皆様、学校で習ったのを覚えてらっしゃると思います。
不平等条約というやつです。
1858年に、江戸幕府が、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、そしてフランスの5ヵ国と、それぞれ結んだ修好通商条約、これが所謂不平等条約ですが、これにより、横浜が開港します。
翌年の1859年6月28日、地元出身の芝屋清三郎の店に英国人イソリキがやって来て、甲州産島田造生糸六俵を高値で買いました。
生糸の海外への販売第一号です。
ここから、輸出世界一に上り詰めるまで、怒涛の生糸生産、輸出が始まります。
開港したのは横浜だけではありませんでしたが、世界一の輸出量を誇った生糸は、その殆どが、横浜から輸出されました。
生糸は日本中から八王子に集められました。
だから、生糸を八王子から横浜へ運んだ道、それが、日本版シルクロード、絹の道となったわけです。
が、生糸なんですね、生糸。絹織物ではないのです。
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日本に養蚕技術が伝わったのは、ナント!! 紀元前200年程で、稲作と共に中国からの渡来人によって、でした。その後、紀元後195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
奈良時代には、東北・北海道を除いて、全国的に養蚕が行われ、税として朝廷に集められました。租庸調ですね、学校で習いました。絹の場合、"調絹" です。
(因みに、絹以外の布、この頃は主に麻ですね、の場合、"調布" でした。東京都調布市を流れる多摩川は、嘗て、"多麻川" と書きました。"麻が多い" です。この辺りは正に、麻布を調として納めていた[調布]ということですね。)
平安時代になると服装も日本風、つまり、所謂着物に変わり、日本独自の紋様の絹織物が作られるようになりました。
が、鎌倉時代になると質素を好む武士が中心となり、室町・安土桃山時代になると、西陣織が開発され、能装束や小袖飾りなど、実用性を離れ、権力を誇示する為のものが多くなりました。
江戸時代になると、とうとう、武士以外の人びとの絹着用は禁止されましたが、西陣織による能装束や小袖などの高級織物は保護され、その為、中国から生糸が輸入され、その支払いには国産の銅があてられましたが、輸入の増加により国内の銅の大半がなくなるほどでした。
こうして幕府は、中国からの生糸の輸入を減らす為、養蚕を奨励し始めます。
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昭島地域でも、村方明細帳などの古文書に蚕のことが散見され始めます。例えば1720年8月、上川原村では、
『一、蚕之儀村中女稼ニ少々宛ニ仕候』
と、あり、1746年の文書にも同様の書上げがあります。
更に、市史付篇の年表には、1781年、拝島村に絹織物の市がたったことや、1799年の文書には、農業の間に男は五日市から炭を買付け江戸へ送る駄賃稼ぎをし、女は木綿、紬(絹織物)を少しずつ織っていると書かれた記録もあります。
また、1839年、上川原村に繭の仲買商がいたことなどがあげられています。
と、いうことで、1859年より前は、多摩地域の農家は、農間稼ぎとして、桑の育成から絹織物までの一気通貫ビジネスをやっていました。
生糸ではないんですね、絹織物(絹織物と言っても農家の女性陣が農間稼ぎに織ったものですから、京都で作るようなものとは異なり、しかし、武士向けのものだったと思われます、既述のように武士以外の絹着用は禁止されていたので)なんです。ここが1859年以降との大きな違いでした。
多摩地域で作られた絹織物は、横浜開港前ですから、江戸に運ばれました。
八王子から横浜への絹の道が1859年以降の生糸の絹の道なら、1859年以前の絹の道は、市が立っていた拝島から江戸への絹織物の絹の道だと言うことが出来ると思います。
そのルートは、
- 多摩川水上ルート
- 奥多摩街道〜甲州道中ルート
- 五日市街道ルート
- 江戸街道〜人見街道ルート
だったのではないでしょうか。
下表は、天明期の多摩地区の村別絹織物集荷量です。どこに市が立っていたか分かりますね。
今回exploreしている、府中、砂川、立川、昭島、拝島、福生と言った、多摩川沿いであり且つ多摩川を渡らないエリアには、拝島しか市が無いことから、これら村々からは拝島に絹織物が集まったことが分かります。
と、言うことはやはり拝島から江戸へのルートということになりますね。
村 | 細縞 | 太織縞 | 紬 | 紬縞 | 絹平 |
青梅 | 20,000 | 2,000 | 1,000 | ||
八王子 | 18,000 | 1,000 | 3,000 | ||
川越 | 15,000 | 15,000 | |||
青梅新町 | 15,000 | 2,000 | 1,000 | ||
扇町屋(入間) | 10,000 | 2,000 | |||
五日市 | 10,000 | 1,000 | 300 | ||
拝島 | 5,000 | 1,000 | |||
伊奈(五日市の直ぐ東) | 5,000 | 500 | 500 | ||
平井(伊奈の北) | 5,000 | 500 | |||
計 | 103,000 | 9,000 | 3,800 | 3,000 | 15,000 |
さて、1~3はメジャーなので置いといて、"江戸街道" ですが、これです。
今昔マップで1896~1909と迅速測図(1880~1886)から江戸街道、左下に拝島村 |
この道はナント!!!, 大沢まで真っ直ぐに続きます。
江戸街道が人見街道に交わる部分 |
古地図を見てお分かりの通り、この立川段丘は、水が無いので集落も殆ど無く、樹林帯ですから、好き放題に真っ直ぐに道を作れたわけです。
江戸街道とわらつけ道の辻に立つ庚申塔、わらつけ道とは、養蚕の為、藁を府中に買い付けに行った道。行き先は確かに府中の本宿ですね(下記)。 |
赤矢印が庚申塔のある位置 |
と、言うことで今回は、大沢から拝島まで江戸街道で行き、帰りは奥多摩街道・甲州道中で帰ってくる、1859年までの絹の道をexploreします。
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大沢から江戸街道で拝島まで自走35km。事前机上exploreでは、上述の1700~1859年までのさしたる養蚕痕跡は見つけられなかったんですが、古道なので実走したら何かあるのではと期待して行くも、やはり、何も無く、ただひたすらに住宅街を行き、玉川上水に到着です。
(しかし、Google Mapsの航空写真で見るとよく分かりますが、たった100年前は前人未到の樹林帯だったのに、どうしてここまで人家が密集したんでしょうかと思うくらいです。これも産業革命の成せる業なんでしょうが、温暖化になるわけですね。)
ここからわらつけ道を行きます。先程もわらつけ道が出てきましたが、こちらのわらつけ道は養蚕とは無関係のようです。
こちらも1700~1859年までの歴史遺産も無いまま、松林通りに到着し、左折、福生神明社に向かいます。
福生神明社の裏、道を挟んだ所にあるのがこちらです。
高崎治平翁頌徳碑、昭和11年(1936)成進社関係者による建立。左に大きな桑の木。桑はここまで大きくなると木肌が椚みたいになるんですね、知らなかった。 |
この高崎治平という人物は、安政2年(1855)福生村に生まれ、長野や群馬などの養蚕業を視察、先進的な養蚕技術を導入し、蚕種の改良や、蚕種を自分で製造し、多摩川沿岸の荒地を開墾して桑畑を造成したりしました。
大正15年(1926)には、成進社を起こし、養蚕農家育成に尽力しました。
成進社で養蚕技術を学んだ養蚕農家は、8000名を超えたということです。
同じ場所に、蚕影山大権現の碑もありました。
こちらはこの後行く、永昌院から、先程の碑と同じく、昭和11年(1936), 成進社関係者が移設したものです。
蚕影山大権現 |
その、府中から西の、多摩地区における養蚕守護の中心地、永昌院です。
当時の住職が、幕末に、蚕影神社別当桑林寺に修行に入り、最終的には御旅所の免状をもらいました。
これにより、言ってみれば蚕影神社別当桑林寺の支社の位置付けとなって、養蚕守護の御札を授ける資格、機能を持ち、多摩地区養蚕農家の信仰の中心となっていったのです。
1859年ですからつい160年前なんですが、養蚕の痕跡がなかなか見つからない、そんな中、福生は割と残ってるなと思っていたんですが、理由は永昌院だったんですね。
先を行きましょう。熊川神社です。
境内の案内によれば、養蚕・製糸業の守護神として信仰され、毎月十日の縁日には、地元森田製糸場の女工らで賑わい、1月の十日は繭玉も作られたということです。
が、今回の主役はこちら、境内社の琴平神社です。 |
境内の案内によれば、養蚕・製糸業の守護神として信仰され、毎月十日の縁日には、地元森田製糸場の女工らで賑わい、1月の十日は繭玉も作られたということです。
ここは2度目だったのですが、前回は渡来の道で、養蚕痕跡とは気付きませんでした。
先を行きましょう、拝島大師です。
先を行きましょう、拝島大師です。
深大寺と同じですね。
蚕の病気除けにだるまが効くと言われて大流行し、深大寺を含め、各地でだるま市が開かれましたが、ここ拝島大師は、正月二、三日に開催されるだるま市で、最も早いだるま市として、大変な賑わいとなっていたそうです。
現代地図をご覧の通り、奥多摩街道は桑畑を縫っていく道筋となっていますが、通り沿いの寺社の謂れを見ても養蚕との繋がりは見つけられず、甲州道中を経由してそのまま帰宅です。
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如何でしたでしょうか。
1859年を境に、江戸への絹織物の絹の道と、横浜への生糸の絹の道があった、と、整理できた時は、古道explorer冥利に尽きると、興奮したんですが、実走してみたら痕跡はたった1つだけでしたね。
もう住宅街のど真ん中を行く道で、たった100年前は人家が全く無い樹林帯だったとは、想像し難い状況でした。
しかし、前々回の府中、前回の砂川、そして今回の拝島、福生という府中から西の多摩地区で、迅速測図の時代、つまり、1880~1886年に既に桑畑が多く見られた、その理由が、直ぐ北にある渡来人エリア、新羅郡、高麗郡の渡来人の影響だったということが分かったことも、これも大きな興奮でした。
と、言うことで、まぁまぁでしたかな。