2019年2月25日月曜日

続き、船越ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

前回の続きです。

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第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルート、第4弾は走水ルート(続きはこちら)、第5弾は船越ルートで、今回はその続きです。

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岩殿寺の後は、JR逗子、京急新逗子の駅を過ぎ、いよいよ、長柄桜山古墳です。

田越川から、長柄桜山古墳を望む。鎌倉の境は前回ご紹介した鎌倉郡・三浦郡境だが、ここ田越川ももう1つの境と言える。境の川では処刑が行われる。ここ田越川もそう。平清盛のひ孫も、三浦平九郎胤義とその子もここで処刑された。

古墳を作ろうと考えた時、何らかの設計図というか、例えば前方後円墳の場合、円部の大きさと方形部の大きさとの比率とかを考えておかないといけないですね。

という発想から、例えば前方後円墳なら、円部の大きさと方形部の大きさとの比率等々、設計的要素の共通性から、どの流れの前方後円墳なのかを探るという手法があるようで、前回少し触れましたが、この長柄桜山古墳は、距離的により近い武蔵国や相模国よりも、上総国の古墳との共通性が高いということが分かっているようです。

で、えっちらおっちら登った、前方後円墳の前方登頂部から西側の景色がこれ。

真正面に江の島越しの、薄っすらと春霞の中の富士山です。お墓の上で失礼しましたが、ここでランチを頂きました、最高に贅沢な。

この写真を見てお分かりの通り、この古墳(2号墳)と江の島、富士山は、一直線上に並んでいます。

更にびっくりしたのが・・・この地図をご覧ください。



房総半島の鹿野山と猿島、長柄桜山古墳、江の島、富士山が一直線上にあることが分かりました。

もちろん、山や島はその為に作れませんが、そういう位置にある山や島を聖なるものとしたというのは十分考えられると思います。
  • 鹿野山、日本武尊東征の伝説、598年、聖徳太子神野寺開山
  • 猿島、日蓮伝説、大蛇伝説、平安期に春日神社創建
  • 江ノ島、700年、役小角が参籠し、島全体が聖域に
  • 富士山、言わずと知れた富士信仰
一山登った後は、延命寺です。
    延命寺

    お馴染み行基開基伝説がある古寺です。天平年間ですから729〜749年に、行基が彫った延命地蔵を安置したのが始まりと言われています。

    場所的に、田越川で処刑された仏達を弔う役割もあったものと推測されます。町中にある近代的な建物ですが、重要な役割を背負ってきたんです。ストーリーがあるんですね。

    延命寺を後に、旧道が残っている所は旧道を行きつつ、県道24号を東進します。

    東逗子駅入口を北へ。神武寺に向かいますが、その前に七諏訪神社に寄ります。

    七諏訪神社

    七諏訪神社には伝説があります。

    この地の大沼に住む7つの頭を持つ大蛇の悪行三昧で村人達が困り果てていた所に、またしても!スーパースター行基がたまたま東大寺勧進の為、この地を通ったので、村人達は、なんとかして欲しいと頼み、行基は、十一面観音を彫り、小舟に乗って大蛇に近づき諭した所、大蛇は改心し、以後は万民を救う神になった、そういう伝承です。

    その十一面観音を祀ったのが当時の長尾善応寺、今の法勝寺です。そして、大蛇を祀ったのがここ、七諏訪神社なんです。頭1つに1つの諏訪神社ということで七諏訪神社なのですが、現存するのはここだけだそうです。

    さて、七諏訪神社の後は、本日二山目の神武寺です。724年、行基が聖武天皇の命により十一面観音、釈迦如来、薬師如来の3つの仏像を彫り、ここに祀ったのが始まりです。

    724年当時とまでは行かないと思いますが、このような、とても魅力的な表参道を行きます。

    表参道を歩くと直ぐにお気付きになると思いますが、薄っすらと緑色の岩なんですね。第三期ですから6500万年〜340万年前に主に海底火山の噴火によって出来た緑色凝灰岩とのことです。海の底だったんですね。

    登り詰めると本堂などありますが、本堂は立入禁止、が、1598年の棟札がある薬師堂はお参りできます。

    神武寺の表参道
    神武寺の薬師堂

    神武寺を下って古代東海道に戻り、先に行くと、源義朝館跡、法勝寺と五霊神社があります。

    五霊神社、1141年~1160年に、源義朝館内に創建。大イチョウが見事でした。
    法勝寺、行基の伝説がある古寺

    源義朝館跡を後にし、いよいよ、本日の三山目、船越峠です。

    三浦半島縦走尾根、ここを切り通す。現在はご覧の通り、トンネルです。
    船越の切り通し、トンネルが出来る1929年まではこちらがメイン。フェンスとマンションが無かったら良かった。

    スパっと切り通されて、緑色凝灰岩が露呈しています。

    船越切り通しで三浦半島縦走尾根を越えたら、一気に海まで下ります。

    田浦の海、この背後が船越新田

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    如何でしたでしょうか。

    実走してみて、やはり、本命かなと思いました。理由は、一番楽だったからです。山は名越切り通しと船越切り通しだけ。その2つも峠越えは比較的に楽でした。

    それともう1つ思ったのは、都から、つまり西から行った場合は、鎌倉から名越切り通しを越えて、田越川を遡り、船越峠で船越し、田浦の海から船で上総に行くルートで良いと思うんですが、逆に、東から来る場合は、三浦半島のどこに船が着くか分かりませんね。恐らく、走水に着いたり、大津に着いたり、田浦に着いたりしたんだと思います。が、何れにせよ、田浦からこのルートを逆に行き、鎌倉に向かってたんだと思います。名越切り通し手前の日蓮乞水が、その証拠ではないかと思うのです。日蓮乞水と猿島の伝説は完全に繋がってますね。同じく1253年ですから。

    2019年2月23日土曜日

    船越ルート、三浦半島の古代東海道、古代東海道

    三浦半島の古代東海道シリーズ、第5弾です。

    第1弾は実走無しの全体説明、第2弾は六浦ルート、第3弾はやまなみルート、第4弾は走水ルートを行きました(続きはこちら)。

    と、言うことで第5弾は、私的本命!船越ルートです。

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    まずは地形図を見てください。

    地形図、主要3ルート入り。赤が船越ルート本ルート、オレンジが同ルートの榎戸ルート。
    地形図、船越峠。薄緑色線が三浦半島縦走尾根。その東西で川が迫り、この峠さえ越えれば船で行ける。

    幾つかお気付きになるかと思いますが、このルートの特徴として、
    • 三浦半島の付け根であり、相模湾から東京湾へは最短距離
    • 田越川が作った谷がかなり奥まで行っていて、且つ、東京湾側にも名も無き川が迫っているので、三浦半島縦走尾根を、"船越し", あるいは船継ぎさえすれば船で行ける。
    ここで、船越という地名の由来について、このサイトによれば、全国に50以上認められ、内、1/3が地名由来があり、内、半分は、地峡での船陸送、あるいは船継ぎが由来であったそうです。

    次に、明治初期古地図を見て下さい。言えるのは、

    古地図、追分部で分かれるがどちらも片実線片点線の村道レベル。南の方は田浦に至る船越ルート本ルート、北側は榎戸ルートで、こちらは近世の魚荷道。

    • 田越川沿いから船越峠を越えて田浦に行き着く村道レベルの道が、明治のごく初期(≒ 江戸期 ≒ 中世 ≒ 古代)に認められる。
    • 法勝寺の少し東から北東に別れ、六部ヶ入坂を経由して榎戸に至る道は江戸期、魚荷道と言われ、相模湾で撮れた魚貝を、田越川を遡上し、この道を行き、江戸湾に抜け、江戸湾から船運で江戸に運ぶ道であった。
    更に、
    • 本ルートの南の丘陵に4世紀の長柄桜山古墳があり、この古墳は房総半島の古墳群との共通性が認められる。
    • 上総御曹司と言われ、頻繁に三浦半島と房総半島とを行き来したはずの源義朝の館はこのルートにある。
    • 岩殿寺、延命寺、神武寺、法勝寺の前身である正覚寺と、奈良期の古寺がこのルートにはある。
    と、言うことで、このルートが三浦半島の古代東海道の本命であり、東海道を東進し、三浦半島の付け根、最もくびれた部分の田越川を舟で遡上し三浦半島縦走尾根を船越し、あるいは船継ぎし、分水嶺江戸湾側の名も無き川を下り江戸湾に出、房総半島の富津に渡っていたと私は考える訳です。

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    鎌倉まで輪行。西口を出て武蔵大路を南へ。六地蔵を東に折れ大町大路に入ります。この大町大路が古代東海道です。小町大路との辻を過ぎたら八雲神社に寄ります。ここも頼朝以前の古社。


    八雲神社、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光により創建、1083年

    八雲神社に参拝後、現代の県道311号、中世の大町大路、古代の東海道を東進します。

    安国論寺を過ぎ、JRの踏切を渡って直ぐ左折の細い道が古代東海道なんです。


    この住宅街の何てことない細道が古代東海道。その証拠に、この写真では拡大しないと見つけにくいが、日蓮乞水がある。日蓮乞水は、第4弾で紹介した日蓮の伝説の続きだ。1253年に、日蓮が鎌倉に布教に行くので、安房国南無谷から海に出たところ、風が次第に強まり、ついには時化になって、船底に穴が開き海水がたまり始めた。日蓮は船の舳先に立ってお題目を唱えた。すると不思議なことに船底の穴が塞がれ浸水がおさまり、船は猿島へ漂着した。その後、日蓮はこの地に来てのどの渇きを覚え、持っていた杖を地面に突き刺したところ、滾々と水が湧き出たという。そう、つまり、ここは房総と鎌倉とを繋ぐ道だといううこと。

    この先、またもや踏切を渡って線路沿いに進み、急坂を上って名越切り通しへと入っていきます。


    切り通し1
    切り通し2
    切り通し3
    切り通し4

    名越切り通しで何を切り通しているかというと、現代の鎌倉市と逗子市、嘗ての鎌倉郡と三浦郡の境界尾根を切り通しているわけです。鎌倉の中から進み、壁のように立ちはだかる境界尾根を切り通し向こうに行く。つまり、鎌倉はここまで、ここから先は逗子なんです。よく、鎌倉は三方を山に囲まれ・・・と言われますが、東はここなんですね。

    境には墓場があります。ここ、名越切り通しもそう、墓場なんです。驚くことに今でもここに火葬場があります。この地は1000年を超えて葬送の地なのです。

    さて、名越切り通しから亀ヶ岡団地を抜け、横須賀線沿いに進むと721年開基の岩殿寺があります。


    山門
    空海が爪で彫ったという爪彫り地蔵
    元、海前山の山号の通り、逗子の海が見える。
    観音堂
    奥の院岩殿観音、行基が岩肌に十一面観音を彫った。

    行基も花山法皇も後白河法皇も頼朝も通ったお寺です。

    続く

    2019年2月17日日曜日

    続き、目黒、名所江戸百景

    前回の続き

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    さて、広重に成り代わって今の名所江戸百景を確認し終えた所で、江戸庶民に倣って目黒観光を楽しみたいと思います。

    やはり、入りのルートは、日本橋から来たとした場合、東海道を三田まで来て、三田3丁目の丁字路から聖坂を上がり、東海大学高輪台高校で天神坂に入り、白金、目黒と来て、行人坂を下ってエリアに入るルートでしょう。



    太鼓橋を渡って、突き当りが岩屋弁天のある蟠龍寺です。

    この辺りの寺社は全部江戸名所図会に描かれています。蟠龍寺もそう。岩窟の中にある岩屋弁天が有名だったようです。江戸名所図会には、空海作と記載されてます。ついでに言えば、本尊は円仁作だと書いてありました。マジすか?!

    岩屋弁天

    さて、江戸庶民は次に蛸薬師に行くはずです。蛸薬師こと成就院も江戸名所図会に描かれた名所ですが、何が名所かと言うと、信じて願えば何でも治るでお馴染みの、"おなで石"ですね。老中松平定信が、イボが取れたとその効果を絶賛しました。

    蛸薬師こと、成就院。江戸名所図会と御本堂の向きが違いますね。
    江戸名所図会の蛸薬師堂

    でも私的にはそう言えばここは薬師さんだということと、江戸名所図会を見たらなんとナント!!!金精様があるじゃないですか!!!!!また、蛸薬師の由来が、円仁が若い時から目が悪かった為、薬師さんの小像を肌身離さず持っていて、それがご本尊の元になっているという話も正に産鉄の話であって、ここ蛸薬師にも、例え消そうとしても決して消えない、産鉄という土地の記憶が染み出しているのが垣間見えて良かったです。

    お隣の安養院も江戸名所図会に描かれた名所で、ここは寝釈迦と呼ばれた涅槃像が名所の所以のようです。

    安養院

    安養院を参ったらいよいよ本命のお不動さんです。もうここはたくさん描かれています。ので、写真だけ載せて、詳しい説明は既述のようにwikiなど他に任せて次に行きましょう。

    目黒不動、瀧泉寺

    直ぐ西の古道を北に行き、目黒通りに出たら、今はもう無いですが、嘗てはここに金毘羅さんがありました。

    左のマンションの辺り

    金毘羅さんについては、ここに素晴らしいサイトがあります。

    また、ここで大発見もしてしまいました。ここに通俗荏原風土記稿の目黒村の記載があり、そこに、

    "目黒村の開闢年代は明かでないが、此の地には承和年間(末年?)慈覺大師の開基に係る瀧泉寺がある。承和の元年は今から一千七十九年前に當るから、其の頃は已に幾分か土地も開発せられて居たろうと思う。遠く其の以前に遡つては、人類学会雑誌に「上目黒村にて発見したる石棒の巨大なるもの二本あり、一は長さ三尺周(アマ)り一尺、一は長さ一尺九寸周り八寸。此の近地到る處に原人遺跡あり云々」とあるから、太古は人の棲住した地であろうと察せらるる。"

    と、ありました。やはり、産鉄なんですよ、産鉄。この石棒が蛸薬師の金精様でしょうか?!

    目黒通りを東に行くと大鳥神社です。酉の市で人気でした。

    大鳥神社

    大鳥神社から環六を南に、先ほどの行人坂、蟠龍寺、蛸薬師、安養院と行って、安養院の参道の脇にある外崎焦商店は嘗ての目黒飴桐屋です。

    嘗ての目黒飴、桐屋。飴屋は廃業したそうだが、この商店に代々引き継がれている。

    聖があれば俗もある、というのがこういったところの常識ですが、目黒には遊郭が無かったのです。こりゃいかん、目黒だけで帰るわけにはいかない、ということで、男たちは品川宿へ寄ってから帰ったそうです。その様子がうたわれています。

    「言訳けの おみやを召せと 桐屋言い」

    奥さんから、一体全体どこほっつき歩いてたの? と詰問された時の言い訳として、目黒詣の名物、目黒飴を買って帰りなさいと、目黒飴屋の桐屋に言われるという川柳です。

    江戸庶民に倣い、品川宿によって帰りましょう。

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    さて、帰り道に寄った東光寺と氷川神社もご紹介しておきます。

    東光寺
    氷川神社。鳥居のすぐ奥にある二本の大木、これは鳥居の原型では無かろうか。だとするとかなり古そうだし縄文の香りもしますね。だからこれも鉄ですね。

    それにしても、意外や意外、鉄分が多かったですね。こんな大都会の真ん中の高級住宅地に。消せないんですね、土地の記憶は。

    これだから止められない、時空を超えたexplorerは。

    それではまた。

    目黒、名所江戸百景

    安藤広重の名所江戸百景を巡る旅を復活させたいと思ってます。

    名所江戸百景巡りは、私の時空を超えたExploreの初期のテーマで、船堀在住時は頻繁にExploreしていたんですが、大体回ったということもあり、以降、実施していませんでした。

    が、輪行せずに行ける近場も、テーマとして持っておきたいと思う(前回の三浦半島の古代東海道、走水ルートは、衣笠まで輪行で2時間掛かりましたし)ようになったことと、あれから私も色々なテーマを熟し、新たな視点を追加出来そうだということもあって、復活させたいと思います。

    記念すべき復活第一弾は、(近場の)目黒です。

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    目黒は全119景の内、5つを占めています。
    • 春 23景 目黒千代か池
    • 同 24景 目黒新富士
    • 同 25景 目黒元不二
    • 秋 85景 目黒爺々が茶屋
    • 冬 112景 目黒太鼓橋夕日の岡
    それにしても、隅田川は別格として、あの上野と同じく5景もあるんですね。

    上野は日光街道も通る交通の要衝で、また、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺を擁する町。門前町は大いに栄えました。江戸一番と言っても過言ではありません。

    だから上野が5景あるのは納得できます。が、何故、目黒ごとき(他意はありません、上野に比して、の、意味です。)が5景も?

    だって見てください、1858年の古地図を。田畑と百姓地ばっかりじゃないですか!

    1858年の、広重に描かれた名所5景と瀧泉寺

    下図は江戸の範囲を示す地図です。どこからどこまでが江戸なのかというのは、時代によって変化してます。それでは不便だということで、1818年に範囲を決めようということになりました。

    東京都公文書館から拝借・・・

    黒い線が町奉行の管轄範囲で、これが1つの江戸。赤い線は寺社奉行の管轄範囲で、もう1つの江戸範囲となります。赤線の方が大きいですが、"基本、江戸は黒線なんだけど、まぁ、赤線までは江戸って言っても良いかな", そんな感じでしょうか。

    はい、お気付きだと思います。南西部分が変ですよね。黒がはみ出してる。実はここが目黒なんです。

    この地図を見れば分かる通り、目黒は、本来なら江戸ではないんですが、何か理由があって、はみ出してでも江戸にしたんですね。その理由というのが、1858年の古地図でも、田畑と百姓地の中に忽然と描かれている、目黒のお不動さん、瀧泉寺なんです。

    詳しくはwikiなどをご確認頂ければと思いますが、目黒御殿、富くじ、目黒飴などなどのキーワードで表されるように、江戸時代は隆盛の極みでした。

    だから、江戸の範囲をはみ出させてでも、目黒を江戸にした、それ程の名所だった、だから広重も5景も描いた、そういうわけです。

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    この瀧泉寺の縁起なんですが、目黒区の説明によると2説あって、慈覚大師円仁により開基されたのは同じなんですが、円仁は、794年に下野国で生まれ、9才で出家し、808年、15才の時に、比叡山に上りましたが、第1説は、この時に目黒で一泊し、夢に出た神人を翌朝彫り、目黒の地に安置したのが瀧泉寺の御本尊であり、瀧泉寺の始まりというもので、第2説は、この時は仏像は彫らず、その後、遣唐使で唐に行った時に長安の青竜寺で見た不動明王が、この時に見た神人と同じだったということで、帰国後早速彫り、安置したというものです。第2説なら、847年以降ですね。

    でも不思議ですね。第1説の場合、東山道の下野国から比叡山がある都までは普通東山道で行きます。武蔵国は通りません。808年なら武蔵国は東山道から東海道に所属変えになってますから(東山道のままだとしても、わざわざ武蔵国には連絡道で行かなければならず、更にその先の目黒まで行くには不便極まりない。)

    東山道と瀧泉寺の位置関係、東山道から目黒まではえらい遠い

    ちょっと考えづらい。

    蛸薬師こと成就院、安養院の開山と、瀧泉寺の堂宇建立は、円仁が唐から帰国後この地を訪れた858年です(円融寺は853年)。

    このことから、15歳の時はこの地は通らず素直に東山道で都に行き、唐から帰国後にこの地を訪れ、瀧泉寺、成就院、安養院、円融寺と、次々と寺を開いていったのではないかと、私は思います。

    では何故、目黒の地に来たのか。

    それは、やはり産鉄でしょう。

    別所、柿木坂という地名、衾は塞坐大神(ふせぎますおおかみ)から転化した地名という説があります。東光寺があり、自由が丘にある白山神社は、その東光寺にあったものです(この東光寺は、元は東岡寺で、吉良冶家が、その嫡子祖朝の追福の為、1365年に創建したので、産鉄とは無関係に思えますが、白山神社もそこにあったというのが果たして偶然なのかと思ってしまいます。)。そもそも目黒の黒は鉄の古語、クロガネのクロかもしれません。

    また、下記写真は、目黒川と蛇崩川の合流点ですが、水酸化鉄でオレンジ色に染まっていました。目黒川を遡れば産鉄地名の代田があり、その代田と共に産鉄由来のダイダラボッチの足跡として伝説が残るのは呑川柿の木坂支流です。

    目黒川と蛇崩川の合流点。手前が目黒川、奥から合流してきているのが蛇崩川。ここは特にオレンジが目立つが、目黒川も所々オレンジが見られ、両河川共に、水酸化鉄が採れると思われる。

    奥州の蝦夷達を、彼らが持つ優れた産鉄技術で鉄を作らせる為に、ヤマト王権は、日本全国に移住させました。彼らを教化、慰める秘密の任務を持ち巡礼の旅に出たのが円仁だったのではないでしょうか。

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    話を名所江戸百景に戻しましょう。

    春、25景、目黒元不二、1858年
    春、25景、目黒元不二、2019年。跡形も無いですが、抜け感は雰囲気が残ってますかね。画面右のケヤキの向こう、このマンションの駐車場に富士塚があり、マンションが無ければ富士山が見えたわけです。

    春、24景、目黒新富士、1858年
    春、24景、目黒新富士、2019年。広重の絵の川は三田用水だと思われます。と、なると、別所坂からこれくらい離れないといけないのです。左のマンションの所に富士塚があったことになります。右のマンションやら何やらで富士山は見えません。

    この2景は2つで名所だと思います。その名の通り、元不二が先で新富士が後、新富士は1819年に出来て、広重が名所江戸百景を描いたのは1858年ですから、その頃は2つ共あったんですね。1つだけだと他にも幾らでもあったでしょう。が、目黒川が削った谷を西に見る崖に、だからさぞかし富士山がよく拝めた所に、富士塚が2つもあったんですから名所になったんですね。

    青マーカから西に延びている黒線が富士山の方向

    秋、85景、目黒爺々が茶屋、1858年
    秋、85景、目黒爺々が茶屋、2019年。左のマンションが3本の松がある崖か。今でも切り通しっぽくなっていて若干雰囲気は残る。右手の庭木茂る所が茶屋で、止まれの向こうのマンションが東屋か。にしても、清掃工場でミレーの田園は見れない。

    爺々が茶屋の方は、家光が鷹狩の際、寄った茶屋だということなんですが、もし本当にそうだとしたらそりゃ名所なんですが、将軍がふらっとその辺の茶屋に寄りますかね?

    まぁでも爺々が茶屋をタイトルにしてるわけですからやっぱりこの茶屋が名所だということになり、茶屋が名所なら将軍が寄ったから名所だということになりますかね。ちょっと今回は調べ切れませんでした。

    ここまでの3景は、目黒の崖から富士山を望む眺望を題材としたものでしたが、個人的には爺々が茶屋が一番好きです。既述のようにこの坂を下りたら田畑だらけなわけです。夕日に照らされ黄金色に輝く稲などが美しいですね。ミレーっぽい。

    春、26景、目黒千代が池、1858年
    春、26景、目黒千代が池、2019年。本当ならもう少し後退して崖斜面に行かなければならないが、private areaなので入れない。

    千代が池はなんと言ってもこの絵にあるように段々になった滝を中心とした庭園が名所だったのです。ここは肥前島原藩松平主殿の屋敷だったわけですが、抱え屋敷だったが故に一般の人も入れたようです。

    ピンを打った所が松平主殿の下屋敷

    冬、112景、目黒太鼓橋夕日の岡、1858年
    冬、112景、目黒太鼓橋夕日の岡、2019年。橋が同じ場所に残ってるので雰囲気はある。

    さて、最後は何とも風情たっぷりの、目黒太鼓橋夕日の岡です。いやぁしかし、広重ブルーが雪に映えますね。

    これは、"目黒の太鼓橋から夕日の岡を望む"と、読んで下さい。既述のようにここは西側が開けてますから夕日が良く見えるんですね。夕日の岡はよほどの名所だったらしく、広重自身も他のシリーズで描いてますし、色々な人が描いています。

    だからか、夕日が見える崖から西向きの眺望とは逆向きで、夕日ではなく夜で、しかも雪景色を描いたのでした。

    と、まずはこの夕日の岡が名所の所以。

    もう1つは石橋、太鼓橋です。石橋は長崎を中心に、九州では珍しくなかったようですが、江戸ではここだけじゃないでしょうか?! 非常に珍しかったようです。

    上海生活が長い私。この橋を見ると上海がある江南地方の水郷にある橋を思い出します。

    上海七宝の蒲匯塘橋、1518年架橋、1864年修築、現在に至る。

    (続く)