前回の橘樹郡では、橘樹郡と都筑郡の郡境は、多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺だと結論付けました。
これを頭に入れながら、迅速測図が示す、迅速測図当時(1880~1886)の郡境を確認していきましょう。下記地図の黒線です。
※矢野口辺りから目線をお願いします。
同じ多摩川水系の五反田川と三沢川の分水嶺を西進して来た橘樹郡と多摩郡の郡境は、向原、金程の辺りで南下し麻生川に乗ります。
台地を下り切って津久井道の手前で、東に行くのが橘樹郡と都筑郡の郡境、西に行くのが都筑郡と多摩郡の郡境です。
都筑郡と多摩郡の郡境を見ていきます。これは、麻生川上流と、麻生川支流の古沢を流れる(仮称)古沢川、それと片平川の両川との分水嶺となります。
その後、北西進を続け、三沢川を突っ切り、横山の道(乞田川と三沢川の分水嶺、共に多摩川水系)に乗って南西進し、突如、南下して、ナント!!!三沢川を再び突っ切って、その後、布田道(多摩川と鶴見川の分水嶺尾根)に乗って北東進し、このエリア最後は、片平川と真光寺川(共に鶴見川水系)の分水嶺尾根(鎌倉街道早ノ道)に乗って南下し、津久井往還に至ります。
いやぁ、どうでしょう。
三沢川(多摩川水系)を突っ切ってるのが気になりますね。それも2回。
ここはやっぱり紫線なのではないでしょうか。
この紫線(婆々尾根)なら、三沢川は突っ切らないし、且つ、片平川も源頭を掠めません。鶴見川水系の片平川を都筑郡の内側に取り込めます。
逆に言えばそうなるように紫線をセットしたんですが、この婆々尾根は、多摩川と鶴見川の分水嶺なんですね。
こうなってくると多摩川と鶴見川の分水嶺が気になってきて、これを引いてみると、左上(鶴見川源流の泉付近)から、
- まずは東方面では、ピンク太線よこやまの道→黒線布田道→紫線婆々尾根→ピンク太線→黒線橘樹郡多摩郡郡境→ピンク太線→黒線橘樹郡都筑郡郡境を有馬古墳まで→ピンク太線→高田村紫線→赤線南側→加瀬山で終了
- 次に南方面、これは武相国境になりますが、グレー太線→黒線→帷子川河口で終了
となって、この、多摩川と鶴見川の分水嶺と武相国境に囲まれたエリア、つまり、鶴見川水系エリアですが、これが、オリジナルの都筑郡なのではないか、と、直感的に思ったのです。
前回の橘樹郡でも言いましたが、こうすると実にスッキリします。橘樹郡は多摩川水系、都筑郡は鶴見川水系ですから。
こう仮置きしておいて、和名類聚抄にある郷を考えてみると、
- 余部(あまるべ), これは戸数が50に満たない郷のこと
- 店屋(まちや), 町田市町谷原
- 駅家(えきや), 郡衙がある荏田
- 立野(たての), 立野牧の立野であって、町田市小山田
- 針折(はざく), 八朔
- 高幡(たかはた), 不明
- 幡屋(はたや), 二俣川
と、言うことで、このblogでは都筑郡は多摩川と鶴見川の分水嶺と武相国境(東京湾と相模湾の分水嶺)に囲まれた、鶴見川水系の郡、ということとしたいと思います。
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と、いうことで鶴見川の郡境が決まったんですが、困ったことがあります。
多摩川と鶴見川の分水嶺は前回実走したし、武相国境(1, 2)も実走済みですし、じゃあって言うんで迅速測図の郡境を行ってみようかと思っても、ここも散々行った所(鎌倉街道早ノ道、三輪1, 三輪2, 武相国境)です。つまり、走る所が無い。
と、言うことで、武蔵国郡境を行く、が、テーマですが、今回都筑郡では、郡境は行かず、都筑郡とは?, をテーマにexplorerしたいと思います。
と、なるともう杉山神社しかありませんね。
また、杉山神社は式内社ですが、特定されてません。上表は論社です。
上表を見て思うのは、
- 殆どが、御神体がお不動さんで別当が真言宗寺院です。これは、一説によると、金沢北条氏の金沢称名寺を起点とした真言宗の勢力拡大だということで、と、なると、真言宗勢力は、杉山神社を頼りに勢力拡大を図ったということになって、鎌倉期以前から、杉山神社は都築郡の有力な勢力だったということになりそうだ、ということ。
- 御祭神は日本武尊、あるいは五十猛命ですが、一説によると、廃仏毀釈の際、宛がわれたということで、上記真言宗との関わりからしても納得のできる話であり、と、なると、御祭神は、式内を考える際には当てにしない方が良いということ。
- やっぱり、鶴見川沿いということを考えると、太平洋から東京湾に入り、本牧岬を越えて、大きく口を開けた(仮称)鶴見湾に入ってきた場合、鶴見川本流より、むしろ、早淵川の方が真っすぐで、船団はむしろ早淵川にスーッと入っていったのではないかということ。※下図参照
- その早淵川沿いに論社が4つ、集中していて、その先に都筑郡衙があるということ。※下図参照
早淵川と杉山神社論社4社。鶴見川河口から来ると紫線、これが早渕川の想定旧流路ですが、そっちの方がスーッと行きそうではありませんか? |
こうなってくると、伝承(上表参照)からしても、茅ヶ崎に惹かれてしまいますね。
風土記では、茅ヶ崎杉山神社に関し、
"春分ノ日、神供神酒ヲ献シ、神畑ニ麻種ヲ散ズ、神人等之ヲ勤ム 古ハ当郡麻生庄15ヶ村是ヲ勤ト言フ 7月7日梶葉供養、梶ノ葉ニ飯ヲ盛ッテ献ズ、梶トハ楮ノ事ナリ"
"立秋ノ日、高机ニ主麻ヲ奉ジ、此麻ヲ氏子受ケテ産婦ノ守トス、此日麻生庄中ヨリ六所宮ヘ新麻ヲ献ズ"
とあり、迅速測図によれば麻生は早渕川の最上流部の近くにありますが、そこが、大國魂神社へ捧げる麻を栽培する特別なエリアだったことが分かります。
また、少しエリアを広げて武蔵国の麻の栽培について、風土記では、
"天武天皇の御世の天武元年(671年), 阿波の国より神職の一族忌部氏が都筑の地に渡来、苧麻を栽培し、麻布を朝廷に献上した"
とあります。
また、阿波国忌部神社の神紋は梶の葉ですから、これで、茅ヶ崎杉山神社、麻生が、忌部氏で繋がり、茅ヶ崎杉山神社の伝承も補完されました。
ということで今回は、茅ヶ崎杉山神社を中心に、早渕川沿いの杉山神社論社を巡り、最後に麻生に寄るexplorerとしたいと思います。
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古代官道中原街道からまずは新吉田の杉山神社です。
"そもそも杉山神社は安房の忌部氏によって武蔵国南部、都築郡に祭祀され、同郡の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったといされる。"
と、客観的な物言いではありますが、自身の由緒としても、忌部氏によるものであることを示唆しています。
既述のように、ここ新吉田杉山神社を論社とする根拠は、杉山神社背後旧家森家なんですね。その森家は杉山神社の直ぐ西隣にありました。
杉山神社の位置ですが、大きくは早淵川沿いということなんですが、細かく見ると、こういうことになっていそうです。
新吉田杉山神社は、早淵川の真っ正面に位置しているのではなく、早淵川の支流に少し入った所に位置していて、あたかも船のドックのようです。波風の影響をより受けないですからね。太平洋、東京湾、(仮称)鶴見湾から早淵川に入ってきた忌部氏は、船を安心して係留できる入江(支流)に拠点を設け、杉山神社を創建していったということなのかもしれません。 |
大棚の杉山神社に向かいましょう。
大棚中川杉山神社の旧社地 |
大棚中川杉山神社は、明治45年(1912)まで、旧社地にありました。だから、迅速測図(1880~1886)には残っています。
画面真ん中にピンに注目して下さい。杉山社の文字が見え、鳥居マークも見えます。新吉田杉山神社は早淵川の支流 = 入江 = ドックに位置してましたが、こちらは正々堂々、早渕川のド正面ですね。 |
この辺りの地名は、"杉の森" というらしく、別当の龍福寺の山号も、"大杉山" です。
新吉田の論社の根拠が、社地の地名が、"杉山" だから、というのがありましたが、だったら、こちら大棚中川の杉山神社も、地名を根拠に論社と言っても良いのでは、と思わせますね。
そして、大棚中川杉山神社のほぼ真南の岡に立地しているのが勝田杉山神社です。
勝田杉山神社 |
下記迅速測図にあるように、今の中原街道は、嘗ての早渕川の支流、低地を行ってますが、勝田杉山神社は、尾根上の旧道沿いに建てられてます。
新吉田杉山神社同様、早渕川支流のドックに付随して建てられたようにも見えますが、ちょっと分かりづらいんですが、鳥居の向きが北東で、中原街道に沿ってますね。新吉田のようにドックに向いてるのではなく。これは、中原街道が官道となった後に、向きを変えられたんでしょうか・・・。
真ん中やや上の青マーカが勝田杉山神社、その直ぐ東の県道45号線が今の中原街道 |
それでは本命の、茅ヶ崎杉山神社に向かいましょう。
茅ヶ崎杉山神社 |
公園内に残る尾根の徒歩道 |
こちらもドックですね。
画面真ん中のピンが茅ヶ崎杉山神社、分かりづらいですが、杉山社の杉の所にピンを打ってしまいました。鳥居は南面していて、その先は入江になってますね。 |
それでは最後、麻生に向かいましょう。早渕川を遡り、これまた古代官道だった大山道を左に折れ、一尾根越えて鶴見川に出ます。
その後、鶴見川を遡り、前に来ましたが、稲荷前古墳に寄っていきましょう。
15号墳から16号墳を望む |
墳丘からの眺望、大山と富士、手前に鶴見川 |
その後、麻生の中心地に向かいます。
麻生の中心地、月読神社。この辺りは嘗て、"国領" という地名だった。 |
さて、麻生の中心地はこの辺りのようなんですが、既述の、茅ヶ崎杉山神社に関する風土記の記述にある麻生庄あるいは麻生郷は、もっと広いエリアだったようです。
早渕川沿いの、新吉田、大棚中川、勝田、茅ヶ崎の4つの杉山神社論社と都筑郡衙(以上、黄色ピン)と、1590年の秀吉による禁制に残る麻生郷9村(水色ピン) |
いやあ、こうして俯瞰して見てみると、多摩川と鶴見川の分水嶺(画面左上から右下の黒線)と、早渕川から一尾根越えて鶴見川に行き鶴見川を遡るライン(その南の赤線)に囲まれたエリアが麻生郷で、海から来て早淵川に入ると、4つの論社があり、その4つの論社はほぼ同じエリアに固まっていて、遡ると都筑郡郡衙があり、古墳群もあります。
西の支流を進路に取り、この支流は奥深くまで刺さってますから、ほんの一尾根越えると鶴見川で、鶴見川に降り立ったところに稲荷前古墳があるわけです。
そこを遡ると麻生の中心地でした。更にその目の前には三輪があります。
三輪は言わずと知れた奈良の三輪の里からの移住の地です。
三輪椙山神社 |
そして、阿波忌部氏の親元となる中央氏族としての忌部氏の根拠地は三輪の里から10km弱の至近にあります。
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如何でしたでしょうか。
都筑郡とはどんな郡か
杉山神社を辿っていったら、何だか分かってきたような気がしています。
都筑郡とは、中央氏族としての忌部氏とその部民である阿波忌部氏の進出によって出来た郡であり、大和王権、あるいは武蔵国総社大國魂神社への麻布の献上を役割としていた郡なのではないか。
中央氏族としての忌部氏とその部民阿波忌部氏は、太平洋から東京湾に入り本牧峠を抜け、(仮称)鶴見湾に入り、中央氏族としての忌部氏は、奥の院的に鶴見川を三輪まで遡りそこを拠点とし、部民阿波忌部氏はその手前の早渕川沿いを拠点として、杉山神社を創建した。部民の更に小集団が、それぞれ、新吉田、大棚中川、勝田、茅ヶ崎の4つに担当を分担した。よって杉山神社は、4つで一体であり、延喜式はこの4つの総体に対して位を与えた。
・・・ということではないでしょうか。
などという戯言を言いたくなりました。