出発し、今回の私の巡礼道とは逆に道順で、中藤村、高木村に向かっています。
狭山池 |
武州村山騒動は、天明4年(1784)2月27日夜中の12時に、ここ狭山池を出発し、今回の私の巡礼道とは逆に道順で、中藤村、高木村に向かっています。
巡礼道は狭山湖の北側に回り込み、東進します。二十六番札所山際観音堂、二十七番札所寿昌寺をやり過ごすとやがて、二十八番札所西久保観音堂です。
猫の足あとによれば、
西久保観音堂 |
境内掲示によれば、
"陽射しをいっぱいに浴びた西久保観音堂。神亀5年(728)春、行基が全国行脚の途中、堂を開いたのが始まりといわれています・・・"
と、ここも古刹です。
西久保観音堂の直ぐ先には二十九番札所の西勝院があります。
西勝院、本堂 |
猫の足あとによれば、
"西勝院の創建年代等は不詳ながら、一説には、聖武天皇が全国に建立を命じた国分寺(最勝王院)の一つではないかともいい・・・"
また、風土記によれば、
"本尊彌陀立像長四尺許、相傳ふ昔行基菩薩當國行脚の時、偶此地に宿して彫刻せし像なりと・・・"
と、ここも由緒正しき古刹ということになります。
三十番札所松林寺、三十一番札所聴松軒、三十二番札所慈眼庵をやり過ごし、最後の三十三番札所妙善院です。
"光輪山と號す、曹洞宗、多磨郡前澤村浄牧院の末寺なり、慶安年中寺領十一石餘の御朱印を賜はる、開基は家傳によれば澤次郎右衛門吉縄が子、勘七郎吉宗といひし人なりと云、又寺傳に云所はもとの地頭澤次郎右衛門寺勝その亡父次郎右衛門幸時がために、開山僧呑碩を住持として起立せり、幸時が院號を光輪と云、是を山號とす、呑碩は承應元年三月十日化す、本尊白衣観音坐像にして長六寸許り、行基の作なりと云、當寺古くは小名寺山と云所にありしを、後ここにうつせしと云。"
と、いうことで、慶安は1648〜1652年、承応元年は1652年ですから、これまでご紹介した古刹とは違い、江戸期の開創ですが、天明期には影響力があったのでしょう。
◆□■◇
如何でしたでしょうか。
一番の金乗院は真言宗、三十三番の妙善院は曹洞宗です。宗派の異なる寺が、天明の大飢饉という社会的な危機に、協力し合った、当時はお寺が人々の社会に大きな影響があった、大きな役割を持っていたということが垣間見えるのではないでしょうか。
さて今の世の中、振り返るとコロナですね。
―――――
お気付きでしょうか?
行基伝承が目立ってましたね。
はい、ここは行基濃度が濃いエリアかな、と、個人的な感想です。
今回スコープじゃなかったので訪問しませんでしたが、出雲族濃度も高い。
武蔵野台地で唯一(実は他にもありますが)多摩川に押し流されなかった狭山の地。面白いエリアです。