前回で、771年以降、延喜式前の武蔵国の古代東海道の、武蔵国府〜乗潴駅〜豊島駅ルートを完了しました。
今回は、771年に、武蔵国が東海道に付け替えされる前の、武蔵国がまだ東山道所属だった時の、東山道本道から武蔵国府への連絡路である、東山道武蔵路をExplorerします。
東山道武蔵路は、入間川までは、発掘が非常に良くなされていて、発掘された道路遺構を直線で繋ぐと、1300年以上前に使われていた東山道武蔵路が現れます。
現れた1300年前の東山道武蔵路は、武蔵国府と上野国新田駅・下野国足利駅とを単純に直線で結んだルートとほぼ重なり、古代官道が、当時、本当に、山や川、湿地等々、上り下りも何するものぞとばかりに、最短距離となる直線で繋ぎ合わせていたことに驚くばかりです。
府中からほぼ真北に伸びている黒線です。是非、大きくしてご確認ください。
オレンジのマーカが史跡で、東山道武蔵道の道路遺構も多く含まれています。
今回は、既述のように、比較的、確定的とされている入間川以南を南下するルートで行きたいと思います。
見所は、事前机上Explorerによると、
- 堀兼の掘割道
- 堀兼神社、堀兼井、野々宮神社、七曲井
- 現道に残る東山道武蔵路
- 東の上遺跡
- 八国山
- 武蔵国分寺
の、ようです。
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久々の輪行で新狭山まで。しかしこの駅は完全にホンダの為の駅ですね。それを思うと、今回のブレグジットに伴う、ホンダ工場のイギリスからの撤退は、地元にとっては厳しいんでしょうね。が、それが、資本主義、グローバリズムです。
新狭山駅から、ホンダ狭山工場で東山道武蔵路が途切れた地点に向かい、ここからスタートです。
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この道が現道に残る東山道武蔵路。正面がホンダ狭山工場、途切れてます。ここから南下します。 |
畑の中の長閑な道を行きます。ホンダ狭山工場から先(南)は、東山道武蔵路が、ほぼ、現道に残っています。地図をご確認ください。真っすぐでしょ。
道はやがて堀兼中の所で畑に阻まれます。右折し、現道(これも迅速測図に載る古道)に迂回し回り込み、直線上の森の中の推定地点に果敢に挑みました!!!
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下のオレンジマーカが、直線上の推定地点 |
すると出てきたのがこの掘割道でした。いやぁ、面白いですね。時空を超えたExploreの醍醐味です。
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堀兼の掘割道。位置的、方向的にも、ぴったしなんですが。。。 |
が、道自体は素敵なんですが、如何せん、幅が狭過ぎますね。後で何度か出てきますが、古代官道のwide&straight度合いは、こんなもんじゃありませんから。
堀兼の掘割道を過ぎ、アスファルトの道に復帰しますが、信号を過ぎた先はこの直線でした。
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先の先まで見通せます。 |
不老川を越え、堀兼神社、堀兼井に到着です。
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堀兼神社。創建年は不詳ながら、堀兼井に関連していると思われ、その堀兼井は、平安末期には既に知られていたことから、創建は平安時代以前とも言われています。社記では、日本武尊東征の折、立ち寄ったとの伝承もあります。 |
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堀兼井 |
堀兼神社と堀兼井、そのペアと似たペアが、ほぼ真西の鎌倉街道上道沿いにもあります。
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野々宮神社、狭山市サイトによると、この野々宮神社の社家の伝承によれば、奈良時代の創立とのことです。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣した際、この野々宮神社社家は、神武天皇御東征に従軍したそうです。そんな歴史ある社家ですが、いつの頃かこの地に下り、奈良時代には、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し、つまり野々宮神社を創建し、入間路の警備と七曲井を管理したとのことです。 |
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七曲井 |
非常に興味深いですね。一方は東山道武蔵路に、堀兼井を守る為の堀兼神社が。もう一方は鎌倉街道上道に七曲井を守る為に七曲井があるんです。
この井戸に関しては、詳しくは
wikiをどうぞ。
さて、堀兼神社に戻り、続きを行きます。堀兼神社を過ぎたら直ぐ、2本の道が並行している所に出ます。この2本の道の間が、東山道武蔵路そのものになります。
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マーカの所 |
GEでも見てみましょう。
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マーカは同じ位置です。西側の狭い方の道は分かりづらいですが、黒線がある広い方の道の直ぐ西側が帯状になってますね。これが、東山道武蔵路そのものだということです。 |
正面に立ち、パノラマで撮ってみました。
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左手に見える道と右手の森とトタンの壁との間の道、その間の森、これが東山道武蔵路です。 |
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途中の風景、これは狭い方の現道ですから、チャリを置いてある左手の森が東山道武蔵路です。 |
ネオポリス西の交差点で、この時空散歩区間は終わってしまいますが、GEでその後も追ってみると、いやいや、所々、痕跡が残っています。探してみてください。
さて、道は、鎌倉街道上道に合流します。現道に残っている部分はこれで終わります。
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鎌倉街道上道との分岐、右が東山道武蔵路 |
ここから先は、現道に残ってません。なので、鎌倉街道上道を行きながら、都度、見所に寄ることにしましょう。まずは東の上遺跡に向かいます。
東の上遺跡は南陵中で見つかりました。当然、今は残ってません。なので、
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所沢市サイトより拝借。発掘当時の東の上遺跡の東山道武蔵路。正面に八国山が見えます。 |
この写真だと本当に良く分かりますが、東山道武蔵路は、このまま真っ直ぐ、八国山に向かってたんです。
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八国山と東山道武蔵路 |
まずは悲田処跡と見られる悲田処公園です。詳しくはやはり
wikiで。
山に登り道路跡が確認できないか、チェックです。まずは北側。
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6月ですから藪で殆ど見えませんが、画面左、なんとなく、掘割の側面壁のようになっているように思えます。 |
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南側は住宅になっていて近付くことすらできません。画面真ん中の森の木々がへっこんでる辺りが該当地点です。 |
八国山をやり過ごしたら、一路、武蔵国分寺に向かいます。写真集のようになってしまいますが、以下、ご覧ください。とても、良い所でした。
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姿見の池 |
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姿見の池の東山道武蔵路跡 |
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国分寺薬師堂 |
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国分寺別院 |
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お鷹の道で、国分寺崖線の湧水で冷やされる大根とその農家 |
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国分寺跡 |
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国分尼寺跡 |
その中でもやっぱりハイライトはこれでしょう。東山道武蔵路跡です。
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このwide&straightさ。堀兼の掘割道と比べると、あっちは、古道ではあるものの、古代官道ではないことが分かりますね。 |
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現地に合った説明版から。分かり易いので。 |
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如何でしたでしょうか。
1300年前の道が現道に残っているというのは、本当に興味深いことです。お勧めです。